――さて、問題はここからである。 去っていく安室の車を見送り、帰路につくべくとぼとぼと歩き始めた。だがその足はやがて止まる。歩き慣れた道。その先にあるのは先ほど訪れたばかりのポアロだ。 (…安室さんに送ってもらうって出た手前、通りにくいんだよなぁ…) 遠回りしてでも別の道を行くべきだったと思っても既に遅い。 戻ってそれを実行するか。けれど今は一刻でも早く帰りたい気分だった。仕方ないと一度息を吐いて、それから一気に駆け抜ける。店内が見える大きな窓の前も、なるべく顔を隠すようにして通り抜けた。 「…はあ…っ」 角を曲がり、ポアロが見えなくなったところで渚は傍の電柱に手をついた。 昔に比べ、走って息が切れるまでの距離が年々短くなっていく気がして頭が痛い。だが今日は特に異常だと、ふらつく体を踏ん張ることでなんとか耐える。寝不足や体調のせいもあるのだろう。立っているのさえ辛くなって、渚はその場に蹲って気分が回復するのを待つことにした。 「――渚さん?」 自分を呼ぶ誰かの声が聞こえ、のろのろと顔を上げた。けれど大きく上げる前に、その正体はすぐ露になる。彼は小さい背を更にこちらに寄せるようにして、渚の顔を覗きこんでいた。 その眉が怪訝そうにひそめられる。 「どうしたの、こんなところに座り込んで。気分でも悪いの?」 「…何でもないよ」 「嘘だ、だって顔色悪いよ」 眼鏡に覆われたその瞳が、まっすぐこちらを向いている。 「――コナン君」 渚が彼の名を呼べば、コナンはどうしたのと首を傾げた。けれど何を言いたかったわけでもなく、渚は弱々しく首を横に振る。 「何でも…ない」 「…熱はないみたいだけど」 その小さな手が渚の額に伸びた。大丈夫、ただの運動不足で息が切れただけだからと言ってもコナンは聞く耳を持たない。 何故ここにコナンがいるのだろう。ふとそんなことを思った。 高木刑事と話していたところに蘭から電話が入り、急いで家に向かっていたところなのか。それともその後なのか。小五郎が逮捕された直後、安室と会話した以降のその日の彼の動きを渚は『知らない』。 そしてついそんなことを考えてしまう自分にますます嫌気が差す。自己嫌悪に、抱えた膝に顔を埋めたが、それをコナンは気分が悪くなったと受け取ってしまったのだろうか。くい、と袖が引かれる感触に、渚はまたのろのろと顔を上げた。 「渚さん、うちで少し休んでいきなよ」 「でも…」 「いいから!」 こうなったら彼もなかなか頑固だ。無理やり腕を引かれて、せっかく通り過ぎた道へとまた連れ戻される。 けれど探偵事務所へ続く階段はポアロより手前だ。店の前を通らなくて済む。なるべく俯きながらコナンに手を引かれて階段に足をかけたとき、振り返ったコナンがじっとこちらを見上げてきた。 「…どうしたの?」 「ううん、もし体調悪いならポアロ行って安室さん呼んでこようか?車で送ってもらえるかも」 「…安室さんなら、今ポアロにいないよ」 それは失言だったのかもしれないが、今の渚はそれに気付けなかった。コナンはただ、一瞬眉を寄せて「…そっか」と呟いただけである。 *** 2階の探偵事務所に通してもらい、ソファーに座らされた。 「横になってていいよ!」というコナンの言葉にしかし甘えるのも忍びなく、渚は力なく笑って、それから部屋の中を見渡した。 以前見たときはファイルがたくさん詰まっていたはずのガラス戸の棚の中はがらんどうとしていて、部屋の中もなんとなく閑散としている。既に警察による押収作業が終わった後なのだろう。そして当然のように、事務所の中に小五郎の姿は見当たらなかった。 バンとドアが開いて、3階から戻ってきたらしいコナンが顔を覗かせている。 「ごめん、蘭姉ちゃん出かけちゃったみたい。…お水で良かった?」 「ありがとう、コナン君。…ごめんね」 蘭がいないのは、きっと英理に事情を話し、助けを求めに行ったからだろう。コップを受け取り、口をつけながら渚はそんなことを考えていた。 となると、やはり今は渚の予想より「後」の話か。ちらと壁にかかった時計に視線を向ければ、思った通り渚の知る時刻より遅い時間を示している。 「…お言葉に甘えてちょっとだけ休ませてもらうけど、少し気分良くなったらすぐ帰るね」 「別にもっといてもいいと思うけど」 「でも、忙しいのに迷惑かけられないし」 「渚さん」 いつの間にか向かいのソファーに腰掛けていたコナンの瞳が、じっとこちらを射抜く。 先ほどの安室と同じだ。何もかも見透かすような強い色。今心に疚しいものを抱えている自分にはそれが眩しく、なのに何故か逸らすことは許されない空気を醸し出している。 「渚さんは、何を知ってるの?」 瞳に走った動揺を、はたして彼は読み取っただろうか。 困ったように笑ってみせたが、そんなことでコナンは誤魔化せそうになかった。それでも実際口にするのは難しい。 「…何も、知らないよ」 ああ、また言葉を選び間違えたかもしれない。コナンの眉間の皺が深くなっていくのがその証拠だ。 何も知らない、ではなく、何のことだとすっとぼければ良かったのに。これではコナンが求めているものに気付いていると言っているも同然ではないか。 渚さん、と真剣な声が部屋の中に響く。 「お願い、何か知ってるなら教えて欲しいんだ」 「…コナン君」 「ボクはおじさんを、助けたい」 ――それは、渚が事情を知っていると断定するような物言いだった。 何があったの、と今尋ねるのはあまりにも白々しいか。以前からコナンは渚に関して思うところがあるのだろう。流石に異世界から来て、この世界について知っているなんてことは考えてもいないだろうが、それでも今回の件に関しても何かしら知っていると確信しているに違いない。そう思っていない限り出てこない言葉だ。 無意識の内に開きかけた唇を、ぐっと噛み締めた。それから眉を下げ、力なく笑う。伸ばしそうになる手を、膝の上で拳を作ることで必死に耐えた。 「…それ、もっと早く言ってほしかったなぁ」 例えば事件が起きる前だったなら。――尋ねてはくれなかった安室の代わりにコナンが聞いてくれたのなら、意思の弱かった自分は思わず口走ってしまったかもしれない。 彼は一度懐に入れた人間に対して甘い。荒唐無稽な渚の話も真摯に聞いてくれたかもしれないし、きっと力になってくれた。 とても頼り甲斐がある少年だということを、彼が思うよりずっとずっと昔から知っているのだ。 けれど既に事件が起きてしまった以上、もう話せないことに変わりはない。それは安室に対して告げたのと同じ理由だ。この期に及んで口を噤む渚に、コナンは険しい表情のまま、それ以上追求することを諦めるしかなかった。 |