(――呼ばれたかと思った)

朦朧とする意識の中、降谷は重い瞼を持ち上げた。
確かに、自分を呼ぶ声が聞こえた気がしたのに。ついに幻聴まで聞こえるようになったかと顔を歪めて笑い、それから鋭い腹の痛みに耐えかねてそのままズルズルと力抜けたように座り込んだ。
声など聞こえるはずがない。あれは確かに降谷の目の前で消えたはずの彼女の声だった。そうでなくても、この場に他の人間がいるはずもないというのに。

(夢に見るほど、か)

ぬるっとした感触が手を伝う。腹を抑えていた手にはべっとりと血がついていて、それが周りの燃え盛る炎に照らされ毒々しい赤を曝け出している。それをじっと見つめてから、降谷は後ろの壁に背を預けるようにして天を仰いだ。残念ながらどす黒い煙に覆われて空の青は拝めそうにない。
煙を吸い込んでしまったらしい。ゴホゴホと咳き込んだ後、床に手をつきなんとか立ち上がろうと試みるが、足に力が入らない。早くこの場から脱出しなければ、いずれ炎に飲み込まれることは必至だろうに。
ちらと横目で確認すれば、出口に向かう足場は崩れている。飛べない距離ではない。だが。

(…この怪我では、無理だな)

降谷とてそう簡単に命を捨てるつもりはない。だが皮肉にも誰よりも優秀で合理的な彼は、この場からの脱出を不可能と判断してしまった。諦めたように、またその場に座り込む。
――構わない。降谷に課せられたのは組織の壊滅で、ついにこうしてアジトのビルに乗り込み、上層部ごと崩すことができた。ここで降谷の命が尽きても、後は公安が後始末をつけてくれるだろう。悔しいがFBIもいる。それにコナンも。自分がいなくてもきっと問題はない。
そもそもこんな仕事をしているのだ、いつも殉職の覚悟は持ち合わせている。

(それに、どうしても生きて帰らなければならない理由もないしな)

――後悔があるとすれば、たった一つだけ。けれどそれはどう足掻いても叶わないことだ。

(…末期だな。また彼女の声が聞こえた気がした)

もしかして、これが走馬灯というやつだろうか。皮肉げに笑って、それからゆっくり瞼を下ろす。
視界を閉ざした世界では、他の五感がより一層強くなった。鼻につく黒煙のにおいも、ちりちりと肌の焼ける感覚も、全てを焼く炎の音も――

(――やっぱり、聞こえた)

人の声。元よりこの屋上にいた人間か。だがここには確かに誰もいなかった。ならば降谷を助けにきた誰かの声か。けれどその声の出所は確かに、崩れた床の向こうではなくこちら側で聞こえているようだ。
目を開けて辺りを探る。もし降谷を助けに来た誰かなら好都合。組織の人間ならこのまま道連れだ。けれど彼の視界に飛び込んできたのはそのどちらでもなかった。
揺らめく炎の向こうに浮かんだ姿に、降谷の目が見開かれていく。それは向こうも同じだったようで、見開かれた瞳がじっと降谷に捕らわれていた。


「――な、ぜ、ここに」
「…安室、さん?」


幻聴に引き続き、幻覚まで見えるようになったか。降谷の前にいるのは、たしかにあの時消えたはずの渚だった。
しばらく呆然と佇んだままの彼女だったが、ようやく呪縛が解けたようにぎこちなく辺りを見渡した。まるで生き物のようにうねる炎が渚の傍まで近付いてきて、彼女はその顔を恐怖に歪ませている。脅えを含んだ瞳がゆっくりと降谷に向けられ、安室さん、と紡ごうとした声は彼女自身の咳にかき消された。
体の重さなど忘れ、慌てて渚の元に駆け寄った。蹲る彼女の背にそっと手を添える。

(…感触が、ある)

幻覚ではないと気付いて、降谷はまた目を見開いていた。
どういうことだ。渚は元の世界とやらに帰ったのではなかったのか。

(…まさか、戻ってきた?)

咳が落ち着いたのか、ゆっくりと顔を上げた渚の黒曜の瞳が降谷の蒼を捕らえる。
もうそこに自分の顔が映ることはないと思っていた。あの日、降谷が囚われた色が確かにそこにある。

「…安室さん」
「…っ」

訳がわからない。ただこれが夢でも何でもないことだけは確かだ。
けれど喜ぶより先に焦燥感が降谷を襲った。自分一人ならどうとでもなれと思っていたこの炎の中に彼女まで閉じ込めるわけにはいかない。

「…事情は後で聞きます。ひとまず今は脱出することを考えましょう。立てますか?」
「そ、れより、ここはどこ…なんで、私…アトラクションか何か…じゃない、これ…」
「説明は全部後でしますから」

今はもたもたしている暇などない。咄嗟に渚の腕を掴もうとすればビクリと肩を揺らされて、思わず降谷も手を離していた。一人で大丈夫です、と制されて、震える脚でゆっくりと立ち上がる。視線を合わせようとせず、戸惑いの表情を浮かべる渚を見て、まだ許されてはいないのだと思ったところで傷つく余裕も資格もない。
その時、風に煽られた炎が渚の足元を襲った。慌てて身を退いたので周りを見る余裕もなかったのだろう、急にぐらりとその体が揺らぐ。その足場は既に脆くなっていて、着地の衝撃で崩れたのだ。
宙に投げ出された時のその顔。――あの時と同じだ。


「渚さん!!」


その白い手を、無我夢中で掴んでいた。
ぐっと片腕に一人分の体重がかかり、堪えきれずに降谷の体は地面に伏せられる。散らばった瓦礫が腹の傷に刺さり、血に濡れた手は滑ってうまく力が入らない。それでもこの手を離すわけにはいかなかった。離せば、彼女の頼りない体は今度こそ地上に叩きつけられてしまう。
恐怖に顔をひきつらせた渚は、かたかたと震えながら首を動かそうとした。「下を見ないで!」、思わず叫んだ声に渚が動きを止めた瞬間、その手を強く引く。まるですがるようにこちらに向かって伸ばされたもう片方の手も無意識に掴んで、ようやくその体を引っ張りあげた。

「――っ!」

後ろに倒れるように尻をついて、そのままその存在を確かめるように強く、抱き締めた。
心臓の音が聞こえる。温かい。感触がある。微かに震える手が、それでもしっかりと降谷の服を握っていた。
――大丈夫、彼女はこの腕の中にいる。

「…今度はちゃんと、掴めた」

掠れた声が渚の鼓膜を震わせたが、強い拘束の中では顔を上げることすらままならない。
安室さん、と同じく弱々しい声が降谷の耳に届く。ああ、懐かしい声だ。そっと吐いた息が剥き出しのうなじに触れたか、びくりと一瞬細い肩が震えた。それによって降谷も意識を引き戻す。そう、ここでもたもたしている暇はないのだ。
背から手を離し、代わりに肩を押してその表情を覗きこむ。赤く照らされた顔から、少しだけ不安の色が消えているように思えた。
だが急に渚は訝しげに眉を寄せ、視線を下ろしたところではっと息を飲む。見れば、渚の服にもべっとりと血がついていた。彼女のものではない。降谷のものだ。

「安室さん、その怪我…!」
「…大丈夫、です。それより早く、脱出を…」
「で、でもどうやって…、っうわ!?」

渚が何か言う前に降谷は彼女を抱え、立ち上がった。
脱出の経路はただ一つ。遠く離れたあのドアの向こうのみ。けれどその前に立ち塞がるのは奈落の底に通じる道だ。

「ま…待って、待って安室さん!まさかここを飛び越えるつもり…!?」
「そのまさかです」
「む、無茶です!向こうまであんなに遠いのに…それに、私を抱えて、しかもその怪我で…!」
「けれど、このまま何もしなければ二人揃って炎に巻かれるだけだ」

無謀なことは百も承知。それでも他に選択肢はないのだ。

「大丈夫、絶対に助ける。あなたを死なせはしない。だからしっかり掴まっててください」
「でも…!」
「頼む」

彼女を抱き上げる手に、ぐっと力を込める。
道の向こうを見据える蒼に、一瞬強い光が走った。


「俺を、信じてくれ」


――分かっている。彼女が降谷を信用することはもうないのだと。
それでも、今回だけでもいい。そう懇願するように声を漏らせば、ぐっと唇を噛み締めた渚は必死に降谷にしがみついてきた。
胸が締め付けられる感覚。傷の痛みを堪えながら、助走に十分な距離を開けるため後ろに下がった。だがすぐ傍まで炎は迫ってきている。下がるのはここまでが限界だ。万全の態勢で挑んでも五分五分であろうこの難題を、しかしミスすることは許されない。
何度か深い呼吸を繰り返しながらタイミングを計る。そして炎が大きく風に揺れた瞬間、降谷は駆け出していた。
地面を強く蹴り、空中に飛び出す。ぐっと強くしがみついてきた体を降谷もまた強く抱きしめた。あと少し、もう少し。頼む届いてくれ、と柄にもなく神に祈る。

「――っ!」

――再び地面を踏みしめた足は、その勢いのまま前へ。バランスを保てず、そのまま地面を転がった。

「っ、安室さん!!」

降谷が抱えていたせいで巻き込む形になってしまったものの、すぐに起き上がった渚は必死に降谷の肩を揺すった。安室さん、安室さんと泣きそうな声が何度も彼の名を呼ぶ。大丈夫、と渚を制して、なんとか降谷も上体を起こした。再び彼女との距離が近くなる。
まっすぐな瞳が降谷を貫いていた。

「…ありがとう」

二度と信じてくれないと思った。けれど一時でも、信じてくれた。
緩んだ頬は、しかしすぐに痛みに引きつることになる。どくどくと血の流れる感覚を覚え、降谷は深く息を吐き出した。視界が白に染まりそうになる。耐えろ、せめて彼女の無事を見届けるまでは。

「…渚さん、そこのドアから下に降りていってください。今度は足元に気をつけて。ビルの外には僕の仲間がいます。きっとあなたを保護してくれるはずだ」
「ま、待って…安室さんは、どうするんですか…?」
「大丈夫、後から追いかけますから。だから先に行ってください」
「っ嘘!嘘嘘、絶対に嘘!私知ってるんですからね、安室さんが嘘つきだってこと!今回ばっかりは騙されませんよ!」

何度も首を横に振った渚は、降谷の腕を自分の肩に回し、なんとか立ち上がらせようと試みる。けれどその細腕で力なくした成人男性の体を支えられるはずもなく、どんなに踏ん張っても降谷の体が浮くことはない。

「頼むから渚さん、先に…」
「絶対に、嫌!」

――どうして自分は彼女にそんな顔しかさせられないのか。唇を噛み、泣きそうなのを必死に堪える渚を見つめながら、そんな場違いな感想を抱いた。
その時、ドアの向こうから僅かに金属の反響音が聞こえた。リズミカルなその音は、階段を駆け上る誰かの足音にも聞こえる。それに既視感を覚えたところで、勢いよくドアを開け現れた姿に、思わず降谷は顔をしかめていた。
つくづく有能な男だ。だが今回ばかりはそのタイミングの良さに助けられたという思いもある。

「――赤井」

吐き出した息と共に、その名を呟いた。
赤井は赤井で、降谷の姿を認めた後、同時に渚の存在に気付いてその眉を寄せている。

「…何故お前がここにいる」
「っ秀一君!お願い、安室さんを助けて!」

だがそれに構うことなく、渚は赤井に向かって叫んでいた。けれどそれはこちらの台詞だ。この男に託すのは癪だが、今はそんな我侭を言っている場合ではない。
ぐっと渚の肩を押し、赤井に向き直る。

「彼女を、頼む。決して死なせてくれるな。…もし助けられなかったら、今度こそ貴様を許さない」
「い、言っておくけど私だって、もし安室さんのこと見捨てたら怒るからね!絶対秀一君のこと許さないから!」
「…やれやれ、いずれにせよ俺はどちらかから憎まれなければならんようだ」

肩を竦め、つかつかと歩み寄ってきた赤井は、そのまま降谷の体を担ぎ上げる。一瞬呆気にとられたが、すぐ我に返って目の前の背中を睨みつけた。ふざけるな、自分のことはどうでもいいから彼女を守れ。何度罵倒の言葉を浴びせても、赤井が降谷を降ろす気配はない。

「随分と見くびられたものだ」
「っ、何を…!」
「この両手は二人分くらいはなんとか支えられる。もう取り零しはしないさ」

第一、君を見捨てれば俺はこいつに一生恨まれるだろうからな。
そう付け足した赤井は空いたもう片方でぐっと渚の腕を掴み、ドアを蹴り開けた。走り、階段を駆け下りていく度に振動を感じる。そして時折降谷に触れてくる、小さな手の存在も。
その手を握り返したいと願いつつ、結局体を動かすことも叶わないまま、ついに降谷は意識を手放した。

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