職場に寄って夕方からではあったが残りの仕事を済ませ、ようやく渚は帰路についていた。 今から家に帰って夕食を作る気力もなく。コンビニで何か買っても良かったが空腹に耐え切れずに結局近くの店で適当に済ませて、帰る頃にはもうすっかり遅い時間になっていた。 ふう、とため息を零しながら夜道を歩いていく。辺りを照らすものは街灯と月明りくらいしかなく、渚の他に人影も見当たらない。 けれどそんな中に、闇夜とは真逆の色をした車を見つけて、思わず渚は足を止めていた。 (――あれ、は) 否、正確にはその車のすぐ傍に立つ人物に、だろうか。 (引きかえ、そうか) 遠回りになるが違う道で帰ろうか。葛藤は一瞬。だがそれは決断を下したのが早かったからではなく、渚が向こうに気付いたとほぼ同時に、向こうもこちらに気付いたから。 視線が一瞬絡み、先に逸らしたのは渚だった。俯くように足元に視線を落としながら、足早に横を通り過ぎる。 道は、狭い。車のすぐ横を通り過ぎながら、その手を伸ばしてくれば容易く自分は捕まってしまうだろうなと思いながらも、向こうがそれを実行することはない。 安堵の息か、溜息か。漏れた吐息はどちらのものか、渚にはよく分からなかった。 「…渚さん」 なのに急に名前を呼ばれて、思わず足が止まる。けれど彼の方を振り返るには戸惑いがあり、しばらくそのまま立ち尽くしていた。 「…すみません。もう関わらないようにすると言っておきながら、早速関わってしまって」 「いえ、それは…」 「でも不可抗力、です。偶然事件現場に出くわしちゃったので。…今後はこんなことが起きないよう、気をつけますから」 「…待ってください!」 言うだけ言って、早々に立ち去ろうとしたのに。 何故か、安室が引き止めるものだから。まるで縫い付けられたかのようにそこから、足が動かせない。 「……」 「…弁解くらいさせてください、せめて」 しばらくの沈黙の後ようやく振り返れば、彼は――安室は眉根を寄せて、少し侘しげに微笑んでいた。 渚は視線を泳がせながらも、そのまま立ち去ることもできず、かと言って彼に言葉を返すでもなく。所在なさげに立ち尽くしたまま、先に安室が口を開いてくれるのをただひたすら待っていた。 「…ああそう。先ほどの事件、被害者の先生ですが…あれから無事意識は回復したそうですよ。もう問題ないそうです」 「そう、ですか」 それは、知っている。 知ってはいるが、自分の知るのと同じ未来になるとも限らなかったから。だからどこか冷静な声で頷いた後、ほっと小さく息を吐いた。 その様子をじっと見つめられていた気がして、渚は安室に視線を返したが、今度は逆に視線を外された。先ほどから、すれ違ってばかりだ。 「…用は、それだけ、ですか?だったら、私は帰ります…」 「いえ、それからもう一つ」 そんなものは無視してさっさと立ち去ってしまえばいいのに。 別に安室に手を掴まれて逃げられないわけでもないのに、それでも何故か、彼の声には渚を引き止める力が働いているようにさえ思えた。 だが引き止めるなら引き止めるで、早く用件を言ってくれればいいのに。珍しく歯切れの悪い安室に非難の目を向ければ、ようやく彼の重い口が開いたようだった。 「…すみませんでした。勝手にあなたの言葉を、嘘だと決めつけて」 何のことか分からずに一瞬眉を寄せたものの、すぐにそれが先日のことを指しているのだと気付いて、渚はまた視線を泳がせた。 居た堪れなさに唇を噛むが、思えばあんな突拍子もない話を信じてくれと言うほうが無理な話なのだ。 自分だって、同じような状況で言われたらそう思うに決まってる。だから安室は悪くないし、彼が謝る必要なんて、ない。 「…まさか、信じたんですか?あんなファンタジーみたいな…話。安室さんってもっと現実主義かと思ってましたけど、意外な一面を見ちゃいました」 「でも嘘じゃないんでしょう?」 あれは冗談だと、笑い飛ばして誤魔化そうとしたのに。 どうしてそんな真剣な眼差しでこちらを見てくるのか。まるで心臓を鷲掴みにされているようで、苦しい。 「…言ったでしょう?渚さんは考えてることがすぐに顔に出て分かりやすいと…あなたは隠し事に、向いてないのだと」 「……」 「そう。…思えば、嘘のつけない性質のあなたが…僕の目をまっすぐ見ながらそんな嘘なんてつけるはず、なかったんですよ」 よく考えればそんなことは分かっていた。けれどあまりにも現実離れした内容は、事実か否か冷静に分析するよりも先にありえないと切り捨てる方が、逃げ道に走る方が、楽で。 けれどそれが彼女をどれだけ傷つけたかなど――それを想像するのは、こんなにも容易い。 (…本当に、俺はこの人を傷つけてばかりいるな) こことは違う世界から来たと告げた彼女。そして彼女のいたところでは、この世界について描かれた物語があって、だからこの世界のことを知っていたとも。 そうそう簡単に信じる事はできないが、もし。仮に。 「――あなたのその言葉をもし、信じるとしたら」 確かに、その言葉が真実ならこれまでの疑念に納得がいく。 記憶喪失と思われていたのは、おそらく彼女の言う情報がこの世界のものと一致せず、身元が証明されなかったから。現に、渚は否定こそしなかったものの、自ら記憶喪失だと告げたことはなかったように思える。 そしてどう考えても一般人でしかありえない彼女が、安室の正体に勘付いているような奇妙な動きも。安室の探し物の正体を知っていることも。 その全てに説明がいく。だが、それは同時に別の疑問が浮上するもので。 「…あなたにとって、この世界は…僕らの存在は、虚構のものでしかないということですか?」 一体何に、怯えているのか。 もし、肯定されたら。これまで己が培ってきたものが、信じてきたものが、全て虚妄であったと突きつけられるのを恐れているのか。 けれど彼女の返答は、それに当てはまることはなく。 「…そう思えたなら、どれほど楽だったでしょうね」 ふ、と。吐息と共に言葉を紡いだ口元は歪み、まるで嘲笑のように。 けれどそれは彼女自身に向けてのものだったようだ。細められた目に、寄せられた眉。切なげに微笑むその姿に、安室は目を離せずにいる。 「たしかに、最初はそう思ってましたよ?…ここはフィクションの世界で、紙面上の世界で…その世界の人々に直に会えて、テンション上がって」 「……」 「…だけど、みんなと向き合って、直に触れ合うと…たしかにこれは現実だったんです。紙面上からは分からなかったこと、こっちでたくさん知りました」 例えば漫画では描かれていなかった些細な癖。 思いもよらなかった行動をしたり、想像と少し違った性格の差異に振り回されたり。 食事でよく食べているものを見かけると、それが好きなのだろうかと思ったり、嫌いなものを見ると若干顔を顰めていたり。誰も彼も、紙の上に描かれただけでない、人間らしい一面を携えていた。 確かにこの世界の人々は、ここで呼吸して生きている。 「逆に、聞きますけど」 表情を引き締めた渚の視線は、まっすぐに安室へと向けられる。安室も渚から視線を逸らさないまま、ようやく、二人の視線がしっかりと絡んだ。 「安室さんは、自分がこれまで歩いてきた道が誰かに指定されたものだと思うんですか?自分で決めて進んだと思ってたものが、本当は予め書かれた物語で…それに従ってただけだと、本当にそう思ってるんですか?」 じっとこちらを見つめる渚の瞳は、まるで射貫くように強く、深く。 その真摯な黒い色に、まるで引き込まれそうだった。けれどそれに応える安室の蒼の瞳もまた、強い色を放つ。 「――そんなわけ、あるはずない」 国家の安寧のため、重く険しい道を進んだのも。 そのために多くのものを犠牲にし、喪い、嘆き悲しんだことも、苦しんだことも。 だがそれも全て、この手で選び取った道だ。 他の誰に決められたものではない。それが己の矜持だ。 |