瀬戸内・九州道中 1
新月の夜、本来ならば雲間にちらつく星明りだけが光を与えるものだろう。
人足踏み入れぬ山中の更に奥深い崖の合間では、度重なる発光が起こっていた。
光と共に空気を震わすは火の粉と灰の燻り。
また1つ、木々を薙ぎ倒して闇を照らす焔が弾けた。
「ふむ、これは中々」
立ち込める鈍色の煙の中から穏やかさえ漂わせる声が形を現した。
悠々泰然たる足取りと口端を上げて顎下を摩る笑み。
細めた瞳が趣深そうに捉えたのは、爆風で転がっている身。
擦り傷と火傷だらけの陣羽織の端が今も火を帯びて焼け焦げ続ける。
一見、事切れてすら見える満身創痍ようで乱れ広がる金茶の髪がかかる落ちる瞳は開いている。
映している黒闇は先ほどの一撃で霞んでいたが、すぐに閉じて瞬き開き直すと細められた。
詰められた距離に身が動く。
「闇の帳でも角度によって見え方が変わって見えなくもない」
掴み上げた髪はされるがままに顔を上げて、見据える距離が縮まる。
その関心の先は、ただ己と視線を交わし合っている眼だった。
「さながら水銀。実に美しい、濁りの無い澄んだ色合いよ」
水のような、銀のような、そんな色合いは玉石にも見える。
男の思考は単純だった。
美しいものや珍しいものは好きだ、愛でると楽しい。
欲しいと思えば、手元にある事を望む性を隠さない。
手段は問わない、何が何でも手中に入れる。
そうやって今まで生きてきた。
「新月の肴に良きかな」
「貴方のお酒に付き合うつもりは無いですよ」
「では血かね?つくづく卿も物好きなものだ」
掴み上げていた感触が一気に消えて離れる距離。
驚かない男と傷だらけの者が笑った。
男の手には髪の残骸が残っており、甲の筋から垂れる赤。
雫の落ちた鮮血は、対峙している側が持っているモノにも付着していた。
冷気を宿す氷柱だった。
「理解しがたい」
「お生憎、貴方にだけは理解されたくないので結構ですから。それに、俺の目的は済んだので」
「目的。はて、そもそも卿が私へ仕掛けて来たのは何故だったか」
「首傾げても思い出せないですって。最初から聞かれてもないし、告げてもないです。以前に、貴方にとっては関係無いでしょう」
本気で疑問に思った仕草をする様に出た笑いは、呆れでも怒りでもない。
対峙している足を下げてから、失笑を漏らした。
「俺の眼が気に入りましたか?」
「美しいと思ったのでね」
「どうやって手に入れるつもりです?」
「そうだな、泣き請う卿から抉り取るのも一興」
「ははっ、貴方らしい」
「卿は私の事を知っているのかね」
「知ってますよ、だから会いに来た」
笑いを止めた足は、堂々としている姿と異なって下がって距離を開けていた。
その距離を歩いて来る男が縮める。
下がるのが止まったのは後が無くなったから。
後ろで吹き上げてくる風が前へと髪をなびかせても後ろは見なかった。
「貴方に会いたかった。会えて良かったですよ」
「恨まれ疎まれあれど、そこまで熱を求められたのは初めてだ。だが、私にはお門違いだろう」
「俺のケジメです」
「ケジメ、自分勝手な欲望のために他者を襲うと」
「貴方の言う“人間”らしいでしょう?」
「いかにも」
フッと笑いで応える男の機嫌は思うよりも悪くない。
この水銀の者は、その純然な様から男が忌み嫌う信念や志といったものを礎に生きる偽善者の匂いがするのだが。
その気配は、どこか男と異なるようで似ている面影を漂わせている。
何故だろう、と考えようとした思考はすぐに溶かしてしまった。
元々、己の欲望以外に興味を動かせない性質だから仕方がない。
男の伸ばす手の先には水銀の宝石が輝いていた。
「どうであれ、私には意味は無い」
「残念、この宝は手に入らない」
「!」
「この先だって、貴方には奪えやしない」
ためらいなく飛んだ後ろに重力に逆らわず落ちていく身。
僅かに目を開いて見下ろしている男が揺れ動いた。
いや、動いたのは轟音とと共に割れ出した崖だった。
落ちていく身と共に複数のガレキが木々を薙ぎ倒して闇に沈む。
土埃の中、何事も無く飛び退いた幹の上で男は呟いた。
「なるほど。では、卿からは何を奪おうか」
男が楽しそうに細めた瞳は闇の底が広がっていた。
崩れ落ちたガレキには地形も耐えきれなかったらしい。
地盤まで沈んで地下の浅い水路へ身を落としながら呻いた。
「いてて…我ながら生きてるなんて奇跡な気がする…」
打ち身が酷い、火傷が熱い、傷から血が止まらない。
でも、報いた。
たった一撃のかすり傷だったけれど。
男の甲に走った傷を思い出して、ハハ…と力なく笑いを漏らして天を仰ぐ。
大の字に寝転んだまま、水に浸かった身が心地良い。
静寂の空間に水面が一度だけ僅かに揺らいだ気配を感じるまま口を開いた。
「松永久秀公は?」
「……」
一言から刹那を数えない内に、寝転んでいる上に影が差す。
見下ろしてくるが、深々と目元まで覆われた兜で口元しか見えない。
その口も言葉を紡いでいないのは明らかだったが、身を起こして声を立てて笑った。
「そっか、まだ見てたんだ。御仁らしい」
「……」
「や、別に。むしろ俺、あの人の事は嫌いじゃないよ」
「……」
「そうだなぁ、酒は付き合いたくないけどお茶ならって程度だよ。一生無いだろうけどね」
あの人の性は理解できるし、共感できる。
とても楽しそうにしていた笑いは、やがて落ち着いて鋭い冷たさを帯びた。
「俺はまだまだ駄目なんだって、よく思い知らされたよ」
「……」
「じいちゃんが?うわぁ…こりゃ予定より早めに帰った方が良いかなぁ」
身を起こして立ち上がると、答えないのに会話が成立している影が頭を垂れる。
膝をついて礼を取る姿勢も構わず、よろけながら折れかけている太刀を杖変わりに足を踏み出した。
再び雲の合間から見えた煌きに感嘆する。
「あ、北極星だ」
「……」
「行くか、風魔」
振り返って笑ってから前を向き直す。
後ろで動いた闇が黒い羽根を余韻に消えた。
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