りんご酒をビールにしてはならない


久遠は、喫茶ロマンで椅子に座っていた。店内には静かな音楽がかかっている。
目の前の陶器のカップから、香ばしいコーヒーの香りが立ちのぼる。おいしいですよ、飲んでみてくださいよと呼びかけられているようだった。

「ねえねえ響野さん」
「なんだ?」

久遠がカップを指さした。中の黒い液体は、店主である響野が淹れたものだった。

「これってエスプレッソ?」久遠が聞いた。
「違う」
「エスプレットって、イタリア語で“急ぐこと”なんでしょ? 響野さんにぴったりだね」

久遠が聞きかじった知識を披露すると、響野は驚いたように目を丸めた。そして、その眉根がみるみる寄っていく。「なんだと?」
不機嫌そうな顔をして、響野は大きい声で言った。

「私のどこが急いでいるっていうんだ?」
「演説とか」
「毎回、あんなにも親切丁寧に話しているじゃないか」

響野はあんまりだといったように、大げさに天を仰いで見せた。身を乗り出すように話す姿は、カウンターを挟んで座る久遠に見せつけるようでもあった。

「アメリカンかもしれないわよ」
「雪子さん」

少し離れて二人の会話を黙って聞いていた雪子が、ボックス席の椅子から言った。

「どういう意味?」
「話の中身が“薄い”ってこと」

雪子は、可笑しそうに笑う。

「雪子まで!」響野が嘆いた。

久遠が、振り返っていた体を戻してカウンターに肘をつく。ちらりと時計を見て、ため息を吐いた。

「どっちにしろまずそうだなあ。祥子さんがいれば、カフェラテくらいにはなるのに。あ、カフェオレだっけ?」

久遠は響野の妻、祥子を思い浮かべた。店内に祥子の姿はなかった。店主である響野、久遠、そして雪子の三人だけであった。
響野が言った。

「カフェラテは、エスプレッソに、同量のやや薄い温めた牛乳を混ぜたものだ。カフェオレは濃く淹れたコーヒーと熱い牛乳を、これまた同量カップにしかも同時に注いだものを指す。カフェラテがイタリア語で、こっちはフランス語だ」
「へえ……」

響野が違いを説明すると、久遠が感心したような声を出した。目がほんのすこし開かれていて、事実、感心しているようだった。

「カフェオレ持ち手のないカップを使うこともあるぞ。カフェオレボウルと呼ばれるものだな」

響野が語りだす。

「日本では一緒くたにされがちだが、エスプレッソへ牛乳を注いだものをカフェラテと言い、ドリップ・コーヒーへ牛乳を注いだものをカフェオレと区別している場合が多い。
同じ「コーヒー+牛乳」でも、イタリアのバーではな、カフェ・マッキャートと呼ぶエスプレッソに牛乳をたらしたもののほうが一般的で、カフェ・ラッテは外で飲むというより家庭で作るほうが多いようだぞ。
マキャートというのはだ、エスプレッソにたらした牛乳がしみ・つまりmacchiato(マキャート)のようだというところから来ている。たっぷりのミルクに少しだけコーヒーを注いだものは、ラッテ・マッキャートと呼ばれるんだ。

牛乳と言えばカプチーノもあるが、あれはイタリアで好まれているコーヒーの飲み方の1つで、エスプレッソへクリーム状に泡立てた牛乳を加えたもののことをいう。上に絵を書くこともあるな。あれは高度な技術がいるんだぞ。
ちなみにカフェモカというのもあるが、あれはエスプレッソコーヒー、チョコレートシロップ、スチームミルクを混ぜた飲料のことだ。チョコレートとミルクの代わりにココアを使うこともある。あの二つは原材料としてはほとんど同じなんだ。ほかの店ではホイップクリームなどをトッピングすることが多いみたいだが、私の店ではやってないな。
本来「モカ」とはモカコーヒーのことで、カカオに似た風味がある豆なんだ。カフェモカはチョコレートを入れることで、なんとかそれに似せようとしたんだな。アメリカの知恵だ、知恵」

「長い」

響野の演説が終わって、一言。久遠が言った。

「そうね、長いわね」雪子も同意する。
「なんだと?」

響野は驚いたように声をあげ、非難するように続けた。

「ゆっくり話してやったじゃないか」
「それが余計に」
「そうね」

二人はつれなく答えた。響野の顔が歪む。

「ただいまー」
「あっ祥子さん」

店のドアーが開いて、祥子が入ってきた。手にはスーパーのビニール袋を持っていた。買い物に出ていたのだった。

「祥子! 久遠がひねくれているぞ!」

響野は訴えるように祥子を見た。祥子はそれに片手を降ると、カウンターとボックス席の間を進む。

「切れてたの買ってきたわ。久遠君、いま淹れるからね」
「やった」

笑いかけられた久遠が、嬉しそうに手をあげて喜んだ。

「久遠、私のコーヒーはまだ一滴も減っていないぞ? 祥子のだけ飲むとはどういうことなんだ、一口くらい飲め!」

響野がわめく。

「祥子さんがいるんだもん。飲めやしないよ」
「せっかく淹れてやったのに、なんて言い草だ。祥子、久遠が恩を仇で返してくるぞ!」
「はいはい」
「というか響野さん。僕はココアを注文したんだけど?」

久遠が言うと、響野は一瞬だけ黙った。

「……ココアにエスプレッソコーヒーを入れて、チョコレートとミルクの成分を抜けばこうなる」
「それってただのコーヒーじゃん」

響野がまたなにか言おうとし、祥子が香り立つココアを持ってきたところで、再び店のドアが開いた。

「なにをやっているんだ?」
「あ、成さん。いらっしゃい」

入ってきたのは成瀬だった。祥子が笑顔で迎え入れ、「成さんもココア飲む?」と楽しそうに言った。

「聞いてよ成瀬さん。ココアを頼んだら別のものが出てきたんだよ」
「なんだそれは」

久遠が訴えると、成瀬は眉を寄せた。そして、おそらく原因だろうと当たりをつけて響野を見た。

「注文を間違えたということか?」
「違うぞ成瀬」

響野が言った。

「ココアにエスプレッソコーヒーを入れて、チョコレートとミルクの成分を抜けばそうなる」
「そうか。つまりコーヒーを出したんだな」

成瀬が理解して、響野は黙った。祥子が笑った。



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題名は「リンゴ酒をビールに、これは恐れを知らなくさせる。ビールをリンゴ酒に、これは馬乗りをしくじらせる」より

成瀬に嘘をつくとばれるから、対抗するように婉曲に話していったら演説者になったとかだとニヤリとします(130130)

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