「アネキ!アニキがお呼びですぜ!」
今日も変わらず、青く青く広い海原を眺めていると長曾我部元親の言う野郎共の一人が忍びへそう伝えた。偵察のため町娘の格好である忍びは笑みを浮かべ、やんわりと首を下げた。ありがとう、と。
この船に乗った後、てっきり長曾我部軍の拠地の四国の城へと下ろされるのだろうと忍びは思っていた。だが、それは外れ彼女は未だこの船で海を見ることとなっていたのだ。主と離れて早一月余りが経過していた。
「名前」
さっさと来いよ、と今日も忍びが船に乗り込んだ日と同じ笑顔を浮かべて町娘の格好をした忍びを手招きした。
彼女はそれに答えるように小走りで元親の隣りに並ぶと微笑ましく二人同時に笑う。
「なあ」
光を差して海を照らす太陽を目にし、忍びは主である元就様は今日も日輪を奉っておられるのだろうか、と考えていた。しかし、肩に重みがかかったのを切っ掛けに思考は停止しすると、ちらりと長曾我部元親へと視線をやる。町娘の肩には彼の鸚鵡が乗っていた。
「あんたは、これからどうしてえ」
農民になるってのも、城の女中になるってのも、このまま船に残るってのも悪くねえ。
どうしたい
隻眼であるその右目だけが忍びを写していた。それには普段の黒は無く、女の姿である自分は酷く滑稽に見えている。そんな自分のを姿を見たくないとばかりに忍びはふい、と顔を逸らせ彼の肩のみ羽織っているそれを掴む。
瞬間、ぐいと反応する暇も与えぬような速さで両肩を掴まれる。思わず忍びはぽかんとしてしまった。
「ここにいてえと、解釈していいんだな?」
やけに真剣な表情だった。
だから、忍びは数秒返事を返すことが出来ずにただじっと長曾我部元親を見ていた。
ひゅうひゅうと風が忍びの髪を浚う。何故だろうか、彼女は何か胸騒ぎがして答えるのを躊躇していた。
「名前?」
返事しろよ、と言う言葉を遮ったのは長曾我部元親の家臣の声であった。どたたたと駆けてくる音に元親はむっ、と機嫌を損ねるような表情を作る。
「アニキっ!」
「なんだ、俺は今大事な話を」
「ふん、貴様そやつに何をした」
ずしゃ、とそれは戦で人を斬った時の音が聞こえた。長曾我部元親の家臣は掠れた声を放ってばたんと床に倒れ落ちる。数秒の出来事に元親も町娘も茫然と立ち竦んでいた。
そんな二人に呆れるでもなく、目の前にいる忍びの主が悠然とした歩調でこちらへやってくる。その間にも長曾我部軍の兵が元就へ刃を向けてやってくるが、その大きな輪刀で容易く着れ伏していった。
忍びは長年仕えている主が大層お怒りになられていることに逸早く気が付くとぞっと背筋に生温い汗が伝うのを感じた。
「毛利てめえ! 名前に何の用だ!」
陸で睨み合った時と同じように長曾我部元親は忍びを背後に隠し鬼の姿を曝す。
「名前?」
ふん、貴様がその女に付けたのか。
恋にでも落ちたか?
ふんともう一度鼻で笑ってみせると、視線は忍びへと向かう。そしてゆっくりとした歩調で彼女の目の前までやってくると冷眼が忍びを射抜いた。
目を逸らせずにじっと自分の主を見上げる忍びの手を引いたのは長曾我部元親であった。また、毛利元就の顔が歪んでいく。
「長曾我部、貴様・・・!」
「あんたにはこいつの良さなんて分かりゃしねえさ」
言うまでも無く怒っている主こと元就と元親の二人を見て忍びは自分はどうすべきなのか分からなくなった。
20101219