暑い夏の日だった。空から照りつける太陽の光は、皮膚の外側を刺すように焼いていく。ちりちりとした小さな痛みを首筋と両腕に感じながら、一騎は自宅前に続く舗装された階段を下っていた。父に頼まれ近所へ用事に出かけた帰り道、島に暮らす人々の重要な生活道路であり、眼下に望む港まで続くその階段は夏の熱気を孕んで、もやもやとした陽炎の揺らめきを地面から立ち昇らせていた。
 一歩一歩足を踏み出して、息が切れないよう一定のリズムで段差を降りる。ここで暮らしていく中で自然と身についた動作は、意識せずとも体が覚えていた。真昼間だというのに、この暑さでは外に出ようという気も起きないのか辺りは人っ子一人おらず閑散としていて、海から吹き上がってくる潮を含んだ生温い風と、煩いぐらいの蝉の鳴き声だけが身に感じる現実だった。まるで世界に一人取り残されたような気分になって、途端に軽くなった呼吸にほっと息をつく。いつも息を殺し、身を潜めるように日々を過ごしている一騎にとって、誰の目にも映らない、自分以外の人間は誰も居ないという状況はどこまでも深い安堵感に包まれて、その時だけは上手く呼吸が出来る気がするのだ。
 少し落とした視線の隅で、黒い影が横切る。野良猫だろうかと一度落とした視線を上にあげた瞬間、見えた人影に足が止まった。反射的に後退ろうとして、階段の段差に阻まれる。突っ立ったまま一歩も動けず、背中をひと筋冷たい汗が伝い落ちて、鼓膜を揺らしていた蝉の鳴き声が遠くなる。一騎から少し離れた場所に、総士が立っていた。
 炎天下の中光を反射する白いシャツが翻って、それに合わせて色素の薄い長い髪も揺れている。そんなはずないと、どんなに頭で否定しようとしても、今一騎の目の前にいるのは間違いなく総士だった。じっとこちらを見る眼差しは灼熱の中に落ちる氷塊のように冷たく、薄鈍色の瞳からは感情の一端すら窺い知れない。音のない世界で酷くゆっくりと開いた唇が震え、一騎、と動いたのを、見た。
「っ、そ」
 咄嗟に彼の名前を言おうとして、口の中が酷く乾いていることに気付いた。喉が痛くて声が出ない。先程までの安堵感は急激に薄れ、罪悪感がひたひたと波のように押し寄せてくる。こちらを見つめてくる総士の顔を正面から見ていられず、一騎の視線はうろうろと彷徨ったが、結局視線は足元へと移り視界には焼けた石段が見えるだけになる。極度の緊張で冷えた指先を悟られまいと、総士には分かるはずが無いのに隠すように握りこんだ。空気が歪み、一瞬の間が延々と続く時間にさえ思えてくる。
 青い空から照りつける夏の日差しは変わらずに、首の後ろを責め立てるように焼いていく。心臓が爆発するぐらい激しく動いていて、何度か喘ぐような息を繰り返した。
 そんな様子を見て何かを言おうとしたのが気配で分かったが、結局総士の口から言葉が発せられることはなかった。その代わり、じゃり、と靴底が地面を踏む音がして、ゆっくりと足音が遠のいていく。
 恐る恐る視線を上に戻せば、一騎よりも幾分ゆっくりとした速さで階段を降りる後ろ姿が見えた。行ってしまう。あ、と小さく零れた声が耳に届いて、それが自分の声帯から出た音なのだと理解した瞬間、酷く動揺した。俺は、あいつに、一体何を言うつもりなんだ。謝罪か、それとも赦しを請う言葉か?今更どんなに謝ったところで、彼は決して許してはくれないというのに。自分の浅はかな考えに表情を歪める。喉も、足も、凍り付いたように動かなかった。

 全身の緊張が解けたのは、遠ざかっていく後ろ姿が家の間に完全に見えなくなってからだった。再び騒ぎ出す蝉の鳴き声と共にざわざわと這い上がってくる悪寒をやり過ごし、額に浮いた汗を緩慢に持ち上げた手の甲で拭う。家に帰ろうと一歩踏み出し、ふと階段横の軒先に作られた小さな池が目に入った。
 コンクリートで四角く固められた一メートルほどの池は、雨樋を通して流れた雨水が流れ込む仕組みになっており、火災などの非常時には火を消すための防火水槽の役割を担っている。緑色の水面には住人が植えたのか睡蓮の葉が浮いていて、葉陰からちらちらと赤い金魚が見えていた。
 その手前に、水面を漂うように浮かんでいる一匹がいた。波紋を作りながら生白い腹を見せて浮かぶ金魚は酸素が足りないのかぱくぱくと苦しそうに口を動かし、最早泳ぐ力も残されていないように見える。その上をどこからか死の臭いを嗅ぎ付けて飛んできた蝿が旋回していた。
 一騎はその光景から目を離せない。忙しなく呼吸を繰り返し、空気の溜まった生白い腹を出して水面を力無く浮かぶ金魚が、罪の意識に喉を絞められる息苦しさに喘ぎながら毎日を過ごす自分に重なったのだ。罪悪感に肺と喉を押し潰され上手く呼吸が出来ず、日常という水面を泳ぐ力もなく死を待ちただ浮かぶだけの存在。力尽き、腐敗して水中に沈んでいくであろう運命のちっぽけな体がまるで未来の自分を暗示しているようで、一騎はしばらくの間、目の前の光景を食い入るように見つめ続けた。




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