本当の君と嘘の君
ファミレスを後にした水泳部は、遙の家に集まっていた。出されたマグカップを両手で大切そうに持っていた渚はここ一週間の中で一番明るい表情をしている。
「夕希、僕のことが嫌いなわけじゃないんだね。それがわかっただけで十分かも」
「何を言ってるんですか、肝心な問題は解決してないんですよ?」
わかって言ってるんですか、と強い口調で責めた怜を真琴が宥めた。
「まぁまぁ。怜、渚は悪くない。俺たちが聞けなかったのがいけなかったんだから責めないであげて?」
「真琴先輩…」
「…気になるのは元凶だな」
遙の一言に真琴が繰り返し「元凶…」と呟く。
「夕希君、彼は嘘をむやみやたらについたりしなさそうなタイプでしたし、声の印象からでは元凶というのも本当のような気がしましたけど…。一体何があったんでしょうね」
「夕希は自分のこと話さないからなぁ…」
渚は顎に手をあてながら唸った。真琴もそれに同意見なのか同意した。
「それにここまで長く話したのは、渚抜きでは今回が初めてだったしね。知人程度だから、深くは知られたくなかったのかも」
「でも嘘だけはついてない」
「そうだ、ハル。なんで最後に楽しかったなんて聞いたの?」
真琴の一言にバラバラだった視線が遙へ集中した。
「それは僕も気になってました」
何故なんですか?と怜のつけ加えた言葉に、顔をあげた遙は少し怜を見て、また視線を下げた。
「夕希の気が少し和らげてればと思った」
「気分ってこと?」
「あいつの抱えてる悩みは相当根が深そうだった」
「大好きというのが本心であれば…そうですね。好いてる相手に嫌いと偽らなければならなかったほどですから…」
三人の言葉を聞いた渚は、「やっぱりぼくじゃなきゃ…だね」と呟いた。
「渚君ひとりで大丈夫ですか?」
「多分今回の聞いてた限りじゃ、怜ちゃんいたら話してくれなそうだし。やるだけやってみようかな」
「……それが一番かもしれない」
「うん、頑張ってみるよ!ありがとハルちゃん」
避けられてるからってこっちまで避けてたら、解決なんてありえないんだし。
そう意気込んで帰宅した渚は、夕希の靴が揃えておいてあるのを確認し、二階へ上がった。夕希と渚の部屋は隣同士で、向かい側は姉たちの部屋が並ぶ。階段から一番近いのが夕希の部屋だった。
「夕希帰ってる?大切な話があるんだけど」
二、三回声をかけながらドアをノックする。避けられはじめてのころ毎日やっていたけれど、効果がなかった行為だ。
反応が帰って来ないのは想定内である。
夕希の部屋は唯一姉弟の部屋の中で、内側からの鍵がかけられる。幼い頃から書道を習っていた夕希は集中している時に邪魔されるのが嫌だったらしく、お小遣いをもらいはじめた小学四年生の頃に貯めたおかねでドアノブをつけかえてしまったのだ。外に鍵穴はない。中に入らないと閉められない鍵だ。
「夕希が開けてくれないならベランダからいくよ!」
南側の部屋に位置する二人の部屋につけられているベランダは、隣の部屋に行けるようには繋がっていない。渚の胸の辺りまである壁があるせいだ。それを越えないといくことができない。今までベランダからいったりはしなかったが、今は身長ものびた。
ドアの前で宣言した渚は、自分の部屋を通って、ベランダの戸を開けた。
今日の今日こそは話を聞いてもらう。
渚の中には、それしか頭になかった。
ずっとこのままなんて考えたくない。夕希に言われたセリフにとらわれてその裏の思考まで読めていなかった。だから大好きだと言われて、あれが遠ざけるための嘘かもしれないと可能性が出てきた。
だったらなんで今まで通りに戻れないのか。
不思議でしかなかった。
「夕希のばか、嫌いでも話くらい聞いてよっ。一方的に言うだけ言って逃げるなんてずるい」
気持ちが爆発する。両手に力を込めて身体を浮かせる。あとは鉄棒に座るのと同じように片足を壁まで持ち上げて…
『なぎ、止めろッ!』
今までに聞いたことのない声だった。
口調も冷静さを失って、ひどく焦り青い表情の夕希が入り口に立っている。
思わず表情が緩んだ。
「やっと目を合わせてくれたね」
ゆっくり足を下ろしながら笑うと、夕希は『ほんと無茶苦茶…』とその場にへたり込んだ。
「こうでもしなくちゃ開けてくれなかったでしょ」
渚が笑いかけるが、夕希は無言で俯いていた。少し寂しさはあった。てもへこんでもいられない。
「夕希、部屋にいれてくれる?」
その質問に夕希は頭だけ上下させた。
久しぶりの夕希の部屋は、以前と全く変わらない。渚ほど凝った装飾はされておらず、それが夕希らしくもあるのだが、少し殺風景やしないかと渚はいつも感じていた。でも清潔感のある綺麗好きな夕希らしい部屋だった。
「あ、あの写真先月増えたの?!」
見慣れない写真たてを指差した渚に、夕希は軽く頷いただけでふれず、素っ気なくソファーをすすめた。渚が仕方なくクッションをつかんで座りこむと、向かいにある机の椅子に夕希が座った。
『話ってなに』
「えーいきなり本題?もっと話したいよ、夕希!」
『……っぼくは、話したくないッ!』
「ごっ、ごめん」
突然感情的に怒鳴った夕希に渚はとっさに謝った。大好きだといったあの言葉は?と頭は混乱する。けれどこれ以上機嫌をそこねたくはなくて、腕のなかのらっこ型クッションを抱き締めた。
『……大事な話、なんでしょ?』
声色を和らげ聞いてきた夕希は目線を合わせて渚に尋ねた。その瞳に憤怒の感情は見えない。そのことに少しばかり気持ちが落ち着いた。
「うん。僕にとってスッゴク重要で大切」
『……そっか』
「あのね、ハルちゃんたちにあったんだよね?夕希とご飯食べたって」
『……うん』
「でねその時ハルちゃんが感じたらしいんだけど。……夕希、何か悩んでる?」
『…………』
「ハルちゃんがね、誰にも相談できないくらい深刻な悩みがあるんじゃないかって気にかけてたの」
渚が伺うように夕希をみた。その視線を受け止めた夕希は、ゆっくり頭をふった。
『七瀬さんの勘違いだよ。ずっと会ってなかったから、そのせいでそう見えたんじゃない?』
「ハ、ハルちゃんは口数少ないけど、よく見てるよ?……ほんとに悩み、ない?悩んでるせいで、……嫌い、とか言ったんじゃない?」
『ちがう。……もういい?』
「…………夕希が冷たい」
『これが本来のぼくだよ、渚』
夕希が口角をあげて微笑んだのを見て、背筋が冷たくなった。
「じゃ、じゃあさ!ハルちゃんと会ったときの夕希は?敬語だったって、すごく丁寧だったって……それはつくりもの?」
『先輩に失礼なことはできない』
「……っ夕希のばか!」
渚は勢いよく部屋を飛び出した。
ベランダにてできた時の焦った顔や、微笑みかけてくれた柔らかい顔、ひんやりとした冷たい顔。今までに見てきたいろんな夕希が代わり番弧に浮かんで消える。どれが本物の夕希なんだろう。
家からも逃げ出して、どこへ行くでもなくふらついた。
夕希がわからない。
二人で行動していたときは、何となく考えていることだったり、気持ちだったりが、ちゃんと伝わってきた。
自分を見てほしいときに、ふりかえって小さく手を振ってくれた。慰めてほしいときは、黙って背中を撫でてくれた。
いつも味方でいてくれた。
「そばにいてよ、夕希……っ」
離れていかないで。
涙こそ流さなかったものの、胸が締め付けられて苦しくなった。
「…………渚?」
夕暮れ時。
帰るに帰れず、公園の隅でブランコを漕いでいた渚の前に影ができた。夕陽を遮るように大きくうつったそれから徐々に視線をあげていく。
「....あっ!」
目に写った知り合いの姿に声をあげずにはいられない。渚はさっきまでの悩みを吹き飛ばし、ふんわり笑った。