春と少女[1/3]


 春くんには不思議な魅力があると思う。大人しいのに、時々凄く強い。
どちらかと言えば優しい部類に入るのに、たまに恐いらしい。

 高校生の頃、クラスのリーダー格の女子生徒が「いきなり春くんに殴られた」と周囲に喚き散らしていた事があった。
本人曰く、男子生徒に「危ない目」とやらに遭わされそうになり、春くんもそれに加わったのだとか。
 もっとも、その子はかなり高慢だったせいか、被害を訴えても誰にも相手にされていなかったのだが。

 男子生徒は寧ろ春くんを避けていたように見えた時期があったから、彼女が得意な大仰な言い回しの一つだったと思われたのかもしれない。

 だからだろうか。目の前の彼に話しかけようと考えてしまったのは。

「春くん」

 呼びかけると、春くんは振り返って眉を寄せた。
私に覚えが無くて、なぜ自分の名前を知っているのかと警戒しているのかもしれない。
 彼は何かと噂になり目立つ存在であったから今でも覚えていたが、一方の私と言えば、そういえばクラスで目立つ方では無かった。

「私、高校の頃同じクラスだったんだけど」

 気が付いて軽く自己紹介をすると、視線が考えるように動いて、また戻ってきた。

「何か用?」

 春くんは鬱陶しげに答える。言外に「何処かへ行け」と言われているような気がしたが、無視されなかっただけまだましだと思った。
途中で擦れ違った女子高校生達は無視されたらしかったから。

「その落書き、春くんが消してるの?」
「そうだけど」
「ボランティア?」
「いや、仕事」

 言いながら、春くんはまたモップで壁を擦り始めた。リズム良く動かして、バケツの中の液体にモップを浸してまた擦る。
バケツは背の高い順に並んでいて、端が消えた落書きと春くん、そしてそのバケツとリズミカルなモップが協力して一枚の絵のモデルを務めているかのように規則正しかった。
 カタツムリのようにゆっくりと、だが着実に落書きが消えていく様はとても興味深い。

「ねえ」
「何?」
「見学してもいいかな?」

 春くんは少し驚いたようにこちらを見て、モップを持ち直した。
「いいけど」
バケツの位置を直し、また壁へ向かう。

「相手は出来ないよ」
「うん。いいよ」

 そこで会話は終わり、私はその場で立ちながら蒸発していく落書きを見ていた。春くんは何も言わず落書き消しに勤しみ、私もずっと黙っていた。
 モップが液体に飛び込む音と、壁を擦る音。それから、カラスが一度「カア」と鳴いて飛び去った。自転車が一台、ベルを鳴らして通り過ぎる。

 私は一言も発さずに、春くんのモップが上下に動いて落書きを吸い取っていくのを見ていた。


 どのぐらいそうしていたのだろう。最後の落書き部分が消えた時、春くんが口を開いた。

「変」
「変? 何が?」
「君だよ」

 振り返って私を見る春くん。その端正な顔立ちに、脊髄反射のように鼓動が一度高鳴る。
記憶の中の彼よりも、さらに美しさに磨きが掛かっている気がした。「あそこまで行けば芸術品だ」と友人が言っていたのを思い出す。

「大抵の人は話し掛けてくるか、途中で飽きて去って行くんだけど。俺の顔が見られる位置でも無いのに立ち続けているなんて、変だよ」

 春くんがくすりと笑う。

「え? だって、顔なんかよりずっと面白いよ」
「『顔なんか』!」

 表情を崩した春くんは耐え切れないといった様子で大きく笑い始めた。
私はわけがわからず、でも言われた言葉を理解して、

「あ、ごめん。まあ、確かに顔は整ってる方だと思うよ。うん、かなり」

 と謝った。
 何が可笑しかったのか春くんは更に笑い、私は困惑したまま彼の笑いが治まるまで突っ立ているしかなかった。

 やがて笑いの治まった彼は「ごめん」と一言謝罪し、

「こんなに笑ったのは久しぶりだ」

 そう言って目尻の涙を拭った。
 私は「はあ」としか言えずに春くんを見ていた。
頭の片隅で、芸術品はこんなに笑い転げたりしないだろうな、と阿呆なことを考える。

「面白かった?」
「え」
「落書き消し」

 春くんは壁を指差した。私は頷いて、

「腕の良い業者が居るって聞いたけど、春くんだったんだね」

 と聞いた。
 彼は高校卒業後大学に進んだはずだが、その後でこの仕事を始めたのだろうか。

「まあね」
「修行したの?」
「オリジナルだよ。研究を重ねて、薬剤を改良したんだ」

 今ではこの街一番だと思うな。

 そう言う春くんに優越感は見られなかった。ただ事実を素直に言っているだけだという印象しかない。
 大方の人間が自分のことを話す時は多少の虚栄心みたいな物が見えるから、やっぱり春くんは不思議な人だ。

「へー、すごいじゃん」
「まあね」

 特に感情も込めずに返すと、彼もストレートに言葉を返してきた。
それがなんだか棒読みの台本の、決まりきった台詞のように聞こえてとても愉快だった。

「そういえば、気になる落書きがあるんだけど」
「気になる落書き?」
「うん。消したいんじゃ無くて、ただ単に気になる落書き」

 こういう英語のじゃ無いけど、と言って場所を説明する。

 と、春くんはバケツを片付け始めた。
仕事が終わったから帰るのか、とぼんやり様子を眺めていると、運転席に乗った春くんが窓を開けた。

「乗らないの」
「え」
「見に行くんでしょ、その落書き」


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