甘い声色で囁く@七瀬夕希
「だってすごく嬉しそうだもんっ」
彼女の言葉が頭の中をループする。
水に触れること。
それが本当に好きなのは……。
夕希は寝転んだ状態で手をかざした。
『まっすぐ、だなぁ……』
ころころ変わる彼女の表情を曇らせたくない。
だからこそ否定も肯定もできなかった。
でも実際はちょっと違うのだ。
木之本さんは大道寺さんと仲の良い女の子。
大道寺さんとは隣の席の女の子だ。
席は同じ列で隣の隣。
友達も多いみたいで人がたえず彼女の周りを囲んでいる。明るくて、屈託のない性格なのか、誰とでも仲良く話しているのをよく見かけた。
体育の授業をみる限りでは、運動神経もいいみたいで、こないだは跳び箱八段を軽々と越えていた。
前の学校のクラスメートの名前もうろ覚えの僕が、彼女の名前を覚えているのは彼女の方からよく話しかけられることが原因だった。
以前の学校じゃあんまりなかったことで、正直どうしたらいいのかわからない。しかし無下に扱うことはできなくて、微妙な反応ばかり返してしまっていた。
失礼極まりないことをしている自覚はある。
だけどどうしたらいいのかわからない。
今日は天気がよくて、午後からのプールに最適な気温だった。入念に準備体操をし、足を水につけた。
前をいく人がレーンを離れてから入るというルールに従い、レーンに誰もいないのを確認してから泳ぎはじめる。
クロール。
水面に対してうつ伏せの状態で、手を動かしばた足で進む。左右交互に息継ぎをすることも忘れちゃいけない。極めて一般的で、シンプルな泳ぎ方だ。
ターンして泳ぎきると、その先には寺田先生がいて「すごいな、それだけ泳げるなんて」と頭を撫でられた。
プールからあがると、木之本さんが立っていた。
それで言われたことが「嬉しそう」だったのだ。
夏休みにはいり学校へ毎日は来なくなったけど、図書室で借りた本を返す約束をしていた僕は、学校へ来ていた。校庭にはチアリーディング部が練習をしている。そこに見覚えのある顔があった。
あれ、木之本さんだ。
ぼんやりとした表情は、ふだんの彼女らしいものじゃなくて、練習が終わってからはどこか不安そうだった。
どうかしたのかな。
「さくらちゃん!」
校庭にぽつりとたつ彼女を見ていると、高校側のフェンスから木之本さんの名前を呼んだひとがいた。服装から隣に建つ星條高校の生徒であることがわかった。
「雪兎さん!」
そう彼を呼ぶ木之本さんの声も弾んでいて、幸せそうにみえる。さっきまでの悩んで雰囲気はなくなっていた。
お互い大切。
……家族みたい
二人は決して容姿が似てるなんてことはなかったけど、それでもお互い笑いあってて、あったかくて、わすかな隙間すらなかった。
ふたりきりの空間ってたぶんああいうのを言うんだろう。
そっと息をはきだして、二人に背を向けた。
もし次に見かけたときに、木之本さんが悩んでいたなら声をかけよう。
そう小さく決意して。
それから数日後。
僕は本の続きが気になって、母さんの出掛けているすきに、近くの図書館まで来ていた。鍵は閉めてきたし、母さんも持ち歩いているだろうから、万が一先に帰ってきてしまったとしても多分心配いらない。
行きはその近道になる池のある公園を横切った。勿論時間短縮のために帰りも抜けようとした。池のふちを通ろうとしたそのとき、池の水が波打ち、形を作った。
『、……っわ!!』
気がついたときには、池の真ん中に木之本さんが立っていた。こちらを見ながら、悲しそうに笑っている。
あの不安そうな顔だった。
……あの悩みはまだ解決してないの?
『き、木之本…さん? そこにいたら危ないっ』
とにかく水は危ない、
今度は僕から話しかけた。あの時は背中を向けてしまったけど、今度は逃げたくない。
でも木之本さんはただ黙って笑うだけだった。それをみて背中がぞくぞくっと寒くなる。僕は一目散に駆け出した。
『……っ』
あんなの木之本さんじゃない!
日だまりみたいであったかなのに。
家についてからもかたかたと震えが止まらない。夜寝るときにも、あの木之本さんが笑いかけてきて、僕はぎゅっと目をとじた。
あれから何度か夢にも登場したつめたい木之本さんにいい加減慣れ始めた頃、僕は夕方になりかけてから母さんからの頼みごとを思い出した。
「図書館からの帰り道にお買い物してきてほしいの」
ポケットを探ると、くしゃくしゃになったお買い物リストが見つかる。さっき過ぎてきたスーパーを思い出して、それから小さくため息をはく。
引き返そうと一歩踏み出したとき、登下校のとちゅうにあるスーパーを思い出した。
ここからだとそっちのが家に近い!
そう思うやいなや、足が勝手に動きはじめた。あたりが暗くなってきたこともある。急がなくちゃ。そんなふうに思ったんだ。
リストに書かれたものはそんなに重くなくて、これなら走ってでも落とさずにすみそうだ。すっかりあたりはくらい。門限は六時だったけど、ちょっと過ぎてしまったかな?
そう考えながら、川の横にある道を走っていると、川から水音がした。足をとめてキョロキョロみまわすと、後方から流れてくるものがあった。
いつもより流れがはやい。
それにのって流れてきたのは。
『……ひ、ひと?!』
自分よりははるかに年上にみえるその人は、両手に何かをつかんでいて思うように泳げていないようだった。水面から口が出たり入ったりと息苦しそうにしている。
あれじゃ溺れちゃう!
あたりには人影がない。
このままじゃあのひとは助からないかもしれない。
恐る恐る僕は土手を下までおりた。すると手にしていたのがまだ小さい子猫だったことがわかる。
それから手を目でおい、顔を見たとき息をのんだ。
もう意識を失いはじめてる…!
どうしよう。どうしよう。
僕はひどく焦っていた。
今助けなきゃ、あのひとは!
でも僕じゃ体格差がありすぎる!
小学生に自分以上の大人を、岸まで運べるぼとの力があるんだろうか。そんなことをうじうじ考えている間にも人が流されていく。
木之本さんの時は躊躇わずに飛び込めた。それは彼女が僕よりも軽い女の子だったからだ。
“とびこんでしまいなさい”
心の奥で声がした。
『えっ……』
“後悔がのこるくらいなら、とびこんでしまいなさい”
耳を傾けると、もう一度声がして、僕は買ったものを素早くおいた。
そうだ。
あとから言わなかったことを後悔するくらいなら。
僕は声に誘われるように水に飛び込んだ。
木之本さんの大切なひと、必ず助けなくちゃ!
脳裏にちらりと浮かんだのは、木之本さんに雪兔と呼ばれたあのひとが笑いあっていた校庭の風景だった。
(甘い声色で囁くのは天使とは限らない)