まだ明け切らない夜の海を渡り、夢と現実の境界線に真っ白い靄が漂った頃。皺だらけになったシーツの波を抜け出して、ユーリは綿毛のような蜂蜜色をそっと撫でた。
 薄い膜の中から解けるように外気に晒された素肌には、所々に赤色が散っていた。風に吹かれて舞う花びらのような、小さくて儚い色。そこまで考えて、ふっと緩んだ息を零す。そんな綺麗なものではない。もっと汚くて、醜くて、けれどもどうにも甘ったるくて、愛しいものだ。
 床に投げ捨ててあったカッターシャツを手にとって袖を通す。ふわりと微かに漂った匂いは自分のものではない香りで、あいつが付けていた香水も確かこんな匂いだったな、と昨夜の記憶を思い出した。至近距離まで近付かなければ分からない程度の移り香だが、良く鼻が効くラピードには分かってしまうだろうか。今更彼に隠す間柄ではないけれども。
 滑らかなフローリングに着けた足の裏の皮膚から、夜の名残の冷たさが上がってくる。反射的に小さく肩が震えて、逃げるようにベッドの側を離れた。
 寝室の扉を開けて、リビングへと。静かな空気をかき混ぜながら移動する。壁掛け時計が小さなリズムを刻むのを聞きながら、ふと目に入ったテーブル。その上に鎮座している、水色の小さな箱に近付いた。そっと手に取ってみると、驚く程に軽い。軽いけれども、その軽さに込められた気持ちは重いことを知っている。
 箱の上に丁寧に掛けられた、箱よりも濃い青のリボンを、渡された本人よりも先に解く。しゅるりという衣擦れの音と共にあっけなく解けてしまう青色に、口の端から笑いが漏れた。罪悪感は微塵も無かった。テーブルの木目の上に音も無く落ちた密かなまじないと期待を見て、湧き上がったのは歪んだ優越感だった。
 箱を開けてみると、区切られた四角の中に小さな丸が行儀良く納まっている。きめ細やかなココアパウダーが掛かったそれは、所謂トリュフチョコレートというものだ。少々歪なその丸を、どんな気持ちで作ったのか。当日に渡せば沢山の思いの山に埋もれてしまうからと、一週間もずらして。大切に大切に準備したであろうその思いは今、本人に届く前に、予定外の邪魔者によって潰されようとしている。
 箱を持ったままキッチンへと移動すると、ユーリはステンレスのシンクの縁に箱を置き、流しの横の水切りかごからマグカップを取り出した。そのまま冷蔵庫を開け、牛乳を取り出してマグカップに注ぐ。電子レンジに入れ、スタートボタンを押した。
 僅か数分で出来上がったホットミルクは、柔らかな匂いと湯気を立ち上らせる。マグカップの中に出来た白い鏡の中に映った自分の影が、朝のグレーの中心で不安定にゆらゆらと揺れた。今、自分の表情が分からない。
 置きっぱなしになっていた箱の中から、トリュフをひとつ指に摘む。それから躊躇いも無く、その白い鏡の中に落とし入れた。波立った表面に、ココアパウダーの薄い茶色がぶわりと広がる。続けて二つ目も三つ目も、最後の四つ目も全て入れ終えると、ティースプーンでゆっくりとかき混ぜた。一混ぜする度に、ホットミルクに少しずつ色が付いていく。同時に甘い香りが鼻腔を擽る。アイツに対する好意の匂いだ。そんなもの、全部溶けてしまえ。渦を巻く茶色に、女々しい気持ちも混ぜ込んだ。
 全てを溶かし切ってから、漸くマグカップの縁に口を付ける。純粋だったはずの思いや気持ちを横から奪って、届けと願った相手に届く前に跡形もなく胃に流し込む。舌の上に乗ったのは甘味のはずなのに、どこか苦い気がしてユーリは眉を寄せた。全て寝起きのせいにする。寝起きで舌が鈍っているからだ。それにこんな、早朝のキッチンで、嫉妬に狂った女みたいな。普段ならこんなことは絶対にしない。どうかしている。シンクに背を預けて、もつれるように出てくる思考に自嘲するように笑った。
 マグカップの中身が温くなり、半分程になった頃、寝室の扉が静かに開いた。時計に視線を走らせるが、まだ起きるには早い時間だ。居なくなった自分を探しに来たのか。リビングに入ってきたフレンは、キッチンに立っているユーリを見つけて安心したように笑った。普段の彼からは考えられない、随分としどけない姿だ。辛うじていくつかボタンを留めたシャツは隙間だらけで、普段は見えない場所の肌色が覗いている。
「ユーリ、おはよう」
「おう、おはよう」
「早いな」
「たまにはな」
 チョコレートの匂いがする。そう言ってくんくんと匂いを嗅ぎながら、視線を巡らせたフレンはテーブルの上に目を留めた。その上に横たわった青色のリボンを、見て。それから、キッチンにいるユーリの方へと。シンクの縁に置かれている、無残な姿になった水色の箱は、フレンには見覚えのありすぎるもののはずだ。昨日、その箱を受け取ったのは彼自身なのだから。
 少し考えて、この状況に考えが至ったのだろう。眉を僅かに寄せて、呆れたように溜息を吐き出したフレンはユーリへと視線を合わせる。
「君ね……」
 呆れた、顔に書いてある。しかし表情を見るに、怒ってはいない。ユーリは笑う。この瞬間、ユーリの行動をフレンは許容した。その時点で、フレンもまた共犯者なのだ。
「欲しかったのか?そりゃ悪かったな」
 シンクから背を離して、一歩、二歩、三歩。肌触りの良いシャツの襟を掴んで引っ張って、近付いた唇に噛み付いた。そのまま一秒、二秒、三秒、お互いが本気になる前に離れると、こちらを見つめる瞳に挑発的に笑ってやった。
「これでいいだろ?」



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -