「――秀一君に、会ったの」 顔を合わせた瞬間、渚は世良にしがみ付くようにして、そう声を絞り出していた。 一瞬瞠目した世良は、けれどすぐに何かを思案するように目を細めて。「――渚さんも、見たのか」静かに呟いた。 渚も、ということは、おそらく世良も見たということだろう。ではやはりあれは見間違いなどではなかったのだ。溢れそうになるものをぐっと堪える。 けれど渚とは裏腹に、世良の表情はどことなく硬い。彼女とて兄の生存を喜ばない、はずがない。あんなに赤井のことを慕っていた世良だ。なのに素直に喜色を浮かべようとしないのは、何か引っかかる事でもあるからか。 「…真純ちゃん?」 「…あれは本当に秀兄だったのかな」 小さな呟きは、まるで自分に問いかけているようで、渚に話しかけたわけではないようだ。眉を寄せながらもう一度世良の名を呼ぶが、彼女が応答する様子はない。 けれど、渚が見たあの人物が赤井本人でなければはたして誰だったというのか。確かに赤井の顔をし、赤井の声をし、渚の名を呼んだ。他の誰だというのか。 困惑する渚を余所に、世良は固い表情を崩すことなく細めた眼差しを渚に向けてくる。 「…渚さん。秀兄がもしかしたら生きてるかもしれないっていうのは…まだはっきりしないし、誰にも言わない方がいいと思うんだ」 「ど、うして?」 けれど世良がその答えをくれる気配はなく。ただ「いいな?」と再度強く問いかけてくるものだから、反射的に頷いていた。 とはいえ、赤井が生きているかもしれないと、一体世良の他の誰に話す機会があるというのか。世良の他に彼のことを知る者を、渚自身は知らないというのに。 そういえば赤井は何故死んだとされていたのか。再び持ち上がった疑問を、けれど今の彼女に尋ねる勇気はどうにも出てこなかった。 *** 無事に帰宅した渚は、まず真っ先に安室に連絡をした。 殺人事件、そして爆破事件などがあり、緊急停車したことは当然のことだろうが大々的にニュースにもなっているようだし、ミステリートレインに乗ると話した手前、安室にも心配をかけているかもしれない。 概要をメールにまとめ、送信すればすぐに通話を告げる音が鳴り響いた。慌ててとれば、画面に表示されていたのは安室の名前。 ほ、と息をつき、すぐに画面をタップして電話に出る。 「――もしもし、安室さん?」 『メール見ました。…大変でしたね、渚さん』 気遣うような声に、燻っていたものが徐々に瓦解していく想いがした。無意識の内に肩の力は抜け、頬は緩んでいく。今なら軽口を叩く余裕さえありそうだ。 『怪我などはありませんでしたか?』 「そんなのは、全然。…なんだか安室さんと出会ってから色んな事件に遭遇するんですけど、やっぱり探偵は事件を引き付けるものでも持ってるんですか?もう、私の平穏な日を返してください」 『…そんな冗談が言えるようなら、大丈夫そうですね』 小さく笑う声が聞こえて、不謹慎とは思いつつも同じように渚も小さく笑いを零した。 あの時のように、事件現場を見てしまった渚をきっと彼は心配してくれたのだろう。ただでさえ幼馴染が死んだと告げた直後だ。優しい安室らしい。 ふと、あの時狼狽していた渚を慰めてくれた優しく大きな手を思い出して、あの手が恋しくなった。とは言え素直に会いたいと告げるのは、なかなか面映いものがあるのだけれども。 「事件自体は毛利さんが解決してくれたみたいですよ。私はその場にいなかったからよく知らないけど…」 『ええ、知ってますよ。弟子として補佐させて頂きましたから』 「…ん?」 『蘭さんから聞きませんでした?実は僕もあの列車に乗っていたんですよ。うまいことネットで競り落とせたので』 突然の告白に思わず「え!?」と大声を上げてしまい、慌てて電話の向こうの安室に謝った。耳元でうるさかったかもしれない。案の定電話の向こうからは苦笑が聞こえ、それからしてやったりと言った風に忍び笑う声が聞こえる。 「教えてくれても良かったじゃないですか…」 『すみません、どうせなら向こうで会った時に驚かせようと思ってたんです。…蘭さん達には会ったんですが、その時あなたは事件現場に戻ったと聞かされて…心配しましたよ』 「え?…ああ、真純ちゃんのところに戻ろうとしたときかな…」 一瞬間が空き、それから『"真純ちゃん"?』と尋ねる声。ミステリートレインに誘ってくれた人だと告げれば、納得したように頷く声が続いた。 『渚さん、あんまりミステリーに興味なさそうだったのに、そんなものに参加するなんて珍しいとは思ってたんです。誘ってくれた方がよほど親しい人なのかなと。どういったご友人で?』 「そ、れは」 幼馴染の妹だと正直に告げようとした言葉は、妙なところで途切れた。 渚の素性を知られるのが怖くて、肝心の幼馴染の名の記憶さえ失っていると偽っているのに。その妹のことを正直に告げるのはどうなのだろう。世良のことから彼を調べられ、赤井に辿り着き、そこから渚の身元を調べられでもしたら―― 初めに安室に彼の話をしたときは、まさか赤井がこの世界の人間だとは思っていなかった。今ではそれが判明したものの、かと言って結局明確に二人の繋がりを示すものがあるわけでもなく、不審に思われるのが心苦しいことに変わりはない。 「…ただの友達、です。確かにミステリーはそんなに興味ない方でしたけど…折角誘われたから食わず嫌いしないで行ってみようかなって」 『ああ、そうだったんですか。それで、ミステリーへの偏見は払拭されましたか?』 「正直、それどころじゃなかったので…」 うまいこと誤魔化せただろうか。そう思ってる内に、不意に安室の声が止む。不思議に思って彼の名前を呼べば、「いえ、」と静かで優しい声が耳元で紡がれた。 『すみません。声が明るくなってて、安心、しました。…最近渚さん、幼馴染の方が亡くなったことで随分塞ぎこんでいたようでしたから』 一瞬、彼が生きていたことを話してしまおうかと思った。 ただその直前、世良が「誰にも言わない方がいい」と告げたことを思い出し、咄嗟に口を噤んだ。 世良が何を思ってそう言ったのかも分からないし、それに探偵である安室とFBIの捜査官である赤井に繋がりがあるとも思えない。安室にくらい正直に話したことで何の問題があるとも思えないのに。 ただあの時の真剣な世良の表情が脳裏に焼きついて離れない。――赤井は何故死んだのか。本当に死んだのか。あの列車で遭遇した彼は確かに赤井本人だったと思うけれど、では何故あの先の記憶がないのか。最後に聞こえたあの女の声は、誰のものだったのか。 正直わからないことが多すぎて、今渚にできることは、ただ世良の指示に従うことだけ。 「――もう、大丈夫です。安室さんも、皆も支えてくれたので…」 『そう、ですか。それなら良かった』 安室に不審に思われなかっただろうか。特定の誰かに嫌われることがこんなに怖いだなんて、少し前の自分からは到底考えられなかったことだけれど。 こんなに親身になって接してくれる彼に対して嘘を重ねる罪悪感とは裏腹に、会いたい、という先ほどの気持ちがふと強くなった気がした。 「――安室さん、その」 『…はい?』 「…電話でも、いいけど。…会いたい、です」 電話越しだというのに、どれだけ緊張しているのか。頬に熱が集まるのを感じながら、渚はじっと安室の返事を待った。 けれど電話の向こうから返ってきたのは、しばらく躊躇の後の「…すみません」という返答。 『僕もあなたに会いたいです。…が、今ちょっと風邪を引いてまして、あなたに移すわけにもいきませんから』 「え?」 だが続けられた意外な理由に、渚は目を瞬かせた後、慌ててスマホを持ち直した。 風邪だなんて聞いていない。大丈夫なんですかと尋ねたが、安室は大したことはないといった風に答えるだけ。 確かに声も辛そうだとかそんな風には感じられないけれど。 結局、大丈夫だという安室に押しきられて電話を切ったところで、溜息を一つ零した。 看病にくらい行きたいと思ったところで、そういえば自分は、安室がどこに住んでるのかすらも未だに知らないのだ。 |