負け戦 嵌められた。気付いたのは同時。身じろぎの間合いで、「動揺するんじゃねえ」と指示された。ため息が了承の合図。言葉にせずとも何かと伝わる関係である。だがいずれも作戦会議ではない。 テーブルの上には、象牙製の八面体ダイスが転がっている。こいつらは先ほどから碌な目を出さない。 ネロは自分の手札を見やる。こちらも雑魚揃いだ。山札を何枚崩そうと、ろくな上がりが期待できない。幼い子どもが、最弱のカードをおふざけで寄せ集めたみたいな、奇跡的な弱さである。 そしてこのレベルの手札が、ブラッドリーにも与えられている。 「まずは俺様からだな」 不利はおくびにも出さず、ブラッドリーが一枚目のカードを棄てる。最弱のカード。 この手のゲームでは定石の小手調べだが、ネロは舌打ちを堪えるのに必死だった。このままでは、自分たちはギャンブルに負ける。当然賭け金が奪われてしまう。何より――視界の端でチラつく、ペナルティが問題なのだ。 ▼ 数時間前、遠方での野暮用を終え、ブラッドリーとネロがなだれ込んだのは、繁華街の隅にある安宿だった。ホコリっぽいベッドや店主の不味いスープを、酷いもんだと笑い飛ばしていたところ、食堂の隅でカードを広げていた男たちから、チーム制のギャンブルに誘われたのだ。 カードとダイスを使った四人制。全五ゲームで、三ゲーム先取したら勝ち。 賭け金は今晩の宿泊費に色をつけた程度。ただし一ゲーム負けるごとに、特製の薬酒をワンショット飲み干さなくてはならない。 大瓶に入った青鈍色の液体には見覚えがあった。国境の歓楽街で流行していた、催淫薬の一種である。眩暈や火照り、動悸、脱力に昏睡……個人差はあれど、少量でかなり効く。確かに醸造酒の一種だが、気持ち良く酔える類のものではないことくらいは知るところだ。 とは言え一度乗った手前、これしきのことで引くわけにはいなかった。案の定ブラッドリーは口角をこれでもかというくらい引き上げ、「雑魚でも相手してくれる女を呼んどけよ」と煽る始末。 しかし悠長に構えていられたのも、ものの十分だった。ディーラーと店員どころか、見物客全員がグルだったと気づくまで、大した時間はいらなかった。嵌められたのだ。 連中は、自分たちが罠にかけた相手が魔法使いだとは気付いていない。わざとらしい演技を挟み、着々と二人を追いこんでくる。 「………ブラッド」 「ああ」 とは言え、敗北に震えたのもまた、ものの数分のことだった。徐々に勝機が見え始める。全五ゲーム制というのが幸いした。恐らくどうやら人数で囲う戦法に慣れ過ぎて、知略や交渉の腕は磨いてこなかったらしい。所詮は場末のチンピラだ。雑魚手札の法則と、連中のサインさえ見抜いてしまえば、後は二人がかりでどうとでもなる。 ……ただしそのためには、前半の二ゲームを捨てなくてはならない。 「残念だったな。一ゲーム目はあんたの負けだ」 下賤な笑みの男が、ブラッドリーのショットグラスに薬を注いでいく。楽しくてたまらないという、弾んだような仕草だった。勢い良く注がれた液体は、波打ってテーブルを濡らした。 「どっちが飲んでもいいぜ」 外野連中も興奮した歓声を上げている。ひょっとすると賭け金なんてそもそもが口実で、事情を知らぬ旅人を連れ込んでは、一晩のおもちゃにしているだけなのかもしれない。 ――よくある話だが、面白くはなかった。いけ好かない。 「ネロ」 「なんだ」 「お前が飲め」 卑怯な連中相手とは言え、賭けは賭け。ルールはルールだ。 「……そのつもりだったけどよ」 耐性に関しては、ネロもブラッドリーも同程度。ならば飲むのは自分だという、当たり前の感覚がネロにはあった。実際グラスに手を伸ばす準備は出来ていたのだ。 しかし面白くないのも事実。こうも頭ごなしに命令されものだろうか。せめて多少やり取りがあってもいいだろう。潰れたらどうするかとふざけてみたり、この後のゲームをどう運ぶかなんかをいくらか相談してみたり。 何か言ってやろうとしたところで、制するように追い打ちがかかる。 「お前が飲むしかないだろ」 ブラッドリーは揺るがなかった。ショットグラスを握り、強引にネロの口元に押し付ける。 「……っ、おい」 「ほら、口開けろ」 「う、……っ」 冴えた瞳。血液のような相貌。この光を宿した男が、梃子でも揺るがないことは経験上重々承知している。 「……ッ、わかったよ!」 不服だ。だが抵抗は無駄。仕方がない。ネロは今度こそ舌打ちを抑えず、グラスをひったくって大口を開けた。 「……〜〜っ、ぅ」 喉の奥まで一気に流し込んだせいで、少々咽た。豪快な飲みっぷりも相まって、見物客から歓声が上がる。粗悪なアルコールと、薬効最優先の配合が、喉や鼻につんと染み入って不愉快だった。 「げほっ、……くそッ」 不味い。口に入れるヤツのことを、これっぽっちも考えていないのがありありと伝わる。舌を刺すようなえぐみ。誤魔化す気も無い青臭さ。多少の甘味を加えるだけで、断然飲みやすくなるだろうに。 要するにそういう薬なのだ。毒とも言う。 「……おら、二ゲーム目だ」 ネロが大層不快げにグラスを飲み干すのを見届けてから、ブラッドリーは豪快な仕草で足を組む。一ゲームくらいなんてことないのだと、知らしめるような振る舞いだった。 「…………ふん」 その横顔は、ダイスとカードの山に注がれるばかり。横顔をうかがうネロの視線が、先ほどよりも僅かな熱をはらんでいることなど、まるで気付いていないように見える。 実際のところ、ショットグラス一杯ではすぐにどうなるわけでもない。微かに熱っぽいような気もするが、そこそこのアルコール度数のせいだとネロは思った。喉の焼けるような感触や、指先の微かな痺れ、呼吸の不安定も、喉元過ぎればどうにでもなるように思えた。否、思い込もうとした。 「――残念だったな」 敵チームの手札が、自信満々の声と共に放り投げられる。不自然なほどに強い上がり手である。当たり前だ。店ぐるみのイカサマなのだから。 とは言え、ハラハラするのもここで終わりだ。二ゲームを捨てれば、こいつらのイカサマトリックは通じなくなる。三ゲーム目からは、主にこれまでの上がりカードを使う。ディーラーの手が届かなくなるし、山札の内容も把握できた。ダイスの癖も分かったので、出目を好きなように調節できる。 問題はこの、ショットグラスだ。ネロは大きなため息をつく。敢えてではない。勝手に出てきた。熱っぽく、重々しい。 「……また俺が飲むのかよ」 認めたくないが、既に薬効は十分現れている。二ゲーム目が長引いたせいかもしれない。頬が熱い。耳まで茹であげられたような気分だった。喉が熱く、僅かだが時折、視界が白む。喧噪が遠い。そのくせ、隣にいるブラッドリーの鼓動が、やけに大きく鮮明に聞こえる。ゲーム中、低い唸り声が聞こえるたび、何かが込み上げてくる感覚があった。 「なあ、ブラッド。今度はお前が」 「ネロ」 「〜〜っ、だって」 「俺は飲めねえ」 「……はぁ?」 「お前が飲め。悪いけど」 キッパリとした、それでいて殊勝な物言いに混乱する。納得がいく答えが欲しかったが、問い詰める猶予はないらしい。敵チームも見物客も煩い。 それになんとなく――これ以上長引かせると、まずい気がした。 「〜〜ッ、最悪」 まるで嬉しくない歓声を浴びながら、ネロは二杯目を空にする。舌が慣れたのか鈍ったのか、先ほどよりも不快感は薄れている。その変わり、腰回りがずっしりと重く締め付けられるような感覚があった。 「っし次だ。見てろよ」 わざと勇んでみる。舌先がもつれるので、声を張り上げて誤魔化した。早く。全身がそう叫んでいるのに気づく。早く、早くしてくれ。 ▼ 「ネロ、水」 冷たい水が床に飛び散る。グラスが手の平をすり抜けてしまったのだ。 「悪い……」 「いい。横になってろよ」 「あー……」 「掛け金は明日の朝に分ける」 「んー……」 多少苦戦したが、ネロとブラッドリーは無事にゲームに勝利した。相手連中は交互に罰ゲームのショットグラスを煽っていたが、早々に潰れ、そそくさと店を出て行った。 ブラッドリーはグルだったギャラリーからもしこたま巻き上げ、足取りの覚束ないネロを肩に抱いて部屋まで戻り、弛緩した体をベッドに放り投げた……というところである。 一方ネロは、あの強力な催淫薬を二杯も飲み干したせいで、既に限界を迎えていた。五ゲームを無事に終えるので精一杯。意識も視界も朦朧としている。酒で悪酔いした時のような、頭痛や嘔吐感はないが、熱っぽさにおかしな浮遊感。違和感。窮屈だった。何もかもが。 「なんで俺だけ……」 古臭いシーツの、冷たい感触が心地良い。頬ほこすり付ける。 ブラッドリーはその様子を何とも言えない目で見下ろしながら、くたびれたソファに腰を下ろした。 「お前も飲む気満々だっただろ」 「初めだけだっつーの……せめて二杯目は、あんたが飲んでもよかった」 「俺までヘニャヘニャになっちまったら、あいつらの思うつぼだろうが」 「だからって……」 「大体なぁ」 文句の止まらないネロの、何かが琴線に触れたらしい。ブラッドリーは突然立ち上がり、ネロの顎を強引に掴み、至近距離で睨みつける。 「俺があんなもん飲んだら、お前今頃無事じゃねえぞ」 「……あ?」 そうしてネロが言葉の真意を測り切る前に、唇に噛みついた。 「……っ!?」 動揺し、抵抗しようとしたネロの手足が、無理やりベッドに押し付けられる。ばたつけば絡め取られ、文句は舌で封じられた。粘膜が触れ合った瞬間に、一際大きな、得体の知れない波に襲われる。 「っん、ぁ……っ」 キスより捕食に近い。つぷ。唇の皮膚が破けた。血の味がする。ブラッドリーの舌が、その血液を舐め取った。 同時に布が裂ける音と、何かが弾け飛ぶ音がする。胸元に微かな解放感。シャツが破かれたのだと気づく。文句の替わりに、ネロの口から飛び出したのは、紛れもない嬌声だった。 「〜〜う、あッ」 ブラッドリーの膝が、苦しげに膨張したネロの股間をえぐる。前触れも容赦もない刺激に、その背筋は弓なりになって、 「ハッ、これだけでイッてんのかよ」 「イ、って、ねぇよ…ッ」 組み敷かれた状態で吐き捨てたところで、どうやったって戯言だ。荒い呼吸も丸めたつま先も、シーツを握る指先も全部、快感の証明に他ならない。 「……まー、もう無事じゃねえか」 「そういう話じゃ」 「そういう話だろうがよ」 「ッッ、おい、バカ! 〜〜ひっ、ぅあ」 破かれたシャツの隙間から、武骨で乾いた手が侵入し、容赦なく体を撫で回す。無遠慮に這い回る指先に、否応なしにあちこちが反応した。 「ん、むっ」 「声出せ」 「ッ、ふざけ…っ、ァ、あ」 歯を食いしばっても、唇を重ねられればどうしようもなかった。ただでさえ弛緩した全身から、いよいよ力が抜けていく。 「お、いっ、さすがに……っ、ンッ、あッ、やめ」 「一回出しときゃ楽になんだろ」 「なんでそれを、ブラッドに……、はっ、ァあ、ッやめ、」 「自分でヤるよりイイだろうが」 耐えられない。 快感と羞恥でぐしゃぐしゃになる。今すぐ意識を飛ばしたい。痛いほどに勃ち上がった陰茎を、あろうことかブラッドリーの手に握られ、絶妙な力加減で扱かれているこの状況を信じたくなかった。 「気持ち良くてたまんねーって顔してるよなぁ」 「〜〜っ、お前」 「な。やっぱお前が飲んで正解だろ。逆なら今頃、俺がお前を散々な目に遭わせてるぜ」 ――ここでようやく、ネロは言葉の意味を理解する。乱暴な手つきで、バカみたいにこちらを労わろうとしてくる、酷く偏った指先の理由だ。大匙の自惚れを、とくと味わっていいのなら。 「ブラッド」 「んだよ」 「お前も飲んだのか、あれ」 「は? 飲んでねえよ」 「……勃ってる」 「…………チッ」 十二分に自覚はしていたらしい。絡んでいた視線を逸らされ、長いため息をつかれた。 「…………」 (…………) ブラッドリーは自らの目元を覆い黙り込む。逡巡の沈黙。古いベッドが軋む。 「ブラッド」 「……んだよ」 「こっち見て」 「あのな」 「助けてくれよ」 「〜〜っ」 ネロは気だるい上半身を起こし、ブラッドリーの手を取って、頬をすり寄せる。冷たくカサついた皮膚に興奮した。中途半端にいじくり回された下半身を、この男に、めちゃくちゃにしてほしいと思った。 「やめろ」 「嫌だ」 「っ、俺様がなんのために」 「無理だ」 「ネロ」 「それ聞いたら、余計……」 色めいた声色のまま、昂ぶった自身を持てあますネロを前に、ブラッドリーが歯を食いしばる。理性の片鱗を逃さないよう、目いっぱいに力を入れたせいで、ぎりぎり嫌な音が鳴っていた。 当然、ブラッドリーはあの催淫薬を一滴も口にしていない。作戦は大成功のはずだった。そのくせ今、先ほどのゲームよりも余程己を試されている。眩暈がした。あつらえられた誘惑を前に、用意していた手札が切れない。 |