冗談じゃない、あの鬼上司!
近くに人の影はなく、街灯の明かりのみが辺りを照らす闇夜の中。誰も聞いてないのをいいことにぶつぶつと上司の悪口を呟きながら、渚は荒い足取りで家路についていた。

(こちとら仕事の山!山!山を片付けてるっていうのに、くだらない理由でグチグチ言って!怒りたいんならせめてパッと怒って早く解放してよ!おかげで無駄な時間過ごしちゃったじゃない!)

結果として終電より前に帰れたのはせめてもの救いだった。
もう精神的にも体力的にもへとへとなので、早く帰ってベッドに潜りこみたいところだが、この苛々を解消しなければ眠れそうにもない。
ああ、そうだ。ならばせめて撮り溜めたテレビを見よう。明日は休日だから、遅くまで起きていたって構わない。
ついでに酒を飲んでもいいかもしれない。たしかつまみも少し残ってたはず。おいしいもの食べて、おいしいもの飲んで、楽しい思いをすれば気分も晴れるはずだ。
一度そう考えると、先程までの上司への怒りがすっと消えてくようだった。代わりにニマリと上がる口角を押さえるのに必死である。まあ、誰も周りにいないのでこんな顔をしてるところを見られる心配もないのだが。

(ああ、現実逃避、楽しいなあ)

足取りは軽くなり、ついにスキップさえ始めそうな勢いだった。我ながら非常に単純である。

こつ、こつとコンクリートに軽く当たる靴の音が聞こえた。

(――ん?)

最初は自分の足音が反響でもしてるのかと思ったが、よく聞けばその出所はもっと後ろの方のようだった。
渚が立ち止まれば、ほんの少し遅れて足音も止まる。渚が歩けば、一歩遅れてまた鳴り出す。自分のものじゃない、と気付くのに少しかかってしまった。自分のでなければ、誰のものだ。
ふと、今朝ニュースで見た通り魔事件のことが頭を過ぎった。事件があったのは割と近所で、まだ犯人は捕まっていないと言っていた。なんだか嫌な予感がする。無意識の内に、足を速めていた。

(や、やだ…ついてきてる…!?)

早足が、更に早くなり、ついに鞄を抱えて走り出した。
足音は聞こえなくなったが、それはついてこなくなっただけなのか、風音に紛れて聞こえなくなっただけなのか。定かでない。
日頃の運動不足が祟って、徐々に息が切れ始め、渚は一度街灯の下で立ち止まる。疲れたからか、恐怖からか。ガクガクと足が震える。それを叱咤して、渚は再び走り出そうとした。

それが叶わなかったのは、後ろから掴んできた腕のせい。

「やっ……!!」

狭い路地に引きずり込まれ、強い力で地面に叩きつけられる。
はっと上を見上げれば、自分を見下ろすその男の手には、影になってよく見えないが何か金属の棒のようなものが握られていて。

ガツン、と強い衝撃が頭に走る。一度、それから二度。カッと頭が熱くなり、だんだん意識が朦朧としていく。
ああ、このまま死ぬのかな、せめて最後に今日放送分のアニメ録画だけ見たかったな――なんて緊迫感のないことを考え、そこで意識は途切れた。

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