窓の外では空が黄昏始めていた。 誰かの見舞いの帰り道だろうか、ちょうど傍を歩いていた親子連れが、空を指差して「もうお空が真っ赤になっちゃったから家に帰らなきゃね」なんて笑って話している。それを耳にしながら、渚は所在なさげに窓の向こうを眺めていた。 (そういえば子どもの頃は、夕暮れになると流れる音楽が家に帰る合図だったっけ…) 懐かしいものを思い出して思わずクスリと声を漏らして、それから無性に寂しくなった。 今の親子連れも、周りの人々も。彼らは皆帰る家があるのだろう。渚にもある。けれどそう簡単に帰れる場所ではない。『こちらの世界』で住んでいる家はあるけれど、あれは決して自分の帰る家ではないのだ。 「…帰りたい、なあ」 「すみません、お待たせしちゃったみたいですね」 「え!?」 ぽつりと呟いた言葉に、まさかの返答があって。渚が驚いたように窓から視線を戻して声のした方を向けば、いつの間にか目の前には安室が立っていた。 「安室さん、いつの間に!?あ、事件の方は…!」 「事件は無事解決しましたよ。長くかかってしまったから待つのにも疲れたでしょう」 「あ、いえ、そんなことは…」 帰りたい、という今の呟きをはたして彼に聞かれただろうか。もし聞かれたとしたら、きっと意味を履き違えて捕らえたに違いない。 ようやく事件を解決して迎えにきてみれば、その相手が愚痴を言っているような場面に出くわしたりして、気分を害さないわけがない――そう思いながらも、では愚痴でなければどういう意味だったのかと問い質されても答えようのないことだ。ここは黙ったままでいようと、苦笑して渚はソファから立ち上がった。 「じゃあ、帰りましょうか」 「そう、ですね」 どちらからともなく歩き始める。 途中で毛利一家や高木刑事とも合流し、ようやく一行は病院を後にした。外に出ればもうすっかり日は沈みかけていて、照らし出された影が長い帯を引いている。 夕暮れというのはかくも心を不安定にさせるものか。渚は結局現場には居合わせなかったが、先ほどの事件の概要もその動機も知っている。事件の後味の悪さが、黄昏と相俟ってより一層身に染みるようだった。 「しかし見舞い客を毒殺とはな…」 そんな感情に陥ったのは渚だけではなかったようだ。小五郎は眉をひそめて吐き捨てるようにそう呟き、その横で蘭がどことなく辛そうな表情を浮かべている。 「正直呪われてますよ、この病院…。前にも色々あったみたいだし…」 「色々?」 「ええ。アナウンサーの水無怜奈が入院してたって噂になったり、怪我人が押し寄せてパニックになったり、爆弾騒ぎもあったとか…」 「た、高木刑事!もう警視庁に帰んなきゃいけないんじゃない?」 高木の言葉を遮るようにコナンが慌てて口を挟む。その言葉に促され、一足先に別れようとした高木を、安室がさりげなく声をかけることで引き止めた。 「じゃあ楠田陸道って男の事とか知りませんよね?」 「楠田陸道?…ああ!そういえばその爆弾騒ぎの何日か前にこの近くで破損車両が見つかって…その車の持ち主が楠田陸道って男でしたよ!」 安室としてはもうここでこれ以上大した収穫は見込めまいと思いながらも、一応尋ねてみようという程度の気持ちだったのだろう。だが予想外にも高木の口から情報が飛び込んできて、安室の目が驚いたように一瞬見開かれる。 コナンが慌てて高木を止めようとするが、その様子に彼が気付くことはない。 「この病院の患者だったそうですけど、急に姿をくらましたらしくて…」 「…行方知れず、ですか…」 「ええ…それにしても謎の多い事件でね、その破損車両の車内に大量の血が飛び散っていて…1mmに満たない血痕もあって、鑑識さんが言うには……っと」 流石に喋りすぎたと思ったのだろう。高木は不自然なところで会話を止めたが、そこまで聞けば十分だった。「それじゃあお先に失礼します!」と駆けていく彼の背中を見送りながら、安室は何かを察したように僅かに口角を持ち上げる。 その横でコナンが苦々しい面持ちで安室を睨みつけており、またその一連の様子を渚もじっと見つめていた。 「じゃあ僕も帰りますね。あ、渚さん、良かったら家まで送りましょうか?ちょうど車で来てますし…それに色々あって疲れてるでしょう?」 「え!?いえ、大丈夫ですよ、そんな、悪いですし…」 「遠慮しないでください。…というのは建前で、僕がもう少し渚さんと一緒にいたいだけなんですけどね?」 急に彼の関心がこちらに向いたことに驚いて、渚は反射的に首を振ってその申し出を断ろうとしたが、それしきで諦める男ではない。 安室の発言に蘭が色めきだったように顔を綻ばせ(立ち直り早いね蘭ちゃん!?)、「じゃあ私達も帰りますね!」と小五郎とコナンを伴ってさっさと帰ってしまった。 コナンはまだ何か言いたげな表情で引っ張られる蘭の腕に抵抗していたようだが、やがて諦めた顔で去っていく。それでも警戒するように何度かこちらを振り返っていたのを視界の端に捕らえながら、自分を助けてくれる人がいなくなったことに心の中で涙した。 安室に送ってもらうということはすなわち、二人きりになる、ということで。 (どういう顔したらいいのか、分からない) 決して叶わぬと分かりきっている想いを自覚して、彼の隣にいるのは苦しくもあり、だというのに心の片隅で胸踊る自分がいるのもまた事実で。 普通に振舞えばいい。ただそれだけなのに。思えば彼に想い抱く前――いや、もっと以前。彼に探られるように近づかれるまで、どのような態度で安室に接していたのか、今となってはもう思い出せない。 だからその申し出自体を、その状況に陥ること自体を避けたいのに、どうやっても安室は退いてくれそうにないから。 (まあでも、疲れてるのは事実だし…) そう、必死に自分に言い聞かせて。 にこにこと微笑みながら渚の返答を待つ安室に内心溜息を吐きながら、「お願いします」とその申し出を受け入れたのだった。 *** (それにしても高木刑事は、口が軽すぎだと思う) 安室の運転する車の助手席に座り、取りとめのない会話をしながら、渚はぼうっとそんなことを考えていた。 元の世界で漫画を読んでいた頃は、まあでもそれは主人公であるコナンや読者に情報を伝えるためだから――と認識していたのだが、こうして現実として彼の口の軽さを前にすると、守秘義務はどうした警察と思わずつっこんでしまうのも無理ないことだろう。 だが安室に楠田陸道の情報が伝わったところで、渚としては特に問題があるはずもない。そもそもそれが正式な流れであるし、彼が積み上げた情報を元に真実を突き止めていく――ついに緋色シリーズの幕開けだと思えば、ファンとしてはむしろ待ち望んだ展開というものである。 だからむしろ今の心境としては「高木刑事グッジョブ」と親指を立てたいくらいだ。もちろんコナンにも安室にもそんなこと言えるはずないけど。 「渚さん、だいぶ調子が良くなってきたみたいですね」 「え?」 「病室で遺体を目にしたときは今にも倒れそうでしたよ。…今は少し、表情が柔らかくなってきてますから」 安室の指摘に、むしろ昼間に殺人事件があったばかりだというのにもうこんなに気が緩んでいる自分を叱りつけたくなった。不謹慎にもほどがあるだろう。 「ああ、すみません、そういう意味じゃないんです。むしろ良かったって言いたかったんですよ。あんな事件があったばかりで笑えというのも無理な話だとは思うんですけど」 「…すみません。私、いつも安室さんに心配と迷惑、かけてますよね」 「そんなもの掛けられてるつもりないですよ。それに謝られるよりお礼を言われる方が、嬉しいですね」 「…ありがとう、ございます?」 「どういたしまして」 あんまり安室が綺麗に笑うものだから、つられて渚も表情を緩めた。 その後「そうそう、そうやって笑ってる渚さんの方が素敵ですよ」なんていつもの調子で言うものだから、例によって本心ではないんだろうと思いながらも顔に熱が集まるのを防ぐことができない。 そんな渚の様子を横目で眺めていた安室はフッと笑って、それから信号が変わったことを確認してまた正面を見据えた。まったくもって余裕の表情を崩さないのがまた憎らしい。ずるい、と隣の彼に聞こえないように小さく呟いた。 「…あ、安室さん。そこの角を左に曲がってください。私のマンション、その先です」 「ええ、分かりました」 ウィンカーを出して左に。そこから少し進んだところで渚が「あ、ここです」と言えば、ほとんど振動を感じさせることなく車は静かに停車した。 「着きましたよ」 「わざわざ送ってくれてありがとうございました。…本当だったら、お礼にお茶の一杯でもって言いたいんですけど…」 「いえ、気持ちだけで十分ですよ。渚さんも疲れてるでしょうし…それに一人暮らしの女性の部屋に、夜お邪魔するというのも、ね。隠してる下心が溢れてしまってもいけませんし?」 「…いつも思ってたんですけど、安室さん私のことからかって遊んでません!?騙されませんからね!?」 心外ですね、と口を尖らせているが、渚の指摘通りに違いあるまい。なんでからかっていると突き詰めた自分の方が慌てているのか。納得いかないが、彼の余裕の態度を崩すことなんて自分にはできないと分かりきっているから、溜息を吐くくらいのことしかできなかった。 これ以上口を出しては藪蛇だと、渚はシートベルトを外してから軽く頭を下げて、もう一度送ってくれたことへ対する礼を言った。 「それじゃあ、おやすみなさい、渚さん」 「はい、おやすみなさい。…あの、安室さんの知り合いの楠田さんって方、早く見つかるといいですね」 本人が、というよりは本人に関する情報が、ではあるが。けれどそれは緋色シリーズの展開を望む一ファンとしての、ただの本音で。 深くは考えず、そう言って。それから渚は車を降りようとドアの方へと向き直った。 ああそうだ、とその背になにげない調子で声がかけられる。 「渚さんに一つ、聞きたいことがあったんですけど」 「はい?なんですか?」 「――赤井秀一という男を知ってますか?」 ビクリと、震えた肩に彼は気付いてしまっただろうか。 |