「それじゃあ、お疲れ様でした」

仕事の後、職場の同僚と軽く食事をしてから解散した。
うっかり話の流れで、あの日臨時で雇った安室とそのまま付き合ってることを白状させられ、「なんで一番興味なさそうだったのに!?」と問い詰められる羽目になったわけだが。それには苦笑いで返しつつ、なんとかその場を切り抜けて、ようやく解放された。
質問攻めの疲労感と、ちょうどいい具合にお酒の入ったほろ酔い感が混ざり合って、のんびりとした足取りで家路につく。
その時ちょうど横を通り過ぎたカップルが、これから彼氏の家に向かうのだという話をしていて、思わず溜息を吐いていた。

(そういえば、今日は安室さんに何も言わなかったなぁ)

別に束縛が強いタイプでも何でもなく、飲みに行くときは必ず報告するようにと言われているわけではない。ただ以前通り魔に襲われたことがあるせいか、夜が遅くなるときは連絡をくれれば迎えに行くからと念を押されたため、ついそれに甘えてしまっていたのだ。
けれどどうしてか今日はそんな気分にもなれず、こうして一人道を歩いている。

(…うん。だって。毎回毎回そんな、安室さんに迷惑かけるわけには、いかないし)

そう、自分に言い聞かせて。あの日彼に感じてしまった恐怖心には、蓋をした。
時計を見ればそれなりに遅い時間ではあったが、金曜日なので同じ考えの人も多いらしく、通りを歩く人の数はそう少なくない。その安心感もあった。自分と同じように家路につく者、これから更に遊びに行く者。様々だろう。
けれどこれだけ大勢の中で、どうして一人取り残されたような錯覚を覚えるのか。

(…馬鹿みたい。いい歳して、悲劇のヒロインじゃないんだから)

見知らぬ世界で一人、ひとまずは生きていくことに必死だった。こんなことで悩むなんて、ある意味余裕ができてきたのかもしれない。それはそれでいいことではないか。
こんな思考回路に陥るなんて、もしかしたら気付かぬ内に結構酔っていたのだろうか。そんなに飲んだつもりはないのに。軽く頭を振って、歩くスピードを速めた。早く帰ろう。どこに。今住んでる家にだ。それ以外のどこがあるというのだ。


(――って、ここどこ?)


ぼんやりと考え事をしながら歩いている内に、気付けば覚えのない道に出てきてしまっていた。
思わず苦笑いが漏れる。子どもの時こそよくあったが、いい年になってからはそうそう道に迷うことなどなかったのに。
そう、だからこそ大人になってからはあの世界に――否、この世界に来ることなど、ほとんどなかった。ここに来るときは、いつも知らない道に迷い込んで赤井の前に現れていたのだから。

(なんで、今回は違ったんだろうなぁ)

そういえば、と今更ながら考える。今回に限っては、世界を渡った切欠も、現れた場所も違っていた。
――考えても詮無いことだ。一つ溜息を零して、それから渚は来た道を戻ろうと踵を返す。いっそのこと、これでいつものようにあっさりと元の世界に戻ってしまえばいいのに――


「……え?」


振り返ったところで。多くの人が行き交う波の向こうに、路地裏に入っていく一人の男の姿が見開かれた視界の中に入った。
ほんの刹那。すぐに建物の影に隠れてしまい、その姿は見えなくなった。けれど間違いない、今のは。さっきのは。


「秀一、君」


間違いない。確かにミステリートレインで見た彼だった。反射的に、渚はその後を追いかけていた。
世良は列車内で会った赤井が本当に彼本人だったのか疑念を抱いていたようだが、渚にはその理由が分からない。顔も、声も、仕草も。あんなにそっくりな人間が他にいるものか。
その頬に残る火傷の痕のことや、ミステリートレイン内で再会した後何故姿を消してしまったのか。死んだと聞かされたのはどういうわけだったのか。聞きたい事は山ほどある。
すれ違いざまに肩がぶつかっても謝る余裕もない。もう既にその姿は見えないというのに、それでもそこから視線を逸らしたら、もう二度とその姿を見つけることは叶わない気がした。
人の波を掻き分けながら、赤井の消えていった路地裏入り口の近くまでようやく駆けていく。

(待って、待ってよ、秀一君…!)

けれどその勢いのまま路地裏に飛び込もうとして、遮られた。
強く肩がぶつかり、反動でよろけて後ろに転びそうになったところを伸びてきた左手に支えられた。


「おっと、失礼」


――あ、この声聞いたことある。
咄嗟にそんな風に考えてしまう程度にはまだ冷静さは残っていたようだ。先ほどまであんなに必死だったというのに。慌てて顔を向ければ、薄い茶髪に眼鏡をかけた青年が、どこか険しい表情でこちらを見下ろしている。
糸のように細められた目のせいであまり感情は読み取れない。渚がぶつかったことで怒っているのか、それとも特に何も感じていないのか。僅かに肩を縮こませて、それからすみませんと頭を下げれば、青年は気にしてないといった風に軽く首を振った。

「急いでいたのも、周囲への注意を怠っていたのもお互い様…フィフティフィフティです。どちらが悪いというわけでもないし、逆にどちらも悪いとも言える」

その言い方にはどことなく既視感を覚えたが、その正体を突き止めるより消えた赤井の後を追う方が渚には重要なことである。無作法だとは思いながらももう一度口早に謝罪の言葉を放つと、もう彼には興味がないと言わんばかりに路地裏に足を踏み入れようとした。
けれどそれを再び遮ったのは、やはり目の前のこの青年だ。

「こんな時間に若い女性が、あまり無闇やたらに路地裏に入っていくのはお勧めできませんね」
「そ、れは」

正論だ。そう言われると立つ瀬がない。馴染みのある場所ならともかく、ただでさえこの辺りはよく知らない場所なのだ。
それに今回この世界に渡った切欠である通り魔の件もある。確かにあの時と違って今は人通りはあるが、それもこの路地裏の方に入って行ったらほとんど人もいなくなるだろう。あの時と同じような状況になると思うと、恐怖心が蘇る。
それでも、ここで赤井を見失ってはもう二度と見つけられない気がする。

「…すみません」

一言ポツリと残して、渚は路地裏の奥へと進んでいった。
もう既に渚の関心は先ほどの青年からは完全に逸れていた。薄暗い路地裏の中に消えていく背を見つめながら、呆れたように溜息を零されたことなど、当然彼女が知る由はない。


「まったく、俺の話を聞かないのは相変わらずのようだ」


そして彼も同じようにまた、路地裏へと足を向ける。
顔を合わせるつもりはなかったんだがなと呟かれた声は、表の喧騒に紛れて誰の耳に届くこともなかった。

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