「……っ」

一瞬頭の中が真っ白になった。
安室は何も語らず、ただ渚の頭を自分の胸に押し付けるだけ。だんだんと息苦しさを覚えてきたが、離して欲しいという気持ちは起こらない。できることならもっと強くとさえ願った。切なさに胸が締め付けられるかのようだ。
とくとくと、心臓の音が伝わってくる。――ああ、生きているのだと、そんな当たり前の感想をふと抱いた。

「…安室さん」

顔が見えないからか、また自分の顔も伏せられているからか。不思議と気持ちが素直になった。今なら何だって話せる気がする。

「…私、安室さんに嘘、ついてました」

安室は何も答えない。抱きしめる腕の力にも変化はない。聞こえているのかいないのか。だがそれには構わず、渚は思いの丈を吐き出すことだけに集中した。

「あの時、私の世界にはこの世界を物語にしたものがあるって言って…」
「……」
「だから安室さんの本名とか、知ってるって言ったけど。…本当は嘘なんです。物語があるのは本当だけど、私はそれを読んだことはなくて」

未だ彼の反応はない。言葉のチョイスを間違えたかもしれない。どうして紙の中の人間だと改めて突きつけるようなことを言っているのか。違う、言いたいことはそういうことじゃないんだ。なのにうまく言葉が紡げない。

「だけど元の世界に戻ったときに、読んでしまった。…あの時安室さんがどう思ったのか、安室さんのこと、どうしても知りたかったんです」

――抱きしめる腕が、少しだけ強張った気がした。
安室の腕の中で渚は力なく笑う。自ら首を絞めるような真似をしていることは自覚している。それでも、今度こそ彼に対して正直でありたいと願ったから。

「…ごめんなさい。自分の知らないところで勝手に自分のこと知られるなんて、気味が悪いですよね」
「僕も探偵や探り屋をやっているので、まぁ似たようなものでしょう」

だが予想に反して、ようやく開かれた安室の口から出てきたのは否定の言葉ではなかった。思わずぱち、ぱちと何度か目を瞬かせる。

「…卑怯だと、思わないんですか。私のやったことに対して」
「僕がこれまであなたを傷つけてきたことに比べればなんてことないかと」

その割には、その声はどこか固く、憤りを含んでいるようにも思える。
――お互い様だと言いたいのか。やはり彼を紙の中の人間と言い捨てたことに関しては怒っているらしい。当然だろう、まるで自分の存在も信念も否定するような言葉をぶつけられたも同然なのだから。
じわりと視界が滲んだが、顔はぐっと安室に押し付けられているせいで雫は零れることはなく、彼の服に吸い込まれていく。

「ただ一つ、訂正してください」

けれど次に紡がれたのは、少し掠れて低い、切望を含んだ声色だった。
眉を寄せ、顔を上げようとしたがやはりうまく動かせないまま。顔を見させてはくれない。それは彼に拒まれているからなのか、それとも違う理由のためなのだろうか。

「あなたにとってこの世界は物語の世界なのかもしれない。だが、それならその中にあなたという存在はいないはずだ。…だったらそのあなたに抱いた僕の気持ちは、決して描かれたものなんかじゃない」

そこでようやく拘束を解いた安室が、ゆっくりと渚の肩を押して顔を覗きこんできた。まっすぐで、深い蒼に囚われる。
――好きな色だと、ふとそんなことを感じた。

「こうして触れれば確かに熱を感じるのに、それでもまだ紙の中の人間だとでも言い張るんですか」
「……っ」
「もう二度とあなたに嘘は吐かないと、真摯に向き合うと誓った。だから…これは本当です。否定しないで、信じて…ほしい」

ぶんぶんと首を横に振っては、今度は縦に振って。忙しないことだ。それでもうまく紡げない声の代わりに必死に態度で示せば、ようやく切なそうに表情を緩めた安室は、また渚を強く抱きしめた。

(心臓の、音)

漫画を読んで、感じたことがある。
確かにこの世界はあの漫画を模しているかのように忠実ではあった。けれど同時に描かれていないことも、あった。――こんな甘く、優しい音を渚は知らない。ようやく分かった。やはりここは似ているけれど、違う現実世界なのだ。

「…信じる」

好きだという理由だけで信じることはしないと、あの時決めた。
知らないから、知りたい。その思いであの漫画と向き合う決意をした。そして分かったことは、“あの彼”と“この彼”は違うということ。そして――やっぱり“この彼”が好きなのだということ。
盲目的にではない。苦しんで、ひたすら悩んで、考え抜いた末の結果だ。

「…うん」

ありがとう、と小さくその声が耳元で紡いだ。返事の代わりに渚も安室の背に手を伸ばす。抱きしめられる力がまた少し強くなった気がした。

「随分と自分に都合のいいことを言っている自覚はあります」
「…そうですね。安室さんはずるいです」
「じゃあずるいついでに、もう一つだけ欲張ってもいいですか」
「はい」

内容を聞く前にうっかり返事をしてしまい、何ですか、と付け足して問いかける。償いがしたい。切なそうに搾り出されたその声に、渚は怪訝そうに眉を寄せた。抱きしめられたままで、その顔色を伺うことはできそうにない。

「あなたをどれだけ傷つけたか、分かってないはずがない。だから挽回のチャンスを。…許してもらえるまで、あなたの隣で償い続けます」
「…安室さん」
「それだけ欲張っても…いいですか」

――傍にいたいのだとはっきり言えばいいのに、いつもはあんなに器用なのに変なところで不器用な人だ。強く、頑なで、どこか脆い。
背に回された手は確かに力強かったけど、どこか震えていて、だから渚がその胸をぐっと押せば意外と簡単に彼は離れていった。安室の腕の中にいたままでいるのは心地よかった。けれどこれは、目を見て言わなければ意味がない。

「…じゃあ私、安室さんのことずっと許さない」

また言葉のチョイスを間違ったかもしれない。つい素直になれなかったというのもある。けれど、ここで彼の言葉に頷いてしまったらそれはそれで許したことになってしまうんじゃないかと思ってしまって。
渚が許すまでの間しか、安室は隣にいてくれないようだから。
何も返答がないのが怖くて、つい視線を逸らしそうになる。だがそれも一瞬のことで、すぐに安室に向き直った。安室が真摯に向き合うと誓ってくれたのだから、自分もそれに応えよう。
すぐに、逸らさなくて良かったと思った。――こんなすぐ間近で、その瞳が柔らかく、嬉しそうに細められるのを見ることができたのだから。

「…はい、一生許さないでください」

ゆっくりと近づいてくる蒼に吸い込まれそうになって、慌てて直前でそれを止めた。渚の手のひらと手の甲を介して、お互いの唇は触れる直前だった。途端に彼の瞳は不機嫌な色を帯びるが、それに怯えるわけにはいかない。

「ゆ、許さないって言ったばっかり、です」
「ええ。それに一生許さなくて構わないと答えました」

悪戯っぽく笑われた後、あっさりと渚の手は安室の手に絡め取られ、そのまま口付けられた。思わず退こうとしたのに、繋いだままの片手が渚の後頭部を押さえ込んできて、逃げることを許してくれない。
けれど触れ合った唇は僅かに震えていて、そこにポーカーフェイスの裏に隠された本心が見えた気がした。

(やっぱり、安室さんは嘘つきだ)

そっと離れていく唇に、追いすがるように今度は渚から唇を重ねた。
驚愕に満ちた瞳が丸く見開かれている。それを視界に収めながら、渚は絡められた指にそっと力を篭めた。
――今はもう震えは止まっている。ただ甘い熱だけが、今は二人を繋いでいた。

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