安室は渚の部屋に私物を置かない。
彼女の部屋に泊まったことは何度もある。多忙故に頻度としては多くないが、これからもきっとあるはず。だから少しでも置いてあると色々と便利だとは思うのだが、そうもいかない事情もあるわけで。
何故なら、安室透は潜入捜査官だからである。
そんな中で渚とこういう関係を持ってしまったのはあまり誉められたことではないだろうが、ともかく素性を隠すべき男である。安室の正体に繋がるようなものをあちこちにばらまくべきではないことは確かだ。
例えば日用品から唾液や毛髪でも検出されれば、そこからDNAの検査もできてしまう。自宅なら気を付けることはできても、ここではそうはいかない。彼女のことを信用していないという意味ではなく、いくら安室の事情を知っているとはいえ訓練されていない渚がそこまで気を回すのは難しいだろうという理由だ。それに普通の不審者相手ならともかく、彼女の部屋ではセキュリティーにも不安がある。

「…でも、着替えくらいはあったほうが便利じゃないですか?」

歯ブラシや櫛など、ちょっとした日用品なら持ち歩くなり使い捨てを使うなりでどうとでもなるけれど、服となるとそうはいかない。
そう思って渚なりに気遣ってくれたのだろうが、それでもやはり彼女の部屋に私物を置くのは抵抗があった。
それは何も自分の心配だけでなく、渚自身を心配してことでもある。それほどの仲だと知れて渚が安室の弱味だとバレるのも良くない。安室を害するために渚が人質にでもとられたらどうするのだ。
心配しすぎと言えばそれまでだが、リスクはできるだけ少ないほうがいい。

「だったら、一見安室さんのものって分からない感じにしたらいいんじゃないですか?シンプルなデザインで大きめのTシャツとかなら、私でも着れますし」
「…なるほど」

一理ある。それならばと承諾して、渚が着るという名目で購入したゆったりサイズの服を、彼女の部屋に泊まった際には使わせてもらっている。

――そして今日も、そのつもりだったのだ。
久しぶりに時間が取れたので渚の部屋に向かう旨を伝え、彼女からも了承のメッセージを受け取った。
だが部屋のチャイムを鳴らしたところで反応がなかったから、慌てて借りた合鍵でドアを開けて中に入った。
だが結局は、慌てるようなことでもなかった。渚はベッドで丸くなってスヤスヤと寝入っているだけだった。
安室は安堵したように息を吐いて、それから静かにベッドの端に腰を下ろした。僅かにシーツが沈む。
瞼を閉じたままの横顔をじっと眺めて、そっと眉尻を下げた。

(予定よりかなり遅くなってしまったからな…仕方ないか)

とっくに日付は変わってしまっている。
むしろ何時頃まで起きて待っていたのだろう。そう考えると申し訳なくて、起こすのも忍びない。

(このままそっとしておくか)

静かに立ち上がってスーツを脱ぎ、首元のネクタイを緩めた。
せめて着替えだけでもしたい。勝手に服を借りようかと思ったところで、ふと。見覚えのあった服に、安室の視線は再び渚へと舞い戻っていた。

「……」

安室の視線はそのまま渚に、否、彼女の着ている服に固定されていた。
見覚えがあるのも当然だ。それこそまさに、彼女の部屋に唯一置いてある安室の私物なのだから。

「……」

思わず頭を抱える。ムラムラと沸き上がった感情を、はたしてどう処理すればいいのか。
渚の体には大きいTシャツを一枚着ただけ。そこから白い太股が伸びている。下は穿いていないのか、短くて隠れているだけか。流石に下着は穿いているよな?つい気になって安室の手は無意識の内に剥き出しの太股に伸びていた。
する、と滑らかな肌に指をすべらせる。微妙な刺激がくすぐったいのか、渚が身をよじらせたことで、Tシャツの裾はずるずると際どいところまでめくれてしまった。

「う…ぅん、あむろさん…」

甘ったるい声で、渚が安室の名を零した。
だが起きた様子はない。どうやらただの寝言らしい。一体何の夢を見ているのか、へら、と幸せそうに頬を緩める渚に、安室は盛大にため息を吐いた。
これで狸寝入りじゃないとか、嘘だろう。煽るためにわざとやっているほうがまだ納得できるというもの。
もはやムラムラなんてレベルじゃない。すっかり目は冴えてギラギラとした光を携えている。

「…襲うぞ」

いや、襲わないけど。
流石に寝ている相手にそんなことをするつもりはない。敢えて口にすることで自分を戒める、いわば自制のためのものだ。
ただ仕事の疲れや久々に彼女の顔を見たこともあり、正直理性に自信がない。このままでは本当に実行しかねないと、安室は仕方なく渚の肩を揺さぶった。

「渚さん、起きて」
「んー…?」

鬱陶しそうに眉を寄せて、それからゆるゆると瞼を開ける。
ぼんやりとした瞳が安室の姿をとらえてしばらく。何度か瞬きする度に、焦点はくっきり合ってきたようだ。「安室さん…?」と声もはっきりしてきたところで、安室はふっと笑んで渚の頬に指を滑らせた。

「おはようございます。まぁまだ夜なんですけど」
「あれ、安室さんいつの間に…。もしかして私、寝ちゃってました?」
「ええ、それはもうぐっすりと。すみません、僕が伝えていた時間より大分遅くなってしまったから」

無意識の内に視線は時計へ。渚の視線もそれに追随する。
針の指し示す時間を見て「わあ…」と絶句していたが、遅れた安室を責めるようなことはなく、「遅くまでお仕事お疲れ様です」と労ってくれた。

「夕食ちゃんととったんですか?こんな時間で良ければ、軽く何か食べます?」
「いえ、大丈夫です。それよりシャワー先に浴びさせてもらえると助かるんですけど」
「あ、じゃあ今着替え用意しますね!」

――と、言い放った直後。笑顔で固まった渚を見て、安室は思わず笑ってしまった。ぷっと吹き出して、それから揶揄するように目を細めて。
気付いていなかったのか。そしてその様子では今気づいたのだろう。見る見るうちに彼女の頬は赤く染まっていく。

「渚さん?」
「いっ、いやあのこれはそのつまり!!」
「つまり?」
「わ、私も同じようなTシャツ買っちゃっただけで!たまたま!偶然!」
「ホォー、わざわざ僕とお揃いの服を。なんだか照れますね。じゃあせっかくだからお揃いにしましょうか、というわけで着替えを」
「あー実は今偶然にも安室さんの服洗濯しちゃってて!私の別の大きめのTシャツ貸すのでそれ使ってください!」

慌てて言い訳を連ねる渚に、堪らずに安室は声をあげて笑った。相変わらず、嘘を吐くのが下手である。
もう、と怒りながらも誤魔化し続けることは早々に諦めたらしい。安室に貸す服を探そうとクローゼットを漁る渚に近付いて、後ろから彼女に腕を回して抱き寄せる。

「渚さん…」
「ひゃ…っ」

唇を耳に触れさせながら、そっと鼓膜に響かせるように名を囁く。
低めの掠れた声に渚はびく、と肩を震わせた。彼の服に身を包んだ彼女。安室の腕の中で身を固くしつつも、その体は柔らかい。
でも柔らかいのは体だけじゃないんだよな、なんてことを思いながら、安室は頬をすり寄せる。まるで何かをねだるかのようだ。それを察したのか、顔の向きを変えて安室に期待を含ませた視線を向けて、静かに渚は瞼を閉じた。
ふ、と漏れた吐息が唇に触れる。

「でもやっぱり今日はこの服着たい気分なので、返してもらいますね?」
「わーダメ!ばかばかダメーっ!!」

ぐ、といきなり服の裾を掴んで。そしてすぐさま我に返った渚も、そんな安室の腕を抑え込んで。
裾を持つ手を上げようとする安室と、それに必死に抵抗する渚。彼女にしては珍しくややセクシーな見覚えのない下着がちらと覗いたところで、火事場の馬鹿力が働いたか、結局彼女に負けて服から手を離してしまった。
その隙に、クローゼットから適当に引っ掴んだ服を押し付けられる。

「とにかく!今日は!それ着てください!サイズはギリギリ大丈夫だと思うから!」
「チッ」
「わざとらしいんですよ舌打ちが!」

真っ赤になりながら声を荒らげる渚に「しっ、夜中ですよ」と窘めるように囁けば、ぐっと口を結んで押し黙った。なんとも素直なことである。くすくすと笑って、それから一気に距離を詰めて唇を掠め取る――ように見せかけて、寸止めた。

「…続きはシャワー浴びてから」

物欲しげに睫毛を震わせた渚に今は与えず、宣言だけにしておいたのは、可愛らしくこんな格好で安室を待ってくれていた彼女への、ちょっとした意趣返しのようなものである。尤も、欲しているのもこんなことをしておきながら焦らされているのも、むしろ自分のほうかもしれないけれど。
けれど怒っていたように見えた渚も、安室の言葉に小さく頷きながら「…今度はちゃんと起きて待ってる」なんて呟くものだから、そのまま勢いで押し倒したくなるのをぐっと堪えて、シャワーを借りるべくバスルームへと向かうのだった。

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