「名前、最近男でも出来たっしょ?」

「は?」

留学前最後の講義を終え、さあ今からいつもの通りETUへと直行しようとした時だった。
隣りに座っていた知り合いが引き留めるように言葉を発した。面倒くさいなと思いながらも振り返ってみると野次馬のような表情を浮かべている彼女ら。

「だって最近の名前ってば、柔らかい表情じゃんか」

「そう?」
「うんうん」
「もしかして楠野さん?」

めちゃくちゃ爽やかでイケメンだったよねえ、
なんて目を細めて言う彼女たちに私も同様の仕草を返した。勿論意味は違っているけれど。

「楠野さん? ああ、あの人」

無礼な程までに馴れ馴れしく尚且つ度を過ぎる受信に着信拒否してやって、早二か月は経っている。
清々しいまでに私の脳内から彼の名前の一文字すら浮かばなかったことは彼女たちには言わないでおこう。大して親しくない二人に急いでるからと告げると返事も待たずに部屋を出た。


「名前さん!」

事務所には既に報告してあるため、私はデスクの回りや中を整頓して、それから雑用を熟していると、いつかみたいに名を呼ばれた。くるりと振り返ると杉江さんが居て、真剣な表情の彼に思わず一歩足を引いてしまう。

「留学するんだって?」

「は、い。」

イギリスに、と歯切れの悪い口調でそう伝えた。と同時に漸く杉江さんがはっとしたように口を開き直にごめん、と零した。いいえ、大丈夫です。と返答すればほっとしたように頬を緩めせる彼。

「いつ行くの?」

「今週の土曜日です」

向こうでの学校は九月から通う予定だが、ホームステイ先で夏を過ごしてみるのも面白そうだと思ったため、早めに日本を発つことにしたのだ。
しかし言葉にしてみれば、後二日で皆に一時の別れを告げなければならないのだと途端に思わされた。
散々他人と接することを拒んでいた私が、寂しいと感じることに自分自身を驚かされたのだ。随分と回ってしまった私の留学情報に少し苦笑いを溢してから、短い間でしたがありがとうございましたと頭を下げた。
そうして彼の隣りを通り過ぎ、残り僅かになってしまった仕事へと戻る。戻ろうとした。

「待てよ」

しかし、ぱしっとどこか全身に振動したその音に私はぴたりと足を止めてしまった。振り返らなければならないのに、弱い私はそれをしたくない。
けれども杉江さんはそんな私の中の葛藤など知らずに手首を引っ張って私をひっくり返すように向かい合わせた。


「クロから聞いたんだけど」

「うん」

杉江さんは俯いていて、全く私の手を離す様子は無かった。それが黒田さんとはまた違った子供らしさを含んでいて、思わず笑みを浮かべてしまう。気付かれてはいないのだろう、彼は目を左右へ泳がせている。

「なんて言えばいいんだろう、な」

もどかしいとばかりに頭を掻く姿は彼には少し意外性があった。その仕草はよく照れた時に黒田さんがするから。

「サッカー、好きなら帰って来てからもここに戻ってきて働いたらいいと思う」

ぱちくり、ぱちくりと私は杉江さんを見上げながら、吟味でもするように、ゆっくり大きく瞬きを繰り返すことしか出来なかった。心にも思っていなかったその言葉は、私の、心というどこかをじわりと溶かした気がするのだ。


「か、考えておきます」

にこりと随分慣れてしまった真偽の曖昧な笑顔を浮かべてから手を解く。

傾いている私の心情は口よりどうも素直らしい。


(スギー!!てめー何してたんだよ、練習サボんな!)
(悪い)
(・・・? お前風邪でも引いたのか)

(いや、大丈夫)
(?)

20110208// でも輝いてて
加筆修正 20120817