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成り果てちゃってさ


青年将校瀬名と高級娼館の凛月






「おい〜っす、みかりん」
「んあ、どうしたんそれ、拾ってしまったん?」

 雪原のような髪の男は、背負わせたままぴくりともしない。
 背負っている凛月はけろっとした表情でいるけれど、男が脱力しきっているのは明らかだ。弛緩した手足に、みかから表情がまったく見えないほど、垂れたままの頭。やや細身ではあるものの、かなりの重量になっているはず。その上。

「……お酒くさいわぁ。酔っぱらいさんや」
「かなり飲んでたみたい。――ていうか、飲まされたんだろうねぇ」
「あー、軍人さんはお付き合いがあるんやろうなぁ。かわいそ」

 泥土で薄汚れているが、袖口の紋章は皇国軍のそれだ。土地柄、軍のお偉いさんを相手にすることは割に多いので、見慣れた格好ではあったものの、この辺りで幅を利かせている海軍のものとはやや異なっているらしい。峠を越えた先にある陸軍のそれかもしれなかった。
 しゃがみ込んだみかが、下から覗き込めば、今にも呻きださんばかりの表情がそこにあった。微かに光る略綬がいくつか。なるほど、それなりの実力者なのだ。

「この人どうするん?見つかったら怒られるやろ」
「あ、これね、俺の今夜のお客さんにするから」
「えっ、そうなん?」

 思わず張り上げた声に、男の閉じた瞼が苦しげに震えた。霜でも降りたような長い睫毛は、涙でうっすら濡れている。

「そ。じゃあね、みかりん今夜は非番でしょ、しっかり休みなよ〜」
「え、ん、おおきに」

 相変わらずの怪力で、自分と大して背丈の変わらない男を連れていく凛月。その背は、蛇腹式のエレベーターの中に消えていく。
 青年将校が咳き込む声が、残響のように聞こえていた。
 地声すら知らないのに、露骨に酒焼けしているのが分かって気の毒に思ったけれど、彼とて娼館で働く男に同情などされたくないだろうなと思い直し、踵を返しておく。











 山ひとつ超えるのには、やや遠回りでも鉄道を使えばいいのだが、一等車両で知り合いにでも会ってしまうのはまっぴらごめんだった。行先を尋ねられたとき、買い物だの食事だのと誤魔化してしまえばいいだけなのだけれど、出来れば誰にも把握されず、自らの記憶にも留めることなく、この外出の記録を、綺麗さっぱり消し去ってしまいたいのである。今夜限りで。一切合財。

「瀬名少尉。お出かけですか」
「非番だから」

 そう、非番なのだ。折角の非番。多忙な日々の、つかの間の休息日、の、はず。

「表のグラントリノって、セッちゃんの?」

 なのに、こんな、寝ぼけた顔の男に、何時間もかけて会いに来なければらなかった。

「借り物の車」
「あは、わざわざ運転してきたんだ」
「あんな固い列車乗れないし」
「今日はお酒飲んでないから運転できるんだねぇ」
「く…っ」

 にやにやとおちょくった笑みを浮かべてくる凛月を、これでもかというほど鋭い目つきで睨んでやるけれど、効果などてんで期待できたものではない。
 それもそのはずだ。ひとまず泉が思いつく痴態の限りは、あの夜、この三日月の男の前で、馬鹿みたいに披露されきってしまったのだから。

「で、今夜こそ俺とヤりに来たの?」
「違うからぁ!これ!」
「わぁい果物籠。貢物だ」
「うっざぁいッ!謝罪だよ謝罪!」
「あはは、気にしなくていいのに」
「俺がするの!」
「まあするよね、あれじゃね。吐いて泣いて倒れて……」
「黙って!」

 泉は育ちが良いものだから、手元にある食べ物を投げるなんてことが出来ない。
 娼館でピストルを抜くなんて騒ぎも、絶対に起こしたくない。せいぜい声を荒げるのが精一杯。それだって、凛月を一晩きちんと買い付けて、二人きりの部屋に入って、初めて出来たことなのだ。

「口止めでしょ。大変だねぇ、軍人さんも」
「チッ、分かってるならさぁ」
「大丈夫大丈夫。一晩買ってもらってるしねぇ、約束は守るよ」

 男娼の口止め料は総じて高いもの。
 凛月に関しては、そもそもこの娼館が界隈でも桁違いに高価なので、そこそこの覚悟はしてきたつもりだった。

「別に、酔ってへべれけなんてみんなやってるでしょ。この辺りの海軍とかすごいよ」
「俺はアル中の老害ジジイ共と違うの」
「ふぅん、デキる男は苦労するねぇ」
「あんなの苦労でもなんでもない」

 零すような声は、返答というよりは、泉が自らに言い聞かせているようだった。
 凛月には、その姿がやけに頑なで、難儀に見えた。取り敢えず同情はしないでおいた。我慢がゆえの恩恵を、理解した上での振る舞いだろうし。

「で、今夜どうする?」
「はぁ?」

 薄布をまとっただけの凛月が、音もなく歩み寄って来る。ぎょっとして後ずさったところで、泉の背後はすぐ扉だった。内側に開くやつ。ニスがたっぷり塗られた、光沢感のある重い扉。

「朝まで買ってるんでしょ」
「……そうでもしないと、あんた口止めできないでしょ」
「高かったでしょ、俺」
「馬鹿みたいにね」
「じゃ、遊んでいけば?」

 耳元に唇が寄せられる。吐息まじりの声が囁く。

「きもちよくしたげるよ」