今日は名前とのデートの約束だった。
しかし突然の彼女の用事と俺の突然の練習ということで、夕飯時から俺の家で、俺が飯を作って過ごすという路線に切り替えられることとなる。別に今更デートがしたいだとか思う程初々しい間柄でもないから、両者とも仕方ないと苦笑いを作ったのだ。

「今日は急にどうしたの?」

夕食も終わり、俺が若いときに買ったまま残してあるレコードを眺めていると不意に名前は声をかけた。ちらりと横目に視線をやると、彼女は残ったという残業を片づけている様子である。

「あー、急遽練習試合のスケジュールが入ってな。それで皆盛り上がったんだよ」

「それはそれは、良則ももう年なのにお疲れ様」

カタカタとキーボードを叩き続けながら、名前は眼鏡を覗かせるようにして笑った。思わずいつもの癖でヘッドロックでも決めてやろうかと思ったが、今は作業中なのだと自分に言い聞かせて手を静止する。
まあ、こいつの言うことも強ち嘘ではないんだ。大目に見てやる。

「おやおや、言い返さないなんて今日は本当にお疲れなのね」

後でマッサージでもしようか?
含みのある声で名前が気に入らないことを言ったから、睨み付けてやれば両手を上に挙げて降参、と呟いた。
全く、こいつはいつまでたってもガキみてえなことばっかり言いやがる。

呆れ半分、疲れ半分と俺は相手をする気力を失う。こういう時は、音楽でもゆっくり聴くか。リラックスできるかどうかは別として。


「私に、託したのよね」

俺がレコードの棚を物色し始めていくらか経った頃、名前は何かを胸に抱いてぽつりと発した。どこか遠くを見つめる名前に俺は何も言うことは出来ない。

その言葉はお前の父親に向けてなんだろう、か。


「ねえ、眠りたいなら私が奏でてあげようか」

ゆっくりとした動作でノートパソコンを折りたたむと、テーブルに肘をついてにこりと笑顔を浮かべた。

「仕事は終わったのかよ」

「うん、今しがたね」

それから名前は、部屋の端っこに置いてあったギターを運ぶと、笑顔をそのままに小さく弦を弾いていく。こいつの夢は、所謂音楽アーティストって奴だ。才能も俺が今の仕事にかけるものより、ある。
本当に後は機会だけなのだ。
しかしそれが中々手に入るものではないのだから、俺はもしかすると運の良さだけは褒められたものを持っているのかもしれない。
名前が歌えば、俺の苛々とさせていた蟠りが解かれていくような感覚をいつも味わう。恐らくこれが世間で言う聞き惚れているって奴だろう。確かにこいつにはそういうものを持っている。

ま、本人に綺麗な声だな、なんて言うつもりはないが。




俺は、慣れてしまった一人だけの食事中、ふと二三年前の記憶を引っ張り出していた。
せっかくの料理はすっかり冷めてしまっていた。舌打ちをするとレンシレンジで食事を温め直す。

思い出した発端は、街でたまたま耳に入った声だった。透き通るような声は俺の耳を通り、鼓膜を震わせ、三半規管を反応させた。
あれは間違いなく、名前の声であったのだ。

チン、と温め完了を知らせるレンジから温まった料理を取り出すと、もう一度食卓に腰を下ろす。いつも見慣れた殺風景な部屋が嫌に寂しさを帯びているように見えた。

あの日のように、今もあいつは楽しく音楽を奏でているのだろうか。随分と薄れてしまった名前の笑顔がみたいと、柄にも無く思っている俺がいる。

「あー!くそっ!」

がしがしと頭を掻きむしり、そうしてからゆっくりと頭を腕の中に閉じ込める。

何よりも幸せそうに笑う名前が、俺を安心させる声が、部屋の隅っこでつま弾くギターの音が、聞こえた気がする。
喉がひくりとひくつく。

「あいてえな、名前」

思わず涙がほろりとこぼれた。

20110712//奏でたメロディ
オセンチな堺さんとか、たまにはいいでしょ