「…は?」

酒を飲んだ日の夜。夢から覚醒した瞬間、目の前にあったのは自分を抱き締めて眠る裸の男の存在――なんて、まるで陳腐な展開だ。普通なら顔面蒼白にもなるだろうに、そうはならなかったのは、偏にその男というのがよく見知っている人物だったからに他ならない。
そろそろと彼の頬に手を伸ばしてみれば、いまだ微睡みの中に浸りながらも、彼はその手に顔を擦り寄せてくる。

「…安室さん」

ぽつ、と彼の名を零した。
たしかに眠っているはずなのに、渚がそう呟いた途端、安室は僅かに表情を和らげたようにさえ見える。

(なんで安室さんがここに?)

渚は彼のたくましい腕に拘束されたまま、首だけ捻って部屋の中を見渡す。
やはりここは見慣れた自分の部屋だ。つまり渚の知らない間に安室が訪ねてきたということ。確かに外で飲んではきたが、別に酔うほど飲んだわけではないし、しっかりと帰宅してベッドに潜り込んで眠ったことは覚えている。彼に支えられてここまで、というわけではあるまい。
蒸し暑さを覚えて、ふう、と重く息を吐いた。

「…ん、おはよ」

渚が身じろいだのが伝わったのか、そう漏らしながらその蒼の瞳がうっすらと覗いた。
渚が何か答える前に、彼の目は窓の外を向いて「あ、まだ夜か」と訂正していたのだけど。
目が開いたのはその一瞬。安室は再び瞼を下ろして、代わりに渚の背に回した腕に力を込めてきた。額や肩に顔を寄せられ、唇で触れられ、くすぐったいと同時に熱を持つ。きっとひどく蒸し暑いこの部屋のせいだ。

「っあ、の、安室さん」
「ん?」
「安室さん、いつの間にうちに来てたんですか?」
「すみません、チャイム鳴らしたんですけど反応がないから入らせてもらいました」
「だからって勝手に入らないでくださいよ…」

安室でなかったら大問題だ。とは言え安室だからまあいいかで許してしまうあたり、自分も相当彼に甘いのだろうけど。
会話の合間にわざとらしくリップ音を挟まれ、暑さも相まって頭がクラクラしてくる。もしかしたらそうやって誤魔化されてるのかもしれない。

「でも僕からも一つ言わせてもらえます?窓全開にして寝入るなんて危ないでしょう。変な輩に侵入されて襲われでもしたらどうするんですか」
「あ、危ないって言っても、別に外から人が入ってこられるような階じゃないし」
「僕ならこれくらい何の問題もないですけど」
「安室さんと普通の人を一緒にしないでください!」

高速道路を猛スピードで逆走したり、観覧車の上で殴り合いをしたり、大爆発の中ちょっとした怪我で済んだり、フロントガラスを叩き割ったり、モノレールとの正面衝突を寸でのところで避けたり…エトセトラ。ともかく、安室に可能だからといってすなわち渚の危険に直結するわけではないのだ。
けれど安室はそれでも納得しなかったようだ。トン、としなやかな人差し指が渚の鎖骨の下を押す。

「そうは言っても、これでもし僕が渚さんに害なす人間だったらどうするんです?事実、眠っている隙に手を出してみましたけど、あなたは気持ち良さそうに可愛らしい声をあげながら『もっと』って僕に擦り寄ってくるだけでしたよ」
「え、う、嘘!?」
「ええ、嘘です」
「…安室さん!!」

からかわれたと気付いて、夜中なのも忘れて思わず声を荒らげた。だが安室は楽しげに目を細めながらくつくつと喉を鳴らすだけだ。

「でもここに痕をつけたことには気付かなかったでしょう?」
「またそうやって、いくら私が単純だからって何度も騙されたりは……う、」

疑いつつも視線を下に落とせば、安室の言う通り胸元にはいくつかの花が咲いている。一体いつの間に。うう、と唸りながら再び彼を睨んだが、確実に効果は薄い。

「だから言ったでしょう。女性の一人暮らしなんだからきちんと用心しないと――ましてや、こんな無防備な格好で」

低く咎めるような声に、渚はつい肩をすぼめていた。
彼の言うこんな格好とは、キャミソール一枚と下着しか履いていないことを指しているのだろう。だがこんな薄着なことにも窓を開けていたのにも理由があるのだ。

「…だって暑いんだもん。クーラー壊れちゃって…こんな時期だから修理の人もすぐには来られないみたいで」
「だと思いましたよ。このままじゃ熱中症になると思ってクーラーつけてみたけどつかなかったので」
「分かってるんなら見逃してくださいよ…」
「そんなの、僕に連絡くれればいいだけの話でしょう。クーラーが直るまでうちに泊まればいい」

寝る前に体の周りに敷き詰めておいた保冷剤を一つつまみ上げながら告げる安室に、渚は戸惑いながら答える。

「…だって安室さん忙しいし…悪いかなって。確かに暑いけど、窓開けて薄着でいれば寝られないこともないから」

昼間は仕事で不在にしているし、夜は飲みに出掛けて極力家にいる時間を短くした。こんな生活が続くなら問題だが、幸い明後日には業者が来ることになっている。あと少しの辛抱だ。
しかし渚の言い分に、安室は呆れたように息を吐くだけ。

「…まったく、どうしてこんな時ばっかり遠慮がちなんですか」
「な、なんかその言い方じゃ、私が普段は図々しいみたい…」
「別に図々しいとは思っていませんけど」

ニヤ、と次の瞬間安室の口角が上がる。――彼がこういう表情をするときは大抵碌なことを考えていない。慌てて安室から離れようとしたが、めいっぱい腕で押したところで彼の力に敵うはずもなく、抵抗虚しくむしろ更に距離を詰められるだけだ。

「っひゃ、ちょっと安室さん、待って…!」
「…ん、しょっぱい」
「あ、汗かいてるからやだぁ…!」

首筋を舐められたかと思いきや、キャミソールの裾から骨ばった手がするすると侵入してくる。つつ、と脇腹から背中へ指でなぞられ、ぞくりと熱が迸った。
押し退けようとしてもやはり手に力は入らず、剥き出しの胸板から伝わる鼓動を感じる余裕もない。

「だ、大体なんで服脱いでるんですか!」
「そりゃあ暑かったので」
「暑いのになんでくっついてくるの、矛盾してるでしょ…」
「へえ、離してほしいんです?本当に?」
「…っ」

その言い方は意地が悪い。
渚が黙りこんだのをいいことに、肌の至るところをその唇が掠めていく。あげようとした制止の声は彼の唇ではなく、自ら零した吐息に重ねて消されるだけだ。
頭がぼうっとするのは、そう――暑さのせいだ。蕩けた表情を彼に向ければ、安室は安室で欲をはらんだ瞳を晒している。

「図々しくはないけど…ほら。案外欲張りだ」

――気付けばまるで強請るように、渚は安室の首に両手を回していた。
無意識の行動に、渚は自らを恥じるように視線を逸らす。だが伏せられた目や固く結ばれた唇は余計に安室を煽るものにしかならなかったらしい。渚の手をとってその細い手首をシーツに縫い付けてきた。
そうじゃない、と指を動かせば、それに呼応するように彼は指を絡めてくる。
安室が唇を一瞬押し付けたのは、渚の唇の端のあたりだ。

「…意地悪」
「自分が欲張りだって、きちんと自覚すれば望む通りにしますよ」

そういうところが意地が悪いというのだ。
けれど焦れったい触れ方に、結局思惑通りに動かされるのはいつも自分の方。せめてもの意趣返しに、とびきり色っぽく誘って今度は彼を翻弄してやろうか。
――とは言え羞恥心が勝って中途半端に終わったわけだが、その姿が余計に扇情的だったようで、次の瞬間呼吸もままならなくなったのだけど。
ただでさえこの蒸し暑い部屋の中、唇から全身へと与えられていく激しい熱に、混ざりあった汗はどちらのものかすぐに分からなくなった。


   ***


「…暑、」
「風情がない台詞ですねぇ」
「誰のせいだと思ってるんです、誰の」

絡み付いてくる腕を跳ね除ける気力もないまま、渚は荒い呼吸を整えることに集中していた。
うだるような暑さのせいもあっていつも以上に深く落とされた。思わず彼の肩にすり寄れば、渚の髪をその骨ばった大きな手が撫でてくる。それに心地良さを感じるものの、やはり暑いものは暑い。密着した肌は、情事のせいもあってもはやお互いピタリとくっつくほどに湿っている。
それは安室も同じだったのか、しばらく余韻を堪能したところで渚の腕を引いて体を起こし上げた。

「シャワー、浴びましょうか」
「…一人で入れる」
「二人一緒の方が効率がいいでしょう?ほら、さっさと汗流してから着替えて、僕の部屋に行きますよ」
「ん?」

結局安室の部屋に泊まるのか。確かにクーラーが壊れたと最初に話したときにそんな話も出ていたが。

「…それなら何もうちでしなくても…安室さん家ですれば良かったんじゃ…」

それならここまで暑い思いをしなくて済んだのに。
だが渚の言葉を聞いて、安室は目を瞬かせた後に悪戯っぽく目を細めている。

「…本当に欲張りになりましたね。さっきあんなに抱いたのに、向こうでもまだして欲しいんです?」
「い、言ってない、そんなこと言ってない!勝手に拡大解釈しないでください!」

慌てて否定したものの、都合の悪いことには耳が遠くなる安室である。無論確信犯だが。
結局この後クーラーのよく効いた彼の部屋で先ほど以上に汗だくになりながら激しく翻弄されることになるのだが、今はまだそのことを知らないまま、渚は安室の手によってバスルームへと運ばれていくのだった。

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