「いい、颯太君?今日も大人しく静かに、だからね?渡辺さんいなくても出来るよね?」

朝(といっても10時は過ぎている)から看護士さんの声が聞こえた。

えっとあの人は誰だっけ。いつも渡辺さんが休みの時に来てくれる。20後半くらい優しい女性看護士さん。名前、前に聞いたんだけどな。あの人名札が消えかかってて読みづらいんだよね、しかも画数多くて難しいし。まぁ名札見えても小四以上で習う漢字じゃ結局読めないけど。

兄貴が帰ってから5日が経つ。あれから兄貴は一度も病室に来ていない。

あの最後にあった日のことは、よく覚えていなかった。ただ兄貴を傷つけた言葉だけははっきり覚えてる。


『兄貴は俺からバスケの話が聞きたくなかったの?』


いくら頭に血が上ってたからって言うべきじゃなかった言葉だけはわかる。
兄貴が今はキセキの世代と呼ばれる人達を連れてきたときだって


「颯太が元気になるようにって、みんなが来てくれたんスよ!!」


ってはじけるような笑顔で笑ってくれた。あの表情が作り物だったなんて思わない。

それに話が聞きたくなかったら、そもそも病室に来てくれるはずがないんだ。兄貴は只でさえ忙しい。学校生活に、モデルの仕事、その上に部活まで。そんな合間をぬってまで、しかも神奈川から来てくれていた。その兄貴になんで俺は。

あんなこと言ったんだから、兄貴はもう来てくれるはずがない。当たり前だ、兄貴は何も悪くない。なのに俺が一方的に怒鳴り散らしたんだから。

ふと一本増やされた管が目に入った。袋から延びている管は、左手に繋がっている。

これ、切ったらどうなるんだろ。

すぐ苦しくなったりはしないよね。

だったら抜いちゃおうかな。

右手をそっと伸ばして指で管をなぞってみた。

「颯太君!」

聞き慣れた声に視線をあげると、心配そうに覗き込む渡辺さんと目があった。ちょっと肩で息をしてる。急いで来てくれたんだろうか。今日は休みじゃなかった?なんて考えが浮かんでは消え、浮かんで消える。

「颯太君、今日は随分ぼんやりしてるね」

もう一度渡辺さんの声を聞いたら、やっぱり我慢できなくて聞いてしまった。

『…こんにちは。…仕事なかったのにきたの?』

それもしかして、俺のせい?
だから呼ばれて出てきたの?

「違うよー、颯太君。午後からだけど、ちょっと早く来たんだ」

『なんで?』

「颯太君と詩の話したかったからだよ。勤務中じゃあ長く話せないでしょ?」

『……俺渡辺さんに迷惑かけてるね』

そう言ったら、急に渡辺さんの表情が変わった。いつものように微笑していた顔が、笑いのない真面目で真剣な表情に変わったのだ。

「颯太君、僕は迷惑だなんて思ってないよ。ひとりの患者にいれこんじゃいけないってよく言われてるけど、僕は患者さんとの時間は大切だって思うから、だから颯太君と話してる。何より楽しいんだよ」

楽しい。
それは5日前にも聞いた言葉だった。


なかなか面白いよ、颯太君!!

一緒にいて楽しいよ



俺の信じられる、真剣な渡辺さんの本心。表情からも、声色からも、言葉からも、それがはっきり伝わってくる。真っ直ぐ曇りのない瞳は射抜くような鋭さを持って心にささった。

『わたなべ、さん』

「もう自分が迷惑かけてるだなんて思っちゃ駄目だ。颯太君、約束できるね?」

渡辺さんが小指を差し出してきた。だから右手の小指を絡ませて『うん』と返事をした。

すると渡辺さんはようやくいつもの顔に戻ってくれて、思わず『渡辺さんはそうやって笑ってる方が好きだよ』と告白めいた発言をしてしまった。

『あ、いや……その、…』

「照れなくていいよ、ありがと颯太君。それ誉め言葉でしょ?」

『あ、はい』

「僕、笑うって漢字、名前にも入ってるから気に入ってるんだよ」

その発言でハッとした。
…渡辺さんって名前なんだっけ?
名札には苗字しかかかれていない。
名前知らないなんて、俺はいつも名前で呼んで貰ってたのに失礼すぎる。

「あ、もしかして颯太君忘れちゃった?」

その言葉にどきりと肩が動いた。少し考えても出てきそうになかったから、おずおずと尋ねてみることにした。

『…はい。渡辺さんって名前何でしたっけ?』

そう聞けば、あっさり渡辺さんは教えてくれた。

「笑佳(えみか)だよ。女の子みたいだよね」

まぁ確かに女の子にもいそう…、というか女の子の名前なんだろうけど。でも。

『いや渡辺さんにぴったりですよ!俺はいいと思います』

「ありがとう、颯太君」

いつも通り笑った渡辺さんは凄く綺麗で、本当に名前を気に入ってるのが表情にまでにじみ出ていた。




『え、明日から合宿行くの?黒子さん』

「はい。先輩に聞いたところ、今回は海沿いの地域でするらしいですよ」

『今回は…って何だか含みのある言い方ですね』

午後日差しが弱まってきた三時頃。
今日は黒子先輩が一人で来てくれた。黒子先輩の話によると、明日から誠凛高校は合宿が始まるらしく、暫くは会いに来れないとのことで。

そういえば、明後日からI・H(インター・ハイ)だ。I・H(インター・ハイ)、今年はどこで開催だったかまでは知らないけど、毎年7月29日から始まることだけは知っていた。

ということは今頃兄貴は練習中で、暫くは会いに来れない…というか、多分もう一生…。

会いに来てくれない。

そう考えたら、持ち直していた気分がジェットコースターみたいに一気に急降下していった。

「颯太君?」

『あッ、すいません!!……ぼーっとしてました、』

そうだ、黒子先輩が来ていたんだ。
忘れていただなんて言えなくて、もごもごと言い訳する。

俺の様子に黒子先輩が少し首を傾げて、「どうかしましたか?」と、心配そうに尋ねてきた。

わかりやすいんだろうか?
それとも黒子先輩が洞察力鋭いだけ?

お世辞にも表情豊かとは言いにくい黒子先輩だけど、兄貴の教育係時代から、あの真っ直ぐ人を見る目は健在で、人の気持ちには敏感な人だった。

…見抜かれたかな?

そう思ったらもう何もかも話してしまいたくなった。兄貴とあった喧嘩のことも、…兄貴には話してない身体のことも。

だけどそれは黒子先輩の負担になってしまうかもしれない。せっかく来てくれてるのにそんな暗い話しか出来ないのは嫌だ。

でも確実にタイムリミットが迫っていることも事実で、心臓が押しつぶられそうだった。

「颯太君」

だんまりを続けていると、黒子先輩の柔らかい声が聞こえた。安心感のわく不思議な声だ。

『何…ですか』

逸らしていた視線を黒子先輩の方へと移動させる。案の定というかやっぱり黒子先輩は無表情だ。だけど雰囲気がいつもよりもさらに優しさを含んでやわらかいものになっている、ような気がした。

「ボクは颯太君が何を考えているかわからない。だけど顔色を見れば、不安がっていることや何かを話したがっていることはわかります。
颯太君は優しいから煩わせたくないと感じているかもしれませんが、お見舞いって不安を取り除いてあげるために来るものなんですよ。見舞われる颯太君は何も気にしないでいいんです」

言葉を聞いて真っ先に思い出したのは、前回火神先輩と来てくれた黒子先輩のことだった。

帰る前に優しく頭を撫でてくれた。年的には中学生で子どもじゃないんだという反論もやんわりかわされて、でもあの手はなんだか安心感があったから、大人しくしていた。

…あれは黒子先輩の言うとおり、漠然とした不安を取り除いてくれた。二度と話せないかもと思ってた気持ちが確かに和らいだのだ。

気にしないでいいんです、か。

そんなに優しく想ってくれている言葉を聞いてしまったら
そんなに包み込みような温かさを感じてしまったら

…頼ってしまいたくなる。

黒子先輩って卑怯だ。
俺の気持ちを理解した上でそれでも頼って欲しいという。国語の先生が教えてくれるみたいに諭してくる。

きっと俺がそういうものに弱いのもお見通しなんだろう。…人の厚意を無下に出来ないと知ってるんだ。

『、ほんとにいいんですか?もしかしたら……後悔、するかもですよ?』

本当は話したくないんですよという意味を込めて最後の強がりを言ってみる。

じっと黒子先輩をみていれば、ふっと力を抜いた黒子先輩が少し口角をあげた。

「しませんよ、絶対。颯太君が悩んでいる事に気づいていたのに、助けてあげられなかったという方が絶対後悔しますから」




『こう見えても俺、余命宣告されてるんです』

無言を突き通していた颯太君の第一声は至って淡々としていた。その表情からはさっきまでの不安そうな表情や死に対しての恐怖心というものが全く感じられない。そんな話し方だった。

ボクが驚いている間にも颯太君の話は続く。

『先月の検査であと2ヶ月って言われました。それに実際そんな気がします。自分の身体がいろいろガタがきてるから。もう手足は思い通りに動かないんです。だけどそれは不安じゃない。…俺が心配なのは…、』

言葉を切った颯太君が初めて表情を歪めた。そしてボクも悟った。これからが本題、颯太君を悩まさせている大元なんだと。

『不安なのは、……兄ちゃんと仲直りできないことなんです』

「仲直りって…黄瀬君とですか?」

『はい』

滅多に、というか、今までに言い争いなんて一度も見たことないほど、仲のいい(?)兄弟だったから、思わず聞き返してしまった。一体何があったのか。颯太君が次に言った言葉は更にボクを驚かせるものだった。

『喧嘩よりもっと一方的で、俺が理由も聞かずに怒鳴っちゃったんです。兄ちゃんも多分心底困ってたんじゃないかと思います。途中からは自分の事で手一杯で、兄ちゃんの表情まで見てる余裕なかったから』

颯太君の怒鳴る姿なんて正直浮かばない。いつも黄瀬君が何かいうと困ったように微笑んで、時折楽しそうにニカっと笑ってた。そんな彼しか浮かばない。

「それで…仲直り、ですか」

『……はい。明後日からI・H(インター・ハイ)で仕方ないのかもだけど、…終わっても、病院来てくれないんじゃないかって…』

天井に視線を移動させた颯太君の瞳がどんよりと濁る。涙を流してくれない颯太君は見ているだけで辛い。いくらか血色まで悪くなったように見えた。

『来てくれないと謝れない。謝れないままいなくなったら、兄ちゃんが負い目を感じたまま生きていかなくちゃいけなくなる。…そんなの、想像するだけで嫌なんです』

そう言って颯太君は静かに目を閉じた。傷心しきった颯太君からはいつもの覇気が感じられない。

ボクの想像以上に颯太君の苦悩は重いものだった。否応なくその時が迫っていると感じる身体で、来る望みが薄い黄瀬君を待っている。

「…颯太君は泣きたくないんですか?」

全部出し切ってくれた方がすっきりする。だけど表情を見る限りではそんな気がする。

『俺が泣くのは可笑しいです。…兄ちゃんの方が傷ついてる』

「でも颯太君も苦しいはずです。伝えられない苦しさがあるからこそ辛そうに見えますよ」

『……俺が、辛そう…?…苦しさがある…?』

颯太君が目を丸くしたままポツリと呟いた。どこか様子がおかしい。

「颯太君?」

覗きこむように彼を見れば、放心しているようにもみえる。ぼんやりと天井を見ているようでいて、瞬きすらしない。ただ“辛いそう、苦しそう”とそればかりを呟いていた。

「颯太君、しっかりして下さい!!」

正気を取り戻して欲しくて、颯太君の身体を少し揺すった。すると彼が一度ゆっくり瞬きをする。

『昨日…兄貴が、そういう顔…してたんです。…辛そうで苦しそうな顔。だから、それ思い出しちゃって…、すみません。黒子さん、来てるのに…』

「ボクの事は気にしなくていいですよ。…どうですか、落ち着きましたか?」

『はい、もう大丈夫です』

颯太君が浅く笑ったのをみて、話を切り出した。

「さっきの話に戻しますけど、泣くのが可笑しいってことはないと思います。颯太君も泣いていいんです。泣いてすっきりした方が身体にもいい筈ですから」

言い終わった直後に颯太君の頬を涙がつたった。きっとずっと我慢していたものなんだろう。颯太君の涙は暫く止まりそうになかった。




僕が泣き止むまで黒子先輩はずっと頭を撫でてくれていた。時間が過ぎていくのすら気にせずに側に居てくれた。

でもこれ以上迷惑はかけたくない。

だからあとひとつだけお願いして終わりにしよう。

服の袖で涙をぬぐって、黒子先輩を呼んだ。

「何ですか、颯太君」

『黒子さんに頼ってばかりでごめんなさい。最後にひとつだけお願いしてもいいですか?』

とても大事なお願いなんです。
だから…




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