『これからそちらに窺います』

安室からのメッセージに気付いた直後に、おそらくその人と思われる来訪を告げるチャイムが鳴り響いた。
スマホをベッドの上に放り、慌てて玄関へと向かう。ドアを開ければ予想通り、そこにいたのは何時間かぶりに顔を合わせる安室だった。先ほどの一件の後、少し事情を知るらしい彼はあの女子高生に付き添って事情聴取に赴いていたのだ。
思いの外ドアを開ける勢いが強かったらしい。ドアの向こうに現れた顔は一瞬驚いた表情を浮かべていたものの、すぐにそれは苦笑へと変わっていく。

「こんばんは、渚さん。…久しぶりだというのに、さっきはゆっくり話もできずにすみませんでした」
「あんなことがあったら仕方ないですよ。…上がります?」
「ありがとうございます、そうさせてもらいますね」

どうやら今日はゆっくりする時間はあるようだ。
けれど部屋の中に招き、並んでベッドに腰掛けたまでは良かったが、久々のまともな対面に一体何から話したらいいのかと考えがまとまらない。ひとまずあの後の状況を尋ねようとしたが、安室の視線が渚ではなく、その髪に注がれていることに気付いた。

「髪、濡れてるじゃないですか。ちゃんと乾かさないと風邪ひきますよ」
「ああ、ちょうどお風呂出たところで安室さんが来たので…」

これから乾かそうというタイミングだったのだ。苦笑しながらそう言えば、安室の両手が渚の肩にかけられていたタオルに伸び、そのままわしゃわしゃと髪を力強く拭かれる。「わっ」と突然のことに思わず声は上げてしまったものの、一見雑な仕草だが力加減は絶妙で、つい目を細めながら安室にされるがままでいた。
あらかたタオルで水気をとり、手櫛でさっと整えられる。絡んだ蒼の瞳はどこか呆れつつも穏やかな色をしていた。けれどそれを見れたのは一瞬のことで、すぐに背を向けさせられてドライヤーを奪い取られる。

「あの安室さん、自分でやりますから…」
「いいから」

言葉も短いが、その声色は決して不機嫌な色は含んでなく、どちらかというと率先してやりたいと告げているかのようだ。
人の髪なんて乾かして楽しいのだろうか。けれど有無を言わせないその頑なな態度に、渚は諦めて安室に委ねることにした。
温かい風と大きな手がゆっくりと渚の頭を撫でていく。その心地よさに思わず船をこぎそうになったところで、ドライヤーの音に紛れてぽつりと零した声を拾い上げられたのは運が良かったのかもしれない。

「…面倒なことにあなたを巻き込んでしまってすみませんでした」

振り向こうとした頭は、彼自身の手によってすぐ元に戻される。
再び聞こえるのはドライヤーの音だけになった。大分乾いてきた髪にその指は抵抗なく滑っていくが、頭皮を擽る感触にさっきまでの心地よさはない。所在なさそうに膝の上で組んでいた手を持て余しながら、渚もぽつりとそれに応えた。

「ずっと不安だったでしょう。そんな時にあなたの傍にいることもできなくて、悪かったと思ってます」
「仕方ないですよ。だって安室さんだって忙しかったんだし、私ばっかりに構ってるわけにもいかないじゃないですか」
「何度もあなたの後をつけていたのは彼女だったんですね」
「…気付いてたんですか?」
「可能性の一つとしては」

候補の中ではおそらく害のない方だったのだろう。渚よりむしろ、ナイフを振るわれた彼女の方がよほど恐怖心を抱いたのではないか。そこを助けてくれた安室に憧れ以上の感情を抱いたところで理解はできる。
ぐ、と心情を押し留めて、殊更明るい声で振舞おうとした。

「けれど友人であるあなたに勝手に逆恨みされて自分の感情を振るわれては堪ったものではない。金輪際関わらないでほしいとはっきり伝えました」

だが続けられた安室の言葉に、今度こそ驚いて彼の方を振り返っていた。今度は阻まれることはなかったが、その静かな瞳が語る心情は読めそうにない。
瞬きの度に視線をどこに定めればいいのか分からず、搾り出そうとした言葉も、すぐに口の中で消えていく。

「…なんか安室さんらしくない言い方、ですね?」

ようやくひねり出せたのは、そんな言葉だった。
安室ならもっと波風立てないよう、スマートに女性の好意を断る術くらい持っていそうなものだが。それが渚が抱いてきたイメージである。
不意にうるさかったドライヤーの音が止んだ。それにつられて見上げれば、彼はその形の良い眉を不快そうにひそめている。
今頃になって、熱い風で汗ばんだものが背中を滑り落ちた。

「――僕らしいって何です?それはあなたが勝手にイメージしたものを押し付けているだけでしょう」

いつも感情を悟らせない安室の声が珍しく低い。
彼の名を呼んで返そうとしたがうまく音が紡げない。その間にも安室は矢継ぎ早に喋り続けていく。

「そのイメージははたしてどこで定着したものなんでしょう。僕はあなたの前で言い寄られて上手くあしらう様など特に見せた覚えもないんですけどね」
「そ、れは」
「元の世界とやらで植え付けたものですか?…あなたはこれまで、僕の何を見てきたんですか」

どこか憤怒を含んだかのような蒼の色が少し、沈んだ。
――反射的に謝罪の言葉を口にしそうになって、寸でのところで飲み込む。彼が求めているのはきっとそうじゃない。先日も忠告してくれたことをまたすっかり忘れていた。
自分の知る漫画と、この世界は似て非なるもの。そんなことはもう何度も感じてきたことだ。それでもどうしたって、自分は違う世界の人間だという境界線を消すことができない。
膝の上で無意識の内に握っていた拳が、服に皺を作っていた。

「――だって大人げない、って思われそうで」

ぽつりと漏らした声に、僅かに安室の表情から刺が抜けたが渚はそれに気付かない。
安室を見て黄色い声を上げる女子高生達。どことなく面白くない気持ちを、元の世界では自分も同じだったから気持ちは分かると誤魔化した。
そして先ほどの、彼への好意をはっきりと告げた少女。
相手は自分よりずっと子どもだ。しかもただでさえ怖い目に遭って辛い思いをした直後である。それを自分が不快だからという理由でぶつけるのもどうかと思ったのだ。
いつでもスマートな安室の横にいられる人間になろうと足掻こうとした。

「でも本当は、やっぱりモヤモヤするのを抑えられなくて…」
「うん」
「でもそれを正直に言うのは、恥ずかしいし、大人げないし、断ったって聞いてホッとする自分も性格悪くて嫌だし…」

自分の方が彼をよほど好きなのだと、叫びそうになるのを必死に堪えていた。

「安室さんのことをよく知りもしないくせに、とか思っちゃって…」

渚が彼女達よりも安室の事情に詳しいのはのは当然のこと。けれどそれを振りかざして優越感を得るのは別の話である。元々は彼からの信頼を得て知った情報でも何でもなく、他からすれば不当のようなものだろう。
自己嫌悪に堪らず膝を抱えれば、そっとその手が頭に伸びてきた。
ぽん、ぽんと何度かあやすように撫でられたところでようやく顔を上げられた。こちらを見つめる眼差しがあまりにも優しいから、全部許されたような錯覚に陥ってしまう。

「――やっと話してくれましたね」

あなたは案外本音を隠すからと笑う安室に、自然と肩の強張りは解けていた。

「いいじゃないですか、大人げなくても。それを言うなら僕だってあなたの指摘通り、もう少し穏便に断ることだってできたのにそれを選ばなかった」
「でも…こんなの面倒くさいな、って思ったりは…」
「好きで好きで仕方ないって言われてるようなものじゃないですか。むしろどこに嫌がる要素が?」

揶揄するような言い方に、ついむきになってしまうのは悪い癖かもしれない。「それを言うならあの子とか女子高生達とかはどうなるんですか」とそっぽを向けば、「誰から言われても嬉しいってわけじゃないですよ」と苦笑を返される。
それは渚が特別だと言っているも同然だ。元々彼の想いを疑っていたわけではないけど、改めてそう言われるとじわじわと頬に熱を感じて仕方がない。

「まあ、でも…確かにそうですよね。思えば私も告白反射的に断ってたし…」
「は?」
「え?」

低めの声が聞こえ、何事かと顔を上げたことをすぐに後悔した。先ほどとはまた違う不機嫌さを、安室はその顔にしっかりと滲ませていた。
咄嗟に下がろうとしたところでベッドの上に腰掛けたまま。そう距離を開けることも叶わず、逆に一気に詰められたのを慌ててせき止めたがその手すら彼に攫われてしまう。

「告白、って何の話ですか」

そこまで言われてようやく、安室の態度が豹変した理由を悟った。
元の世界に戻ってしまったとき。今度こそ、もう二度と安室と会えないかもしれないと気落ちしていたときのことだ。疚しいことなどない、断ったのだから問題はないはずだと思いつつも、あまりの気迫につい視線は泳ぐ。それすら彼は気に食わないようだ。
肩を押されれば、渚の体はあっさりと後ろに転がった。起き上がる前に手はシーツに縫いとめられ、開いた膝の間に彼の足が侵入してくる。そのままぐっと体を寄せられた。ぎらついた蒼の瞳は、欲と嫉妬の狭間に揺れているかのようにも見える。

「そんな話初めて聞きましたが。いつ?誰に?」
「そ、りゃあ…別に言ってないし…あ、安室さんの知らない人ですよ!」
「ホォー…職場の人ですか、それとも趣味の友人あたりで?…あなたは断ったとは言ってますが、相手がきちんと受け止めてなかったらどうするんです。きちんと釘を刺しておかないと…」
「も、元の世界の同僚ですってば!」

釘を刺すも何も、不可能だ。世界を跨いだ人物の、その顔すら安室は知ることができないのだから。
あまりの剣幕につい声を荒らげてしまい、途端に静かになった安室に、ようやく渚はゆっくりと息を吐く。おそるおそる顔を上げれば、彼は神妙な面持ちでこちらを見下ろしていた。

「…すみません」

僅かに安室の手の力が緩んだ。それでも抜け出すまでには至らない。

「…私こそごめんなさい、黙ってたみたいになっちゃって。でも、改めてわざわざ話題に持ち出すことでもないと思ってたから…」
「そうじゃない。…あなたに元の世界のことを思い出させてしまった」

安室の言葉は突拍子もないもので、ますます渚を困惑させるものでしかなかった。何度か目を瞬かせ、それから眉を寄せる。
まるで隠すようにその手で目を覆われたが、渚がそれを退ければほとんど抵抗なく外された。くしゃりと崩した表情に、渚は何も紡ぐことができない。

「あなたがこの世界の人間であってほしいと…そうやって無意識の内に線引きをしているのは、本当は僕だって同じことなんですよ」
「安室さん」
「元の世界のことなんてなかったことにして、ずっとこの腕の中で――けれど、それはこれまでのあなたを否定することにもなってしまう」

もどかしいと、その想いが向けられる蒼から伝わってくる。
安室の手にそっと自らの手を重ねた。渚の手では包みきれない大きな手。この手にこれまで何度助けられ、繋ぎとめてもらったことか。
確かに元の世界での渚を安室が知る由はない。物理的に抗うことのできない距離だ。それでも――今は「こちら」に間違いなく存在しているのだ。指先に伝わる熱が、その証拠である。

「――安室さん。良かったら私の話、聞いてくれませんか」

突然の発言に、今度は安室が怪訝そうに眉を寄せる番だった。
私の、話。元の世界での自分を、彼に知ってもらいたいとふとそう願った。渚も安室の全てを知るわけではないけれど、それ以上に安室は渚の過去を知らない。知り得ない。だからこそ彼女が話すしか他にないのだ。
けれど渚という人物を深く知る人がいれば、その分この世界での存在感が強くなる。そんな気がした。

「あ、でも私の人生、普通で特に面白い話もないですけど…」
「…元の世界を思い出して、辛くなりませんか?」
「だって表向き記憶喪失なんですよ?元の世界のことを話せるの、安室さんしかいないから」

むしろこれは共有になるのだろう。一人で抱えるよりずっと楽だ。それに安室なら受け止めてくれると、そんな強い信頼感もある。
「…だめ?」と零れた声は甘さを含んでいたが、どこか震えてもいた。緊張しているのかもしれない。けれど彼はその蒼をゆっくりと細めて、重ねられていた渚の手を握り直す。

「…実は明日は早く出ないと行けなくて」
「あ…ごめんなさい。じゃあ迷惑、ですよね」
「いえ、だから悪いですが今夜は眠れないと思ってくださいね。…元の世界であなたが過ごしてきたもの、全部教えて」

聞きたい、と小さく音が紡がれた。
まるで壊れるのを恐れるように怖々と指を絡めながら、それでも決して離さないよう徐々に力を込めて。その指はそっと唇に伸ばされ、その先を望むように撫で上げていく。
強張っていたものがするするとほどけていき、気付けば小さく吹き出していた。

「なんかそれ、この状況で聞くと色っぽい意味に聞こえるなぁ」
「それも悪くないけどまた今度。――今はあなたが周りからどう愛されて育ったのか、知りたい」

夜は案外短いのだ――いつも共に過ごす夜を思い出し、クスクスと笑いながらぽつりと懐かしい思い出を語る渚の声はまるで子守唄のように甘く、安室はずっと彼女の頬や髪を撫でながらそれに聞き入っていた。

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