あの後ジョディに赤井について色々尋ねられたが、渚が彼について話せることは些細なことで、しかもジョディはジョディで他の同僚と連絡を取ったりと多忙だったらしく、「また何かあったら連絡するわね」とだけ言い残してそこで別れた。
コナン達少年探偵団とも別れ、一人になったところで、また溜息を一つ漏らした。――感傷的になっても仕方ない。今度こそ帰ろうと踵を返したところで、とっくに帰ったはずの弁崎が目の前に現れたので目を丸くしてしまった。
彼も渚に気付いたようで、軽く会釈しながらこちらに近づいてくる。その様子から見るにどうやら渚に用があるらしい。

「あの…?」
「ああ、突然すみません。捨てられてた私の財布の中に見慣れないお守りが入ってて…あなたがお守りがどうのと話してたのでもしかして、と思いまして」

そうやって目の前に差し出されたものに、見覚えのあるものに。はっと息を飲んだまま、彼の手の中のそれを凝視したまま一言も発せず、動かない。

「…あなたのではありませんでしたか…?」

怪訝そうに尋ねられて、ようやくぎこちなく、それでも必死に首を横に振った。確かにこれは自分のだという意思を示す。なくしたと思っていた、お守りだ。
手が震えてうまく受け取れないが、それでもなんとかそれを手繰り寄せて。ようやく自分の手の中に戻ったそれを見て――ぐっと唇を噛み締めた。

「あのスリの女性が財布の中を物色した時に、誤って私の財布の方にしまってしまったのかもしれませんね」
「……」
「なんにせよ無事に返すことができて良かったです。…そういえばそのお守りに書いてあった神社の名前、知らない神社でしたが一体どこの――」

不意に弁崎の声が止まった。どうしたのかと彼を見れば、僅かに戸惑ったような表情を浮かべている。その原因を探ろうとして、頬を伝う感触に気付いた。ぽたり、とお守りを受け取ったままの腕に雫が落ちる。

「え、あ、すみません…」
「……」
「はは…や、やだなぁ恥ずかしい…あの、すみません、こんなつもりじゃなくて…」
「…よほど大切なもの、のようですが」

大切、というよりは執着心に近いのかもしれない。抱えた感情の正体をよく把握できないまま、けれど気付けば彼の言葉に小さく頷いていた。
スン、と小さく鼻を啜る音。お守りをぐっと握りしめて、ほっと息を吐けばますます視界は滲んだ気がした。


「――全部、なくしたかと思った、から。これだけでも戻ってきて…よかった」


僅かに弁崎の手が動き、すぐに躊躇ったように下ろされた仕草が、頭を下げたと同時に視界の端に映った。

「あの…これ、返していただいてありがとうございました。…本当、に」
「…いえ」

頭を下げたらますます目頭は熱くなって、とても顔を上げられそうにはない。目を何度か、強く擦って、不躾だとは思いながらもあまり顔を上げないまま、もう一度礼を言って、立ち去ろうとした。
待ってください、と声をかけられ、俯いたまま立ち止まった。何ですかと尋ねたが、しばらく黙った後に何でもないと首を振る様子が視界の端に映っている。

「…えっと…」
「すみません、…本当に何でもないんです。…ああ、それじゃあ僕もこれで…失礼しますね」

向こうも軽く会釈して、それから渚に背を向けた。それを軽く見送ってから、渚もまた踵を返した。
ゆっくりと歩き出した足が、再び止まる。手の中に確かにある感触にふっと口元を緩めながら、未だ涙の引ききらない中じっとそれを見つめていた。
そしてまた、同じようにその背を見つめていた視線には気付くことはなく。


   ***


「すみません、お待たせしました」

車の中に戻り、助手席に座る彼女に一言詫びて、それから車を発進させた。

「とんだハプニングだったわね、変装に使ってた男がスリに遭っていたなんて」
「財布を所持していなかったので妙だとは思ったんですけどね…」

車を運転しながら、肩を竦めて彼女に視線を向けた。その白い手には盗聴器が握られている。先ほどジョディに仕込んだものを、よろめいて支えてもらった隙に回収してくれたものだ。
彼女は自らの膨らんだ腹に手をやり、ぎゅっと搾ると、一気にその膨らみは風船が破裂するように消え去った。続いて顔に置いた手が、その顔に施した変装を剥がし取る。現れたのは美しくも妖しい顔――ベルモットだ。
そして彼も同じように、自らの顔に手をやり、変装を引き剥がす。白い肌の裏から、本来の褐色の肌を覗かせた。

「それで、仔猫ちゃんからいい話は聞けたのかしら?」
「ええ、大収穫でした。意外な裏話も聞けましたしね」

それにしてもあの少年は恐ろしい男だ。見た目通りの小学生と侮るととんでもない目に遭うだろう。
あの少年が赤井の死に一枚噛んでいるのは間違いない。ジョディとの会話から、少しずつ裏が見えてくるようだ。さらに詳細を調べる必要がある。
ふと、ベルモットからの視線を感じて再び安室はそちらに視線を移した。その瞳が楽しそうに細められている。
毒々しいルージュをひいた唇がそっと開いた。


「――それにしてもバーボンと言えども、仔猫の涙には弱いものなのかしら?」


ぴくりと動きかけた眉を抑え、ポーカーフェイスを保った。
代わりにゆるりと口角を上げる。ベルモットの表情も変わらない。相変わらず読めない女だ、と内心毒づく気持ちを隠したまま、安室もまた口を開いた。

「…覗き見とはなかなかいい趣味じゃないですか」
「あら、"あなたが全然戻ってこないから心配で見に行ったのよ?"…他の女に夢中になってるのかと思って、ね」
「まさか。…確かに彼女は"安室透"の恋人ではありますが、所詮は情報を得るために近づいただけの、仮初めのものですから」
「ふぅん…まぁそういうことにしておくけれど。…けれど少し興味があるわね、あなたを一瞬でもうろたえさせたあの娘のこと」
「あなたが誰に興味を持とうと僕の知ったことではありませんが、無駄足にならないよう予め断っておくと、特別面白いこともないただの一般女性ですよ」

肩をすくめてみせて、それから信号が青になったのを確認して再び運転に戻った。
ベルモットをセーフハウスまで送り届け、小さくなっていくその背を見送って、ようやく重く息を漏らした。
以前ベルモットが渚のことを示唆したときにもヒヤリとさせられたが、組織の人間に彼女のことを知られるのはあまり望ましくない。ましてや、興味を持たれるなどもっての外。
安室の本名を知るらしい彼女のことを調べ上げられ、何かがきっかけで降谷のことを知られ、この命を無意味に危険に曝すわけにはいかない。危険性は一つでも潰していかねばならない。

(――いや、そんなのはただの言い訳、だな)

人のことは言えないが、彼女もなかなか事件に巻き込まれやすい性質のようだ。ここずっと立て続けに殺人事件の現場に遭遇し、すっかり憔悴しきっていた様子がまざまざと脳裏に浮かぶ。
顔を真っ青にして、唇を噛み締め。震える手は誰に縋るでもなく、ただ必死に拳を作って耐えていた。子ども達が言っていたように、例の記憶をなくしたとかいう通り魔の事件を思い出していたのだろう。それが全て演技でなければ、の話だが。

(だが、あの涙は――)

返してもらった弁崎の財布の中に、一つのお守りを見つけた。
何気なく見ただけのそれに、聞いたこともない神社の名が刻まれていたのが妙に引っかかった。そういえばジョディに仕掛けた盗聴器の中で、渚がお守りについて尋ねていたことを思い出し、もしや彼女の所有物かと思い聞いてみれば案の定。ならばこの神社の場所を突き止めることが彼女の素性にも繋がるかと思い、変装中であることをいいことに問い詰めてみようと思った矢先の、あの。

(…"俺"の前でも彼女は、涙を見せたことなんて一度もなかったな)

一丁前にショックでも受けているつもりか、馬鹿馬鹿しい。軽く首を振ってその考えを吹き飛ばした。
涙なんて、わざと流そうと思えばできないことでもないだろう。けれど弁崎の前で彼女がそんな振る舞いをする理由など一つもなく、また安室の前でそれを見せない理由も同じようにない。――彼女はえらく嘘を吐くのが下手な人だ。これまでの付き合いで、なんとなくそのことには気付いていた。
思わず差し出そうとした手は、躊躇われた。弁崎という男が初対面に近い女性の涙を拭う理由などありはしない。否、安室自身が彼女の涙を拭いたい理由だってありはしないはずなのだ。
だというのに大切そうにあのお守りを握り締めたその震える手が。濡れた瞳が、緩んだ目元が。脳裏に焼きついて離れない。
あれを壊したくなくて、それでいてそれ以上見ていられなくて。どこの神社か問い詰めてやろうと考えていたことなど、すっかり忘れたまま立ち去っていたことに後から気付かされた。
同時に思い出したのは、お守りを受け取った渚が掠れた声でぽつりと呟いた一言。

(…全部なくした、か)

記憶のことも、幼馴染のことも。本当は彼女は何一つ失ってなどいないのかもしれない。
それでもこれだけでも戻ってきたと安堵したように呟いたその声に、一瞬でも動揺してしまったのは確かに事実だった。

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