あの頃私たちは幼く、またとても単純だった。 「ゆうちゃん」 「なに?」 彼は私を見ないまま返事をしていた。それに対して私はキラキラと宝石が埋め込まれたのではないかと錯覚さえしてしまうような輝かしい瞳をその人に向け続けている。 「名前ね、ゆうちゃんがすきよ」 向かいに住んでいる二つ上の女の子を真似しながら、私は言った。けれども一向に私を見ようとしない彼に、まだ幼かった私は相手を理解してみようとすることなど出来はしなかった。無理矢理彼の手を引っ張る。私のそれより随分大きな手はすぐに掴んでいる私の手を払ってしまう。その行動が何より私を苛立たせた。 「ゆうちゃん!こっち向いてよ!」 ゆさゆさと背後から肩を揺さぶれば手に握っていたコントローラーでテレビ画面をストップさせた。テレビから漸く目を話してくれたことに私は嬉しさを露わにして嬉々とした表情を彼に向ける。けれど私の浮かれた気持ちはまるでさっきまで温めていた体温計を氷水に浸した時のようにひゅんと下がってしまう。 振り返った彼の顔には、幼き頃の私でも感じ取ってしまう程の感情が剥き出しになっていたのだ。細い目を更に細め真一文字に閉じられた口。 彼は怒っているのだ。 「ゆう、ちゃん?」 「名前」 肩に乗せていた手はいつの間にか滑り落ちて力なくぶらりと揺れている。びくりと私の肩を情景反射らしく揺れた。怖い。 普段怒らない人を怒らせるとこうも恐ろしいのか、と当時小学低学年の私は学んだのだ。 目尻に溢れて止まない涙はそういうことだった。 彼から義眼の如く動くことを忘れていた瞳を動かす術を知らない私は固まるしかない。 そんな私の様子に気が付いたのか、はっと息を吸って細められていた目がいつもの優しい優しいものへと変わる。けれどもじっと彼を見つめたままだった。 「ねえゆうちゃん」 至極小さな声だったのではないかと思う。事実、目の前に立って泣き止むように努めている彼には聞こえているような気配はない。今度は大きな声で、泣き散らすように半ば投げやるように言葉を発した。次に固まってしまったのは相手だった。 「ゆうちゃん、わたしのこと」 きらいでしょう・・・? まるで空間を大きな海洋生物か陸上生物か、はたまた広い広い宇宙の生物か、そんな未知の生き物が時を貪るように齧ったのではないかと思えた。私もそして彼も、お互いの目を見つめ動けないでいると、ぎゅっと大きな温かい手が私の小さい手を掴んだ。それはやはり小学生と言うべきか、加減はなかった。 「ゆうちゃんのばか! もうしらない!」 否定をしてくれたら、違うよと言ってくれれば私は笑顔でそうだよね、ごめんねと笑ったと思う。けれど彼はそれを行動しなかった。ぎゅっと、無造作に手を握っておきながら、凄く痛そうに眉を寄せるばかりだったのだ。 私は我慢できなくなって、ついに喚くように暴力して握られた手を片方の手で思い切り叩き落とすと、すぐに家を出てしまったのだ。 「杉江、何か用?」 そうして早十数年、家が近所だと言ってもこの年になれば皆親元を離れるし、実際私も杉江もどこかお互いの知らないところに身を置いている。駆け廻る苦い記憶はまだ私の、そして彼の脳に新鮮さを保ったまま残っているに違いない。 ここ数年親の顔を見ていないし、一人娘の私に会いたいだろうと正月になって実家に帰ってきたのが間違いだった。 さあこれから初詣に行こうか、と扉を開いた時だった。小学校以来見ることもなかった彼が立っていたのは。 「あ、いや何でも」 「なら退いて」 父と母に待ったをかけてから、家の中に入って待ってくれるように頼めば、何を勘違いしたのか、あらあらと微笑ましい笑みを浮かべて二人は中に引っ込んでしまった。やはり親ならいい加減孫の顔が見たいのかもしれない。いやそれ以前に私の男を見たいのだろう。悪いが私はこれまで生きてきて一度も彼氏という特別な男は出来ていない。 まあ、まだ当分は仕事に専念するからと丁度先に言ったところだ。 「なあ名前」 「何?」 門の前から退こうとしないこの成人男性に私は苛立ちの篭った眼を向けた。このまま警察に突き出しやろうかとさえ思った頃、彼は私を呼んだ。あの頃から変わらないその目は私に暗示しているのだろうか。 「俺、サッカーしてるんだけど」 「うん」 知ってる。それくらい知っていた。 小学生のころから群を抜いて上手かったサッカーで彼は中学を地元では無く推薦を受けた強豪校へ向かったのだ。そして日本の代表に選ばれたこともサッカーが好きな私が知らない筈がない。 「これ」 不意に赤くなった指が私へ差し出された。その上には見慣れた紙切れ。私は怪しむように手に握ってあるそれと彼を交互に眺めた。鼻を赤く染めながらも杉江は笑ってそのETUと書いてある紙を私に握らせる。 「何がしたの?」 「名前に、俺を見て欲しいんだ」 どくん 私の心臓は大きく一突きすると体中へ伝達するように熱が伝わって行く。 こいつはまた私をこうやって・・・! くるりと踵を返しさっさと家に帰ってしまおう。そうでなければ私はまた、彼に 「絶対来いよ!」 脈打つ心は止まらない。耳が熱い。唇が熱い。 目を閉じてはあと溜息をつく。なんて狡い男なんだろう。 20110304 //花が咲いたら君は 君は僕の期待を裏切らない様へ提出 |