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夢ぐらい見させろ


 誰にも教えてやる予定はないのだが、セッちゃんは就寝前に絵本を読んであげても怒らない。薄暗い部屋の中、サイドテーブルの間接照明の明かりだけを点けて、広々としたベッドで横になると、意外と熱心に耳を澄ませてくれるのである。外国の古い童話を広げていると、わざわざページを覗き込んでくることもある。
 こうして二人で暮らし始める前、俺は長らくセッちゃんに片思いしており、この人との縁が途切れないのであれば恋が叶う必要なんて全然ない……などと決意していたのだがこうなった以上撤回、撤回だ。これは恋人の特権なのだ。セッちゃんのふわふわの髪を撫でながら、飴の底のようなゆったりとした暗闇を、俺の声と、遠い世界の物語だけで満たしていく。至福とも恍惚とも形容しがたい、何もかもの究極。極上。最上級。一度味わってしまったらとてもではないが手離せないし、この時間を知らないで生きる可能性があったのだと想像するとぞっとする。勘弁してくれと思う。
 ちょうどいい絵本が見つからなかった時は、二人で寝そべって、俺がその場で考えたお話を語って聞かせる。おどけた展開にすれば「ばかじゃないの」と笑うし、しんみりとしたオチには「そっかぁ」と寂しそうに呟いてくれたりする。本当だ。これは夢ではない。意識はしっかりしている。

 ある晩のこと。俺たちはキッチンの真っ白なスツールに並んで腰かけ、煎れたてのハーブティーを二十分くらいかけて飲んだ。細長い出窓を開けると、冴えた夜風がこっそり忍び込んできて、距離を縮める丁度いい口実になってくれる。
 静かな夜だった。犬も吠えないし、自動車も通らない。明日は二人とも休日だった。ベッドに潜り込むと、交換したてのシーツから、セッちゃんがお気に入りの柔軟剤の匂いがした。見たままだが、セッちゃんはとても丁寧に洗濯をする。日曜日の朝、俺なんかよりずっと早起きをしたセッちゃんが、ベランダで洗濯物を干している後ろ姿を眺めるのが好きだ。かつては剣呑な気分で眺めていた午前の光が、こんなにも優しく見えるなんて思わなかった。健康的な白さを保った肌や髪が、日光の輪郭をまとって天使みたいに見える。「いつまで寝てんのぉ!」とか怒り出すと悪魔みたいにうるさいけど。「やめてよパトラッシュ……もう少し寝かせて……」とか抵抗すると、やけにツボに入ってげらげら笑ってくれたりするんだけど、それはちょっと不快だ。俺が大して面白いことを言ってないのに、セッちゃんが楽しそうに笑う時は、大抵俺以外の誰かと過ごした時間がフックになっているから、それが不快なのだ。俺しか見えなければいいのにと思う。でもそうやって、セッちゃんを縛り付けてしまう俺のことをあまり好きになれないので、ふくれっ面でキスをしてベッドに引きずり込んで、美味しくいただいてしまうに限る。ぶたれるけどね、これしきは甘噛みのようなものだよ。

 話が逸れてしまった。夜の話である。
 その夜も俺はおとぎ話を始めた。絵本ではなく、ふと語っておきたくなった話だった。

「吸血鬼はねえ、死ぬ間際に一度だけ魔法が使えるんだよ」
「魔法?」
「そう、魔法。世界で一番好きな人の夢に潜り込める」

 セッちゃんの瞳は、真夜中のシャボン玉や、引き出しの奥のビー玉みたいな光沢を帯びていた。このどうしようもなく無垢な宝石も好きだ。一生飽きずに見ていられる。

「たとえもう起き上がれないくらいぼろぼろになっちゃってても、夢の中で、一度だけ会って話せる。抱きしめてキスをして、お別れの挨拶ができるように」
「……じゃあ、いつか俺も見るんだね。その夢」

 見てくれる?
 見てくれるかな。
 見てほしいけどさ。







 それから。多分、一か月後くらい。

「くまくん!?」
「ちょっと泉ちゃん、ドアは静かに」
「今緊急事態なの! くまくんは……っ、なんでいないの!」
「ねえス〜ちゃん、これ俺の衣装じゃなくてス〜ちゃんのなんだけど」

 楽屋の隅に備え付けられた、簡易カーテンの更衣室から出ていくと、息を切らして髪をぼさぼさにして、青白い顔をしたセッちゃんが大騒ぎをしていた。

「く、まく……」
「セッちゃん、おは」
「くまくん!」
「よ……」
「きゃっ」

 最後の可愛らしい声はナッちゃんである。無我夢中のセッちゃんが、公衆の面前で俺に抱き着いてきたので。

「え、ちょ、どしたの」

 さすがにこの状況なので、嬉しいよりも戸惑いが勝ってしまう。引き剥がすのも忍びないくらい、ぎゅうぎゅうとしがみついてくるので、そのまま背中をさすってあやす。

「……夢、見た」
「夢?」
「くまくんが…………」

 俺は殊更セッちゃんのことには恐ろしいほど察しが良いので、言われなくても続きが分かる。

「……セッちゃん」
「び、っくり、して」
「セッちゃん、あのね」

 両肩を掴んで、そっと離す。キスできそうな距離で、優しく囁いた。

「あれ、嘘」
「………………は?」
「男の寝物語を、信じては、いけません」
「は!??!!??!」
「も〜。聞いてよナッちゃん、セッちゃんってばさ〜」
「ハ!? ちょっと!! 殴るよ!!」
「いだだだだだだだ」

 俺の頬をつねりながら、セッちゃんが胸を撫で下ろしているのに気づいているし、ナッちゃんに寝癖を笑われながらも、その手の震えが残っているのも死っている。バカだなあ。可愛いなあ。
 どうやったって君の方が先に死ぬのだ。君は人間だから、僕の夢には現れない。だから生きているうちに、目いっぱいその顔を刻み付けておくことに決めているのだ。君が死んでしまったあとは、日がな君の夢を見て暮らす。日曜日のシーツや、真夜中のハーブティーに触れるたび、君に焦がれて焦がれて焦がれる日々だ、想像がつく。僕はいつか、君の夢と心中するために、生きている君と過ごすのだ。

「――――不毛」
「なんか言ったぁ!?」
「ううん。愛してるよセッちゃん」
「うざぁい!」