- ナノ -




1 葦舟の子


やんごとなき身に舞い降りし、穢れを許すなかれ。
やがて鬼を生み出し、世を混沌に至らしむは物の怪の仕業なり。
あな、恐ろしや。 それ、忌むべきや。
物の怪を宿す穢れを纏う身、清浄なる流れのままに清めよ。
これ後に、『忌み流し』と呼ばれし。


漆黒の闇の中を流れる川がある。
人々が、異郷と恐れる狭間と狭間の世界。
日も落ちて、神霊や物の怪が闊歩する時間帯であるにも関わらず、その川は酷く静寂に包まれる。
この川と土地に棲まう主は、己以外の生物を好まない。
神であろうと、精霊であろうと、生物であろうと、もちろん人など言語道断。
なのに、主が最も嫌う生物の声がするのは何故だ。

静寂を望む主の願いを知らず、ただ五月蝿く泣き続けるのは何だ。
主が鎌首をもたげる、不機嫌に眠りから覚めた瞳が水面を彷徨う。
その瞳が捉えたのは、小川の流れに沿って闇夜を流れていく一つの舟。
舟と言っても、それは非常に小さな葦で作られた貧相な舟だった。
泣き声は、そこから聞こえてくる。酷く悲しげで、切なげな。

―五月蝿きは、忌まわしき界の人の子か

主が唸り声を上げて、水面から顔だけを現せば、葦の舟は主に引っかかって止まった。
鎌首を舟の中へと近づければ、舟の中で泣いているのは小さな赤ん坊。
まだ僅かに濡れた体と僅かに残る血の匂いが、生まれて間もないことを主に教える。
低く唸れば、赤ん坊はまだ泣き続ける。
まだ目も開けられない様が、小さな存在を余計に強調した。

―あな、人とは常に愚かで浅ましき

主の声が響き渡り、その怒りで発せられた霊力の怒気で川が波立った。
大気を伝った振動は森へと伝わり、静まり返っていた森の木々が激しく揺れた。
その音で、目は見えずとも赤ん坊は泣くのを止めて、しゃっくりを上げる。
主は息がかかるほどまでに、赤ん坊に顔を近づけ嘲笑う。

―『忌み流し』の葦舟に乗せられるは、ただの稚児よ。人はお前に穢れを見たか?それとも、ただ捨てられたか?

答えなど無いのは分かっているも、主は怒りを興に転じようと赤ん坊に声を発する。
赤ん坊は何かの気配を感じるのだろう、先ほどあれほど五月蝿く泣いていたのは嘘のように静かになった。
ただ時折、ぐずるような声を発し、小さな手で目の前にいるであろう何かに触れようと手を上げる。
宙を空しく掴むだけの動作に、主は目を細めた。

この非力な赤ん坊は、ただの人の子だ。
何の特別な力も、忌まわしき穢れも持たない子供。
寧ろ、この世に生まれ落ちて間もなく、まだ人が支配する乱世を知らない無垢な存在。
澄み切った純真な魂の気配であることが、人間や世界への主の嫌悪を僅かに薄める。
こんな存在が、穢れを纏う忌み子であるはずが無いのに。
すぐ狭間の向こうでは、乱世に惑い、欲望と争いで必死な人間は闇を生み、闇は鬼や妖を跋扈させて更に世を乱す。
神聖さを求め穢れを恐れる人間は、区別もつかないのに勝手に世迷言を決めつけるのだ。

―哀れで、愚かな子よ。生まれ落ちて、すぐに死を待つのみであっても泣くのは寂しさか

主が呟けば、赤ん坊はぐずり出す。
必死になって手を宙に動かしても何も無い。
本来ならば暖かな祝福と抱き上げてくれる母も、喜びで包み込んでくれる父もいない。
誰も、何も、この存在を助けて求めてくれる者はいないのだ。
それを酷く感じやすい性質なのか、魂の気配が孤独と悲しみで揺れ動いている。

―孤独が怖いか、存在が恋しいか。おかしや、我もお前と同じよ

細められた主の目と静かな声に、赤ん坊はぐずるのを止めた。
どうやら主が読んだ通り感受性が強い魂らしい。
主はそっと顔を近づけて息を吹きかけた。
途端に赤ん坊は、反応して小さく笑い声を上げる。主は目を閉じた。

主が生まれたはどの世界であっただろうか。
主が蛟と恐れられるようになったのは、どの時代であっただろうか。
主が神と崇められるようになったのは、どの時であっただろうか。
全てを閉ざし、暗い水底に眠り続けるようになって気が狂いそうなほど長い年月が過ぎ去った。
これもまた一つの転機なのかもしれない。

主が目をゆっくりと開けて、再び赤ん坊を見据えれば、赤ん坊は笑った。
忌まわしい人の子供、それでいて今は純粋無垢な人の子供。
何の力も持たないこの存在の運命を、主が変えてみるのもまた悠久の一興になるかもしれない。
低く笑い声を鳴らして、主は尾を水面から出した。
硬い鱗を持つ九つの尾が、小さな葦舟を簡単に絡め取ってしまう。

―ただの子よ、お前は今から我により忌み子となる。二度とただ人には戻れぬ、人に嫌われし異端の力と共に異界を生きよ。それが世界よりも狭間の運命へ、我へとお前を導いた流れの意思

主の最後の言葉と共に、赤ん坊は葦舟ごと長い尾によって水面へと引きずり込まれた。
残されたのは、小さな水滴の音のみで、辺りは静寂の闇へと包まれた。


やんごとなき世に生み出されし、闇を許すなかれ。
やがて悪を生み出し、世を混沌に至らしむは人の心の仕業なり。
あな、恐ろしや。 それ、忌むべきや。
悪の心を宿す闇を纏う子、清浄なる流れのままに滅せよ。
これ後に、『忌み子』と呼ばれし。

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