春になり、辺りには何とも甘い香りがかおっているのではないかとさえ感じてしまうような心地よい昼下がりのことであった。勿論このような陽気の中で何かをしようだなんて思わない。くはあ、とかみ殺した欠伸は蝶々や蜜蜂たちに吸い込まれるように無くなっていく。目を細め生き物たちが、そして植物たちが命を育む姿を眺めていた。

しかしそれは長く続かず、私はすぐに顔を顰めることとなる。

「名前!」

どたんばたんとまるで巨人か何か大きな未確認生物でもやってきたのかと思ってしまう程、足を踏み鳴らす大きな音。そしてそれに一切の引けを取らぬ声は私を不愉快させるには十分過ぎた。むっとした表情で当人を見遣れば、あちらもやはり怒っている。もう足腰にはかなりがたが来ているとつい先日嘆いておったところだのに、と私は諦めるように鼻を鳴らした。毎回毎回このじーさんも飽きないもんだ。

「まあたお前はさぼっておるのか!」

今あの人の手に刀でもあれば構わず抜刀していたに違いない。それ程祖父の怒りは尋常ではなかったし、何よりも祖父の考え方は古風を通り越してまるで武士なのだ。父は既に他界してあったから、他の父や祖父がどのような考えを持っているのか分からないが、きっと祖父のようではないだろう。でなければ今も男尊女卑の時代さ。
ふーふーと興奮しきっている祖父にちらりと目を合わせるとまた叫び始める。この人もいい加減自分の歳を考えないとそのうち血管が切れるだろうに。

「そんなこと言ったって私の周りは、みなドラマのように平凡な日々を送っているし、それを覚えたからと言って何になる」

「何を!名前のその怠惰した根性を叩き直してくれるわ!!」

その言葉が言い終わるが早いか、私は一瞬目の前が真っ暗になった。そしてすぐに頭部の痛みがじんじんと痛みだす。くっ、と苦情を浮かべ経っている祖父を睨みあげる。それからゆらりと立ち上がる。
先まで押さえつけていた精神はまるで促進剤でも使った時みたいに、苛々と言葉にならない靄が私の心の中を占領していく。つまり私は頭に血が上った状態だったのだ。



私は半ば躍起なって喧嘩をしたらしく、こうして時を置いて冷静になった頃に赤く晴れ上がった箇所が痛み出した。これは自業自得なのだろうかと脳の中で自問すれど、それきり何もしようとさえ思わなくなってしまった。きっと体力を使ったから今は脳もお休みと言うところか。

「なんだかな」

ちらりと視界の端に映った巻物を徐に手に取ると、はあと溜息を吐いてそれを広げた。中には細々と名前が綴られて、そこには私の名前もある。だから、嫌だ嫌だと子供みたいに駄々をごねても見てしまう。矢張り、自分の名前があるのは嬉しく誇らしいから。
けれど怒るという、体力を擦り減らす行為をしただけでなく、殴るという謂わば運動をした私はすぐに眠気に襲われることとなる。抵抗もそこそこに私は気絶するように意識を手放した。

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