どれくらい月日が流れたのだろう。
私は色彩を失ってしまった瞳で、一人では広すぎる部屋を眺めた。季節外れな涼しげな音だけがやけに透き通って聞こえてくる。

「しまおうと思って」

それでも貴方がそれを引いてしまう前に帰ってきてくださるのではないか、と。滑稽な願望をぶら下げたまま、もう沢山の月日が経ってしまった。
わたしは一寸踵を浮かし、清い音色を奏でる風鈴を手に取った。

「随分と、ぶら下がっていてくれたのねえ」

埃に塗れてしまっているそれを指で優しく払ってやる。もうすぐ春だと言うのに、貴方からの音沙汰はない。ふと、庭に植わってある梅の木に目を細めて、わたしはその場にゆっくりと腰を下ろした。一体どこへいつ帰って来るのやら。囁くような音で膝の上に乗せた風鈴の頭を撫でてやった。

わたしはいつまで身の丈に合わない大きな家で留守を任せられるのだろう。長州のお侍様を恨む気持ちは起こらないのだけれど、いいえ少し恨めしいけれど、けれどわたしはわたしを置いていってしまったあの方も憎らしいわ。
こんなにも寂しい想いをするのなら、いっそ貴方とわたしの御子をわたしに授けてくだされれば――

つんと鼻を刺す痛みと同時に眸からは透明な水滴が零れ落ちて行った。
風が出てきて、梅の香りがふんわりと薫る。月は悲しくも美しくも円を描いていた。

ねえあなた、梅というものは先から咲いて、そして、幹に近い花が咲くまでは決して散ったりはしないのだそうですよ。

いつまでこうして一人で誰とも無く話しかけなければならないのでしょうね。わたしはまだ貴方を待たなければならないらしいのです。
梅は梅、俺は俺だと、そう言って下さるのでしょうか。


溜息を溢して、縁側から足を払い寝具の支度を始める。嘆いたって仕方がないことだけれど、嘆かない事にはわたしの夜は明けない。今日もかつての高貴な女性のように袖を濡らして眠りに就かなければならないのです。
私は布団の上に足を崩して、内から外を眺めた。この家はどうにもこうにももの寂しくて、心許なくて仕方がない。
腕に抱いていた例のそれをまるで赤子をあやすかのように、そっと覗き込んで愛おしんだ。お前はあの人が下さった、大切な物。わたしの宝物。

生きているのか死んでいるのか、それすらもわからない彼。時々耳に入る蝦夷での記事だけが貴方が寄越す頼りであるのに、いつの頃かその頼りさえもなくなってしまった。
あちらは、まだ梅も咲いていないのでしょうね。早く帰ってきて下さらなければ、桜が咲いてしまいますよ。

名前、名前
先から、あの方の掠れた声があの御声が耳元で再生されて止まない。幻聴が聞こえる始末だなんて、なんて、なんて、哀れな

「名前」

まるで吸い寄せられるようにわたしの体は声の方へと向けられていた。視線の先には、あの時よりも随分と髪の短くなってしまった彼がいるのだ。
月を背に儚さを纏った彼がわたしの瞳に映っているのです。うそでしょう、そうでしょう。

「無視してんじゃねえよ」

「あなた・・?」

にこりと笑った貴方がとても、現実味を帯びていて。わたしはつい駆けだして彼に縋り付いてしまう。
としぞう、さん。あなたの匂いだわ。あなたの呼吸音だわ。

「お互い、年喰っちまったな」
「長かった、わたしにはとても長い月日でありました」

ぎゅうっと抱きしめられてそして、唸るような音でああと肯定の意を示してくれた。先程乾きかけていた頬がまた濡れる。
歳三さんはそれを見つけるとわたしの頬をその大きな肉刺のある手で包んだ。困ったように笑って、おめえはいつまでも泣き虫のままなんだなと涙を掬い上げるように拭って下さる。わたしも彼に倣って彼の頬を包む。

「ゆめじゃありませんよね」
こんなにも、綺麗な視界。先までの灰色の世界が嘘の様に色を取り戻し、極彩色に彩り始めた。
うつくしくて、そしてきれいなの。あなたもその背後にある月も、梅の木も。みんな綺麗なのです。

ゆめならさめないで

「俺に触ってる感触あるだろうが」

ゆめじゃねえよ
可笑しそうに楽しそうに微笑んだ歳三さんのお蔭でわたしの心はとても安心出来た。潤いが溢れるようにわたしの幸せな液が心の柄杓から溢れだす。愛してる、そう、これは愛。わたしにはあなたしか無いのです。

「お帰りなさい、歳三さん」

梅で例えるならば、ようやく花が全て咲いて。
桜で例えるならば、満開になって散り始めた。

「ただいま、名前」

わたしの夫は、笑顔を携えて少しだけ、闇で見えない程僅かに涙を零して下さいました。

20120210//鬼の目にも泪