「どうかしたのか?」

ちらりと町娘の眼光が隣りに立つ長曾我部軍の将へと向かった。
彼女がこの船に乗ったのは大よそ七日程前のことであった。この町娘は毛利軍のそれも元就の直轄の忍びであり、長曾我部軍の目玉とも言える要塞富岳を偵察している。だが、船の中で唯一の女である故家事は全てこの町娘にあった。そのため主である毛利元就への報告を送られずにいたのだった。

町娘はにこりと笑顔を浮かべ、何もありませんと音の出ない喉を震わせ口を動かす。目の前には大海原が輝かしくどこまでも広がっており、自然と心が温まる思いを感じられた。

「そういや、あんたに名前をやろうと思ってたんだがよお」

がりがりと頭を掻き、恥ずかしそうに笑顔を浮かべた。長曾我部元親はよく笑う、よく怒るよく悲しむ。それは主とは大きく違う点だ、と忍びは胸の内に思う。
随分背の高い長曾我部元親を見上げ、その続きを待つ。


「名前」


「名前なんてどうよ?」

別嬪なあんたに似合いの名だと思わねえか?
町娘の顎をくいっと持ち上げられ、その正端な顔が近づけられていた。町娘は目を大きく見開いたまま息を忘れてしまった。
それは町娘だけでなく、忍び自身をも言葉を失っていたのだろう。僅かに瞳に水分が潤ったのを元親は見逃さなかった。


「気に入ってくれたか」

こくりと頷く。
そして一粒限りの水滴が忍びの目から零れ落ちた。



「元就様」

忍びが長曾我部軍へ要りこんで七日余りが過ぎた安芸の国。朝も終わろうとし昼が訪れた頃、一人の女の声がその名の主のもとへ届いた。

「何ぞ」

相も変わらぬ冷めた声が女へと振りかかる。いや、常よりも苛立ちが篭っているようであったが、その赤黒い髪を持った女が気付くわけもありはしなかった。
この女は、つい先日正式に元就の正室となった女である。しかし、元就にはこれはただの政略婚であり、どこか納得のいかぬ思いもあった。
そんな正室に彼が視線を向ける筈も無く、背を向けたまま筆を滑らせている。

「ここ数日、お休みになられていないとお聞きしております。」

どうか、ほんの僅かな時でもいいのです。お休みになって下さいまし。

ざざと着物が畳を擦る音が元就の耳に響いた。ちらりと横目で女を見遣れば三つ指をつき頭を下げている。そして泪を流し。

「去るがよかろう。我に構うでない」

高々数日この城へ身を寄せた程のそなたが、我を、この地を、知った風な口を利くか。高飛車な女よ
頭を下げた、その姿が長年共にした忍びの面影と重なった彼は胸襟で妻へ吐き捨てた。

目の前に、あの赤い髪は無かった。


20101218