織田包囲網戦線 1
名前が居とする屋形のある二の丸の曲輪の一角には、複数の櫓で囲むようにして築かれた屋形がある。
夜も明けぬ刻、灯りといえば揺れる燭しかない。
屋形内のほとんどが闇に包まれていたが、央にある大間だけは異なっていた。
広々とした座敷に余分な装飾は無く、奥の主座だけが一段高く設けられている造りが目を引く。
今は空である座を一瞥した男は自身以外に集っている者たちを確認した。
「して、殿は何と仰られた」
「聞かずとも分かっておろう、実にお怒りであった。無理もない…我らとて答えは変わらぬ」
「我らが主の御国は此度に聞き及ぶ魔王の所業に屈しはしない」
「いかにも」
頷いた男に他も呼応して力強く答える。
彼らが近日、再々に渡って議を繰り返しているのは、この乱世に舞い降りたと恐れられる魔についてだった。
字の如く、第六天魔王を称して頭角を現した尾張の将。
天下布武を下し、次々と近隣で戦を起こして勢力を拡大しているという織田信長という魔だ。
口にするのも憚れるというように身震いした一人を誰も咎めない。
信長の行う所業は布武と魔王を称するに値するものであった。
「美濃に加えて、先だっての本願寺…燃え盛る炎が一里先でも夜を照らしたというではないか…」
「織田は人にあらず!魔性の権化に相違なし!」
進軍の後には塵も残らぬという。
生きある者は女子供問わずに皆殺し、田畑や村里は全て完膚なきに焼き払われる。
草を使わずとも諸国を経て伝わる非道の限りは、誰もが震え上がって慄いた。
その魔王から三河を通じて相模へと届けさせた物が全ての始まりである。
書状には天下布武の文字のみ。
添えられていたのは、黒く焼け焦げた髑髏一つ。
届けた徳川の使者でさえ悲鳴を上げて腰を抜かした送り品は、城主である氏政を始めとして重臣たちを震撼させた。
伝えるに言葉などいらないと突きつけられた従属を求める脅しであった。
「東の覇者である北条を何と心得るか、あのうつけは。と」
「攻めの一手あるのみ。殿の下知はごもっとも」
「織田に下るなど有り得ぬ.。ならば、機は今か」
ひと昔前は近隣の大国である甲斐と越後、駿河との戦が続いて東の情勢は酷く乱れていた。
相模も例外ではなく、ある時は同盟を、ある時は戦をと目まぐるしい攻防を続けてきた。
甲斐の虎が、越後の軍神が相手でも、それでも北条が引けを取らなかったのは一重に小田原あってのことだ。
初代は伊勢から五代によって培われ、継承されてきた栄光の自力。
けれども転機はあった。北条が攻めの姿勢を止めた転機が。
「情勢の保たれている今ならば、か。北の独眼竜にも示せば更なる援軍も期待できよう」
そのための同盟ではないかと声が上がる。
しかし、すぐに場を仕切る一人が首を横に振った。
「奥州との盟に、その約は含まれていない。承知であるはずだろう」
「だが!垪和(はが)殿…!」
「否。相模は奥州へ援軍せぬ、奥州も相模へ援軍せぬ。若の御意向ゆえだ」
「若…若君、名前様は何と?」
集まった臣たちが口々に話していた会話を止める。
皆、この場を取り仕切る家老、垪和氏へ集中する視線。
落ちた静寂に垪和氏はゆっくりと口を開いた。
「従は否、起も否と」
「動かぬと!?では黙って織田の侵攻を受けるというのですか!?」
「いや、待て。垪和殿、まだ続きが御座るか」
「…その返者に、若ご自身がなられるそうだ」
「何と!!」
驚きが場を満たし、誰もが同じ想いを抱いた。
頷いた垪和氏は姿勢を正し、居並ぶ面々を見やる。
夜半の評定ゆえに数は遥かに少ないが、全員が、己が主を敬愛し、己が参ずる役割と意思を自覚する者である。
諮れと、との紡ぎに彼らは身を乗り出した。
「故に我らも諮れ、と下知された。返をもって殿へも奏されるとのご覚悟だ」
「決まっておる!ずっと前から!」
「お待ち申し上げた…!我らだけではないッ殿…氏政様が最も!」
衝撃は興奮と歓喜へ。
涙ぐみさえ含む彼らの気持ちを何より分かるのは仕切る垪和氏だろう。
震える手から冷静さが崩れないように、内に湧き上がっている喜を隠して面を保つ。
それから、冷静に続けた声は力強かった。
「名前様の名乗りじゃ!皆の者、相違あるまいな!?」
「御意に!」
「評定衆の意なり!」
織田信長の侵攻に対し、相模が表に出るは北条の後継。
五代目、氏直を没して急速に衰退する国が護り抱いてきた希望。
同時に、この国を内々から支えて地力を整えてきたのが希望自身だ。
決して公に出なかった名前が、名代ではない事は即ち相続を意味する。
家督の相続、相模を統べる北条の六代目の名乗り。
「確かに受けたし」
「明朝に国内へ触れを出す用意もせよ」
「直ちに!」
「魔王の件、明朝にて改めて」
立ち上がった彼ら、評定衆からは織田への恐れ慄きが消えていた。
光を見定めたような力強さを宿して見える。
蓄積された疲労と睡魔など意でないとの如く、慌ただしく大間を後にしていく。
残った者が垪和氏へと問を発した。
「御触れはいかに」
「『六城の君、立たれたし』」
領民は、敬意を込めて相模の主を『御本城様』と呼ぶ。
六の御城君。その御名の意味は国内に新たな風を吹かせるだろう。
垪和氏の言に深々と礼が返された。
こうして小田原が誇る家臣たちの評議、小田原評定衆の意が決定された同刻。
二の丸御殿の私室にて、風魔と向き合う名前は開いた襖の先から見える外を見上げていた。
北方の空が光ったように見える、また一つと瞬く間に空が明るくなった。
夜明けの白みだけではない、もっと大きな何かがぶつかり合っている光だ。
「動き出すか…」
視線を伏せて思考にふける名前から風魔が視線を動かす。
奥の机には、広げられた書状と共に置かれている品。
黒焦げていた表面は丹念に洗われ布で拭かれたために、本来の乳白の名残が取り戻されて見える。
下には薄い布が敷かれ、濃青を咲かせる竜胆が一輪添えられていた。
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