「ああ、お待ちなさい」

偶然、元就の養母である杉大方が忍びを呼び止めた。そもそもこの離れに足を運ぶことを許されているのは城の者の中でも極一部だった。忍びは長くからこの杉大方と元就に仕えていた身であるが為にここを通ることを許されている。
忍びはいつものように頭を垂れるように跪き、言葉を待った。

「そのように畏まらなくて結構よ。少し、私の余興に付き合って欲しいの」

この方も随分歳を重ねられた。忍びは彼女のその笑った時に出来る縫令線を見ながら思う。そして、にこりと笑顔を零した。

「さあさあ、お入りなさい」

立ち上がった忍びの背を優しく叩きながら部屋へと通す。通常、忍びを部屋に、しかも余興のためにと部屋に通すことなどあり得ることでは無い。しかし、二人の間にはそれすらも覆す程の時間と、苦労を共に味わってきた。だから杉大方は彼女しか部屋へ入れないのだ。

「元就様はご無理をなさっておられないかしら?」

部屋に入ると座らせられ、忍びの手を取って心配そうに顔を覗き込んだ。忍びはちらりと視線を思わず逸らし、目を伏せた。

「そう。あなたは無理をしていない?」

悲しそうな瞳の色を浮かべ、杉大方は忍びを見る。彼女は昔からこの忍びと元就を我が子のように見てくれる。その行為が九ノ一である彼女にとってどれ程嬉しいことであるか、杉大方は知らないのだろうか。

忍びはこくりと頷いてやんわりと笑顔を浮かべる。忍びもまた彼女を母のように感じてしまっているからだ。

「ほら、ここは私の部屋ですよ。その布を取りなさいな」

顔を覆っている黒布を取り払う彼女に抵抗せずにただ目を瞑ってそれを待った。忍びが女であることも、そして話が出来ない状態であることも杉大方は知っているのだ。

「まあ、随分と見ない間に可愛らしくなって」

そう頬を綻ばせながら忍びの小豆色の髪をゆるりと撫でる。彼女は元から遊戯をする気は無かった。

「元就様の噂はここまで届いております」

私も今や局としてしかこの城にはおりませぬ。
頭を撫で続ける彼女の話を聞き入りながら僅かに頷く。

「あの方は、悲しんでおられませんか。寂しがっておられませんか」

その問いかけに忍びはびくりと反応してしまった。思い当たる節などたんとある。杉大方は九ノ一の反応に矢張りと言った様子で苦し紛れの笑顔を浮かべた。

「あの方は、人一倍お優しい方です。しかし人とどう接すれば良いのは分からぬのです。分かるでしょう?」

ぽつり、と頭を垂れている忍びの目の前に水滴が零れ、畳を濡らした。忍びは目を閉じゆっくり、大きく頷く。元就は幼少の頃、愛情は杉大方以外から受け取ったことはなかった。

「名前」

反応するように上を見上げ、彼女を見上げる。まるでどうしてそれを知っているのかと、目は大きく開けられている。一度だって彼女は忍びをそのように呼んだことは無かった。
顔を上げた忍びの頬に手を添え、杉大方は忍びの幼き頃のように歯を見せ笑う。

「いいですか。あなたしか、元就様にはおられないのです。あなたしか殿を支えることは出来ないのですよ。」

ぽかんと口を開けたままだった忍びを見てゆるゆるとずっと頭を撫でていた杉大方は笑みを深めた。

「私は、長くはありません。あなたと会うのもきっとこれで最期になるでしょう。」

嫌だ、とまるで子供のように首を振る忍びに呆れたように背を強く叩く。忍びは涙しながら頭を下げる。

「名前、私はあなたの過去を存じていますが、元就様はご存じない。あなたが女であることも。」

その言葉に忍びははっとする。
この方は私達の契約を忠実に守って下さっているのだと。

「すれ違うことのないよう、あの方を支えるのですよ」

何度も頷き、涙を抑えようと歯を食いしばるが吐息が漏れるばかりだった。
その間、ずっと杉大方は忍びを優しく見守っていた。


(私は、元就様がどのような人であったのか忘れていたのだ)


20101202