小さなテレビの画面の中で、白いポロシャツを着た天気予報士が今日の天気を告げている。惰性で見ていたワイドショーの中の、小さなお天気コーナーだった。最高気温は三十度、全国的に猛暑日となるでしょう。お出掛けの際は、熱中症対策を万全にして―――
 にこやかな笑顔が最後まで言葉を言い切らないうちに、ぶつんと音を立てて画面が暗転した。完全に沈黙したテレビを呆然と見つめること三秒。再起動した総士が後ろを振り向けば、リモコンを手にした一騎がにこやかに笑っていた。
「出かけよう、総士」



 固まりになって耳に飛び込んでくる蝉の声が痛いぐらいに煩い。アスファルトを焼いた刺すような日差しが熱気となって這い上がり、じりじりと体に纏わり付いた。午後一番の、太陽が丁度真上にあるような時間だ。とにかく暑い。一刻も早く冷房の効いたアパートの一室に帰りたい衝動を抑えながら、目の前を軽やかに歩く一騎の黒髪を見つめた。
 半ば強制的に連れ出されたはいいものの、行き先を総士は知らない。ちょっとそこまで散歩に、そんな雰囲気で靴を突っかけ玄関のドアを開けた一騎は何も言わなかったが、ひょこひょこと揺れる尻尾のような、後ろでひとつに結ばれた髪は上機嫌だった。常人離れした機動力と少しばかり放浪癖のある一騎の「ちょっとそこまで」は世間一般のちょっとそこまでという距離ではないので、それを長年の経験から知っている総士は諦めたように項垂れた。いや、寧ろ連絡も無しに一人でほいほいと行かれるよりは、こちらを巻き込んでくれた方が都合が良いと、のこのこ付いて来た自分自身に理由を付ける。
「そこで待っててくれ」
「ああ」
 街の雑踏を抜けて辿り着いた駅の改札口で、一言待つように告げてから一騎は足早に券売機へと向かった。すぐにこちらに戻ってきたその手には特急券を持っていて、新幹線に乗る程ではないもののどう考えても目的地が近場ではないことを悟る。休日の昼から家を出て、一体こいつはどこまで行くつもりなんだ。僅かな眩暈を感じながら渡された特急券を片手に持ち、総士は諸々の覚悟を決めてから改札を通り抜けた。

 



 丸みのある四角形に切り取られた緑が、次々に後ろへと流れていく。それを視界の隅に収めながら、景色を楽しむ余裕など無く座席に深く沈み込む。乗り物酔いだった。
 丁度昼時の車内は、座席で食事をとる乗客ばかりだ。窓を開けることも出来ず、換気も追い付かずに立ち込める食べ物の匂いは総士の胃に不快感を与えるのに十分だった。元々電車の揺れは得意ではないのは分かっていたはずなのに、普段利用する機会が無いので油断していた。
「大丈夫か、総士」
「……大丈夫に見えるか?」
「だよな」
 心配そうにこちらを見る一騎に憔悴しきった声で返事を返すと、困ったように眉を下げて笑う。特急券に書いてある目的の駅までは、まだ一時間弱ある。乗ってしまった手前途中の駅で降りることも出来ず、周りの乗客に一刻も早く食事を終わらせてくれと心の中で願うことしか出来ない。
 車内販売のカートを呼び止めた一騎が、ペットボトルのお茶を買って手渡してくる。ありがたく受け取り、中身を喉に流し込んだ。程よく冷やされた液体が喉を通るのが気持ち良くて、胃の不快感が少しましになった気がした。そのまま息を吐いて、目を閉じる。
「少し寝てろよ」
「そうする」
 こんな時は、延々と苦しむより意識を手放してしまった方が楽だ。隣に座る一騎に申し訳ないなと頭の片隅で思いながら、促されるまま総士は浅い眠りに落ちていった。


 窓側で眠る総士から、規則正しい寝息が僅かに聞こえてくる。薄く開いた唇の上から静かに一定の速度で繰り返されるその小さな音は、昔テレビで見た、シュノーケルの気泡の音とどこか似ていた。走る電車の不規則な揺れに身を任せながら、一騎は窓の外を見る。
 電車が進む度どんどん家の数がまばらになり、視界に映るのは夏の日差しを受けて勢いを増す山の緑と、山際のなだらかな稜線に小さく切り取られながらも、どこまでも高く続きそうな青い空だった。少し離れた席から楽しげな話し声や子供の笑い声が耳に届いて、平和だなあと頭の片隅で思う。
 視線を車内に戻せば、腕組みをして眠る総士がいる。普段起きている時よりずっと幼い寝顔をじっと見つめる一騎の位置からは、なだらかな左目の瞼の起伏に歪に走る、大きな傷跡が良く見えた。同時に指の付け根にぴりぴりとした僅かな痺れが走って、一騎は確認するように自らの指を見下ろした。
 膝の上に置かれた何の変哲も無い十指は、ただそこにあるだけだった。なんとなく自分の意思で動かしてみる。膝の上で、グーとパーを繰り返した。脳の命令通りにスムーズに動く手は、何の問題も無い。よく見れば切るのを怠けていた爪が伸び始めていて、帰ったら切らないとな、と思った。それだけだった。
 ざわざわとした車内に、アナウンスが入る。読み上げられた駅名は出発駅で買った特急券の下車駅に書かれているもので、一騎たちが降りる駅だ。窓の外の景色は、先程よりも緑色を深くしていた。
「総士、着いた」
 未だ隣で目を覚まさない総士を起こす為に、一騎は手を伸ばしてその肩を優しく叩いた。




 
 落書きだらけの草臥れたベンチに腰を下ろして、通過の快速電車を何本も見送る。そこそこ有名な観光地への乗り継ぎ駅という理由で、特急がかろうじて一日に数本止まるその駅から再び電車に乗るには、三十分に一本の各駅停車の電車を待つしかない。横に座る総士は乗り物酔いから回復して時々暑そうに服の襟をぱたぱたしていたけれど、電車を降りてからずっと黙っている一騎には何も言わなかった。
 目的地は最初から特に決めていたわけではなく、真夏の気怠い午後の空気に突き動かされるままここまで来てしまった。休日らしくゆっくりと過ぎていく時間と、アパートの部屋の外から聞こえてくる笑い声、昼食の後食器を洗う一騎の目の前でテレビを見る総士の後ろ姿、机の上に置かれているグラスの中の氷が立てる小さな音。明確な理由は一騎にも説明できず、ただ、ふと漣のように身の内に広がった、とにかくどこかへ行かなければならないという焦りにも似た気持ちに追い詰められるまま、総士を巻き込んで外に飛び出した。
 どこに居ても賑やかな蝉の声を聞きながら、人気の殆ど無いホームでゆっくりと空に張り付いて成長する入道雲を見る。そのうち湿気を含んだ風が頬を撫で、視界の真ん中にくっきりと青空と黒い雲の線が出来て、ああ、これは一雨来そうだと思ううちに落ちてきた大きな雨粒が地面にまだらな模様を作り始めた。それはすぐに勢いを増し、バケツをひっくり返したような土砂降りの雨になる。夕立だ。
 すん、と鼻を鳴らして息を吸い込むと、土が湿った懐かしいような匂いがする。灰色に暗くなった景色と、勢いよく打ち付ける雨が濃霧のように二人から周囲の視界を奪った。ベンチがあるのは屋根がある場所ではあったが、風と共に吹き込んでくる細かな水飛沫が肌に当たって冷たい。ごろごろと近くで鳴る雷が地響きのように体の内側を揺らした。
「……すごい雨だな」
「すぐに止むさ」
 沈黙を破り、ぽつりと零した言葉に落ち着いた優しい声が返る。あちこちで聞こえる雨垂れの音が耳に近い。膝の上に置いたバックパックを抱え込んで、白く煙る景色に紛れるように一騎は総士の肩に頭を乗せた。怒られないことを確認して、体勢が傾いたことで斜めになった雨の線を黙って眺める。雷は相変わらず近くで鳴っているが、灰色の空から落ちる雨粒は既に先程のような勢いは無くなっていた。あと数分で、次の電車が来る。
 




 夕日が海に沈んで少し。水平線から漏れる僅かな光源だけが頼りの薄墨色をした闇の中で、目の前に居た一騎が砂浜を波打ち際へと歩いていくのをぼんやりと見つめていた。部屋を出て半日と少し。電車を乗り継いで来たのは、夕闇に人もいなくなった小さな砂浜だった。
 遮る物のない海風に、彼が羽織っている白いシャツがはためいている。鼻の奥に潮の匂いが抜けていくが、生まれてこの方海からは遠い場所で生活し、嗅ぎ慣れないはずのそれはどこか懐かしさと安心感を総士に与えた。それは一騎も同じらしく、時折砂に足を取られながらもその足取りはとても軽い。
 長い髪が風に煽られるのをそのままに、総士は一騎の後姿を見つめる。波が届くか届かないか、ギリギリのところを歩いていた彼は、急に立ち止まると群青と淡く交じり合って消えようとしている水平線を見据えた。何かを思うように細められた後、ゆっくりとした動作で後ろを振り向く。視線が重なった。
 薄い唇が、たった三文字の言葉をまるで葉の上の露を零すように呟いて、それが自分の名前だと理解した瞬間に、総士はこの旅の終着点がこの場所なのだと理解した。呼ばれた名前にああ、と短く返事をすると、どこか頼りなく微笑んだ一騎が目を伏せる。
「帰りたいのに、帰りたくないんだ」
 子どもが罪を懺悔する様に小さく絞り出された言葉は、行き先を見つけられずに二人の間に落ちていった。合間を縫うように響く静かな波の音が、砂の上に散り散りになった言葉を海へと攫っていく。
 一騎がここではないどこかへ帰りたがっているのを知っていた。必要最低限の荷物だけを持って、ちょっとそこまでと言いながら当てもなく、そのどこかを見つけようと理由の分からない焦りに追い立てられるように出かけては、けれども結局、途方に暮れた表情で帰ってくるのをずっと見てきた。
 彼が無意識に何を見ているのか、何に思いを巡らせているのか、総士には分からない。確かに同じ場所に居る筈なのに、彼を酷く遠くに感じて、そんな時、彼が自分の足でこちらに帰ってくるまで引き戻すことも出来ない自分が歯痒くて仕方がなかった。
 だから、今。一騎に言いたい言葉がある。ずっと言いたくて、けれども結局言えなかったこと。僅かに零れる怖いと思う感情ごと掬い上げるように、総士は短く息を吸い込んだ。夕闇の幕間に、芯を通した穏やかな声が揺れる。
「僕の所に、帰ってくればいい」
「総士」
「お前の帰る場所は、僕の隣だ、一騎」
 柔い場所を狙い、真っ直ぐに射た言葉は一騎を逃がさない。滲む感情の一滴を湛えた黄玉色の瞳が静かに総士を見つめ、まるで迷子の子供のように伸ばされたその手を取るために、一歩踏み出す。
 群青と溶け合った水平線は、もうどこにも見えなくなっていた。



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