靴擦れの踵が治ったので、久方ぶりに浴槽に浸かった昨夜だった。しばらく絆創膏を貼らざるを得なかった原因は、先週よりすこし前に買ったばかりのヒールの靴で、それはわたしの足よりすこし小さいその靴をレジに置いたときにすでにうっすら予感されていたことでもある。でも、どうにもその色の発する誘惑が心地よかったので。その色は、わたしがもっとも求めているサイズにはなかったので。ワンサイズくらい大丈夫じゃないかとタカをくくっていたところもある。結果、わたしのやわらかくなめらかな踵はここ数日可哀想なことになっていた。絆創膏を剥がしたばかりの踵には、新しい皮膚の下に赤い点々が2ヶ所ほど浮いている。わたしの体はわたしを生かすことに必死らしいということを感じると、嬉しい気持ちになってたまらない。

 コントレックスをコップ半分ほど飲んで、カーテンを開けて、それからベッドをのぼるように戻って、昨夜やってきたばかりなのに我が物顔で瞼を閉じている男の足を揺らした。朝ですよ、ここはわたしの家ですよ。うっすらと黒目を覗かせた男は吐息多く、うん、とだけ返事をする。年下なのに随分色っぽい声を出せるものだと感心したけれど、寝起きの掠れ声を色っぽいっていうのは、それはそれでなんだかいけない気分になって、とりあえずわたしはまた出来立てほやほやの皮膚に包まれた踵で男の体を揺さぶった。
 起きる、起きるよ。しばらくして彼がそう言ったのでわたしは踵をどけてコントレックスを取りに白い長方形の冷蔵庫まで足を跳ねさせた。コントレックスが好きなのは彼で、わたしはあまりコントレックスは好きではなかった。さらに言うと男はこの家に居着いているときの方が少ない。それでもコントレックスは彼のいないうちにも用意されて、消費されて、あのピンクのラベルのついたペットボトルがリサイクルへと流されている。気づかなくてもいいけれど、いつもコントレックスがわたしの家にある意味を考えてみるくらいしたっていいんじゃないかと思う。

 男の名前は高多くんという。あまり呼んであげないけれど、ちゃんと覚えてはいる。年齢は、どうだっただろう。わたしとそんなに年の違わない年下。かつては高校球児で、彼いわく「爽やかなほうの野球部員だった」らしく、焦げ茶色に染まった髪は今でも短く切り揃えられている。涼しげな襟足はわたしの胸中をぽっぽとさせるくらいには魅力的だった。

「鏡子さん、元気だった?」
「うん」
「昨日のお昼はなに食べた?」
「お素麺」
「生姜はいれた?」
「いれてない」
「刻み葱も?」
「いれてない」

 なんだそれ、勿体ねーの。腑に落ちないといった顔でグラスのコントレックスをすこしずつ飲む男にそっと寄り添う。左腕を両手で抱え込むようにして体をぴたっと寄せる。彼は器用にわたしの手を握る。彼の好きなコントレックスを飲みながら。わたしはまたたまらないほど嬉しくなって、ひたすら衣服越しの熱で彼を感じていた。こんなにも彼のことが好きなのに、放っておけるなんてひどい年下だと思いながら、それでも離れることもせずにひたすら頭の中で彼を飼った。



 踵が傷ついた日の話。

 その日までに2回、件のヒールの靴を履いて外出して、ほんのすこしの痛みがある以外は問題なくわたしは靴を履きこなせていた。あの日、会いに行ったのは男、高多くんとは別の男である。学生時代から付き合いのある人間で、どうやら女としてわたしを好いてくれていたらしく、高多くんがいなくてさみしい夜に呼び出しては高多くんが好きだと徒に重石をつけた上でいろいろと付き合わせていた男だった。なんでもしてくれる男だった。
 そういうのはやっぱりなんだか駄目だと今更に、急に思い立ったのはヒールの靴を買う数日前で、その日に呼び出してそういう関係には絶対になれないというようなことを言った。男に会うための長距離の往路で足をすっかりジンジンと痛めさせていたわたしは、男がああだこうだと言うのも耳半ばに、性急にその場を去った。最後に「友人として連絡したときは会ってくれ」なんてことを結果わたしは男に言わせてしまったのだけれど、たぶんあの男が連絡を寄越すことは金輪際ないだろうと足の痛みに耐えて帰った復路も1週間がたった今も思っている。事実、その2日後にあてつけみたいな呟きがあった以外はなにもない。



 「右手のマニキュアを塗って」とおねだりすれば、高多くんは快く承諾した。たぶん今年の流行りにはならない、真っ青なマニキュアは桜貝の爪の上でとろとろと流れる。ムラになるから、重ね塗りするから、うすぅく塗ってね。高多くんは武骨な手をして、器用だった。わたしの手の小さいのを子どもみたいだとけたけた笑っては弄ぶ。これでも、女子の中では指の長いほうなのだけれど。

「手が白いから青がよく映える」
「わたしもそう思う」
「最近、青が好き?」
「昔から好き。どうして?」
「玄関にあった新しい靴、青かったから」
「君も青色だと思うよ」
「それ、告白?」
「…青二才」

 襟のラインのきれいなTシャツから愉快な鎖骨をきゅっと覗かせて、言うね、と高多くんは言った。彼はいつも楽しそうで、良い。わたしが楽しくしなくても、彼が勝手に楽しくしてくれる。他のことをなにもかもしてくれるかといえば、そういうわけではないけれど、「わたしをすきになる人」としてはともかく「わたしがすきになる人」には、わたしはそういうのを全面的に求めているわけではないから、それでいい。友人でもなくなってしまった人を思い出す。いつまでも鮮やかな高多くんのようには、あの男は輪郭も髪の先も薄灰色であやふやだった。濃淡をつけて青く染まる爪の色の前では特に。…それがたぶん、ぜんぶだった。やせっぽちで味気ない運命はつまらないと思う。

「あの青い靴、すこし小さいの」
「無理して履いたら足痛めるよ」
「もうなった」
「…ふーん」
「もう治ったけど」
「そ。…俺、鏡子さんのヒールを綺麗にこつこつ鳴らして歩くの、好きだよ」
「嬉しい」
「なかなかいないんだよ、俺好みに歩く女の人」
「君のためにそんなふうに歩いてるわけじゃないけれどね」
「俺、昨日の夕方、鏡子さんと似た歩き方する女の人見かけてさ。それで来たんだ」
「それじゃあ、またわたしと似てる人を見つけたら遊びにきてね」
「じゃあ、次は、駅のホームで電車が通るたびに、手に持ってるものぎゅっと握りしめる女の子を見つけたら」

 一拍おいて、よく見てるね、と、唇が微笑んだ。すこし、照れたように彼はマニキュアの重ね塗りを始める。この色、お局さんに怒られないわけ? 言われてみれば、どうかなあ。鏡子さんって意外と世渡り上手だよな。極端だけどね。ふうん、そうなんだ? そうなんだけれど、ねえ、そんなことはいいから、とろとろしたいね。とろとろ?
 一番最後の親指を塗り終えて、高多くんはしたり顔でわたしの目を覗き込んだ。どうぞ、の合図を出してしまえばもうわたしはなにより自由でなによりしあわせだった。マニキュアが乾くのを待つ間、数えられるほどのキスをして、それから2人でベッドにきゅうきゅうになってずいぶん早い昼寝をした。手を繋いで膝をあわせて、とろとろと2人であたたかく眠る。



 起きたときには、高多くんはいなかった。晒された右手の青が、彼に重なってきいんと愛おしい。左手も青に染めて、トップコートを塗って、それからコントレックスを飲んだ。またいつか、できるだけ早く、来てくれますように。





∴ネイキッド・ブルー







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