14 緩やかな翼
引き金は鳴き声であった。
夜もすっかり暮れた岩山に近い荒野で今夜の寝床を定めていた彼らの意識を覚醒させたのは鋭い鳴き声と激しい音。
妖魔の襲撃だ、と武変は飛び起きて天幕を上げようとした時、先に布が上げられて顔を覗かせる者がいた。
「悠長に熟睡できるたァ夏官ってのは危機感がねェのかい」
隻眼の男だ…誰だっただろうかと混乱のあまり少し動転するも、すぐに武変の脳裏に昇山者たちの中で異彩を放つ変わり者を思い出す。
同行する剛氏たちが一様に気にかけていて、春雨や己が率いる従者以外を気にかけていなかった武変でも頭の隅に残るぐらいではあった。
確かー
「隻虎殿か!私の陣に何用…よりもこの騒ぎは妖魔の襲撃ですか!?」
「死にたくなければ来い」
高杉は武変の問いに答えず顎を動かすだけで示し、すぐに天幕を出た。
周囲で何かが鳴く音と一部の人々が騒ぐ声が夜の闇に響き、どうすれば良いか分からずこの男に従うしかないと慌てて動く。
近づいた気配で分かったのだろう、武変の腕を掴み、天幕の外に生えていた潅木(かんぼく)に力強く押し付けられた。
「そのまま音も声もたてるな、ジッとしてろ」と短い声だけが聞こえ、反論する前に高杉の気配が闇に紛れる。
月明かりがない闇夜、視界に辛うじて見えるのは集団が寝付く前に遠くで焚かれていた小さな焚火だ。
確か剛氏たちが集まって、寝床の場所とは離れた各位置で火をおこしていた。
火で妖魔が寄ってくるではないか!と春雨は断じて己の雇う剛氏たちには禁止してしまったが。
その焚き火の意味が今ならよく分かる。
(あの灯りだけが周囲を見る光だ、分かる…窮奇(きゅうき)かっ)
焚火を飛び越えた影は巨大な灰色の虎だった、吼えるも火の側では動きが鈍る。
首を振って視界を安定させるかの動きを見せたが、悲鳴を上げて逃げた人間が見えた瞬間には走り出していた。
あの服装は環州師のものだ、春雨の兵か。
他に人が騒ぐ声や逃げる音は聞こえない。
少し離れた火の側で兵が倒れこんでしまった時、窮奇が飛びかかる。
やられたー
と、武変が身を固くした刹那。
ピィイイイと甲高い音が木霊して、窮奇が首を上げて音の出を探す。
(これはっ笛?)
よく聞けば透き通って響くのが笛に似た音だと眉を顰めた。
次々と闇から聞こえ始めた音に窮奇が右左と首を揺らして探そうとする。
音は2、3回響いて鳴り止むと、窮奇が最後に鳴り止んだ方へ鼻をひくつかせて駆け出した。
残された兵は恐怖で気絶している。
どういうことか、ただあの笛が窮奇の気を逸らして誘い込んだものであることだけは武変にも分かった。
「おい!旦那!」
「おっ!?お主は!どうなっているっ」
「後で話す、今は時間がねぇ!こっちへ、今の内に離れるぞ!!」
ガサリと草むらをわけて姿を見せたのは武変が雇った剛氏であり、慌てた様子でその腕をとって草むらに戻る。
どこを走っているか分からない。
荷物を持たず、身1つで寝床から遠く離れた場所へ移動する間も遠くで窮奇の唸り声と時折大きな音が聞こえた。
空が白み始めて灯りがいらなくなった頃に寝床の場所へと急いで舞い戻る。
夜に妖魔が現れた場合、慌てふためいて逃げ惑えば格好の標的になってしまうため、まずは草木や潅木、岩などに身を寄せてジッとする。
妖魔は夜目がきく分、動かないものとの区別がつきづらく、動かなければ見つからない可能性が高いからだ。
加えて目眩し程度の灯りや臭いを紛らわすものなどで気を散らせれば効果は上がる。
剛氏や朱氏が黄海で妖魔から身を守る術として心得ていることなのだと武変は後から聞かされた。
今回の窮奇の襲撃で春雨の従者が2人、武変の従者が1人食われた。
ただ他に怪我人は擦り傷で済んでいる。
剛氏いわく窮奇3匹に襲われてこれだけで済んでいるのは奇跡に近いらしかった。
身1つで逃げ出したのだから妖魔が血の臭いに惹かれて集まり出す前に水と食料など最低限の荷を背負う。
「ところで、あの笛の音は何だったのだ?それに隻虎殿がー」
「呼んだか?」
武変が剛氏に問い詰めようとすると、いつの間に列に入ったのやら高杉が答えた。
驚いて振り返ると、高杉の側にはすう虞に乗る少年と手綱を握る女性、そして豪快な印象を受ける剛氏がいる。
「おじさん、昨日は無事で良かったね!昨日、襲われかけた人の側にいたから心配したよ?僕の笛、役に立ったでしょ?」
「なに、あの笛は君か?」
「あら、あたしたちもよ。まったく、州候さんとこのは言うこと聞いてくれなくて焦ったわ」
答える少年と女性に、あの笛が彼らの発したものだと知る。
武変の雇う剛氏が、少年が河斉、女性が来子、剛氏が岡似という高杉の連れだと教えてくれた。
「あんたは素直で助かった。あいつらんとこは言うこと聞かなくて結局、犠牲者が余分に出ちまったけどな」
「なんと、君たちが助けてくれたのですか!私の部下も多く救われた、ありがとうございます」
お礼を述べる武変に高杉が目を細めた。
「あんた、長向きじゃねェな」
「んな!?私は夏官長大司馬ですぞ!?」
「ククッ、少なくとも武官向きじゃあるめェ。気安いのは戦にゃ向かないさ」
図星を突かれて思わず荒い声で反論してしまうも、悠々とした態度を崩さずに笑う高杉の口は三日月を描いている。
その目には見透かす光が宿っているようで、武変は否定の言葉も飲み込んでしまった。事実、そうだと思っている。
部下である禁軍将軍や王師にも文官出は珍しくないし、武官出でも崇してくれる者は多い…しかし、向き不向きは己の問題だと感じていた。
押し黙ってしまったことに気がついたのか、河斉が少し考えて「ねぇ!」と武変に声をかける。
「武変さまってさ舜の国官なんだろ?舜って暖かいって本当?年中花が咲き誇ってて良い薬泉が湧き出るんでしょう?」
「よく知っていますね。そうです、暖かく作物や花も育てやすい。湧水も十二国一自負して良いくらい豊かです」
微笑みながら王宮を思い出す。
解王は王宮の庭という庭に鮮やかな名花を植えたから、それは見事な花園だ。
舜の首都州である遥州の王宮がある都、霞心(かしん)は泉の都と称され、水簾宮(すいれんきゅう)は湧水の滝と華々で覆われて美しい。
「僕と来子姉さんはね、雁に住んでるんだけど元は戴の生まれなんだ。今の王さまが嫌でさ、父さんたちと国を出たんだよ」
戴ー舜とは上下対極の位置にある北の国。
確か今の泰王は泰麟の選定を受けて比較的長い治世を敷いているはずだがと疑問に思う。それを察したのか来子が付け足した。
「泰王さまは半獣や海客がお嫌いでしょ?あたしたちの母様は海客だったから」
「海客ですか!?それは驚いた…異界の民でも子を授かれるのですねぇ」
クスクスと笑う来子は楽しそうに「みんな、最初は同じ反応なのよね」と呟く。
来子と河斉の父は戴の文州の下級官吏であり地官に連なる職務の折、戴へやって来た慶の難民に紛れていた海客の女と出会った。
女の世話を焼き、やがてひっそりと戸籍を与えて婚姻を交わした。
異世界の民であっても、国に戸籍があり正式な婚姻の手順を踏んで里木に願えば天は聞き届けてくれる。
願いを織り込んで枝に結びつけた帯に卵果が実った時、それは歓喜したと。
生まれた来子を慈しんで大切に育てた母が語ってくれた遠い昔の記憶。
父母の愛情は本物だった。
河斉が生まれた年、ついに父は仙籍を返上して官吏を止めると戴を出て雁に渡った。
「あたし、半獣なの。だから戴じゃあたしや母様は生きづらいだろうって父様がね。舜では大学や国官になれないくらいだったかしら…まだ生きやすそう」
自身が半獣であると語る来子に躊躇いも自責も無いようで武変は感心する。
武変は違うが、戸籍や仕事を与えることを容認する舜でも半獣への風当たりは強い。
堂々と、そして自信と自由を話す彼女がとてもカッコよくさえ思えた。
(あぁ、これで彼女が河斉殿と同じくらいの歳であれば、さぞ…)
見目勇ましい美少女であったろうにとの残念な心持ちは心中のみに留める。
「あんたら姉弟がそんな変わり者だとは知らなかった、面白いもんだなぁ」
「あなたは岡似殿でしたな、あなたはどちらのお生まれで?」
途端に岡似が苦笑いで口を閉ざす。
「俺はどうでもいいだろ」と豪快に笑い、高杉へ手を振る様子が黙秘したいのだと悟らせたので先は聞かないとする。
すう虞が唸り声を上げたことで会話を止めて、視線を前へ向けた。
少し先をゆったりと歩いていた高杉の前を塞いだのは春雨の一団であったから。
乗騎した春雨は不機嫌を隠さずに高杉を見下ろして構えている。
「お前が隻虎という海客か?昨夜の窮奇襲撃で私の部下が数人犠牲になった。これを見ろ、昨日確かに貴様が持っていたものだろう!」
促された兵の1人が見慣れない小さな皮袋を取り出して見せた。
表情を崩さないまま喉を鳴らせて、すう虞に背を預けた高杉が笑う。
「そりゃあ確かに俺のもんだ。だが昨夜1つ失くしちまって困っていたが、親切な輩が拾ってくれていたらしい」
「とぼけるな!これには血塊石(けっかいせき)が入っていたぞ!血の塊だっ水に溶かせば血になる!貴様が窮奇を呼んだのだろう!?」
ククッと笑った高杉がすう虞に寄りかかったまま空を仰いで歪んだ笑みを崩さない。
キレかかる春雨の前に河斉が耐えかねて反論した。
「違うやい!血塊石は囮用の臭気として使うんだっ剛氏の間じゃ常識だよ!州候さまは剛氏雇ってるのにそんな事も見てなかったの!?あの時だって」
「よせ河斉、もういい。どうせ聞かねェよ、御仁は」
高杉の言葉に遮らて項垂れながらも言葉を紡ぎたかった。
あの時だって、高杉が森が荒れている気配と痕跡に気がつかなかったらもっと沢山死者が出ていたはずだった。
あの夜だって、笛の音の撹乱や遠くで高杉が溶かした血塊石の臭気で窮奇を誘い出さなければ気絶していた兵は食われていた。
なのに、この男は一般論だけを振りかざして深く考えようとしない。
(この目、知ってるぞっ…母さんを見ていた奴らと同じ目!海客めって蔑んでるっ)
優しかった母は戴で病弱になり、雁に移ってすぐに死んだ。父も巧へ商いに出た際に妖魔に襲われて2度と帰れなくなった。
今は2人しかいない姉弟を仲間と引き入れてくれた高杉に感謝しても仕切れない。
だからこそ、そういう目を向けてくる輩がどうしても許せなかった。
勿論、同じ心持ちであろう来子や岡似も河斉のように言葉には出さずとも押し黙った様子から負の感情が見てとれる。
だが高杉だけは本当にくだらない、つまらないというように首を傾けて肩をすくめるだけで語る。
「環州候、あんた今腰の剣に手をかけてるが、そりゃ何のために抜くつもりだ?俺を斬るためか。それとも今後の妖魔は全部斬り捨ててくれるのか」
「こんな所で流血沙汰で妖魔を喜ばせる行為などするものか。ふん、貴様がどうしようと知らぬが我らの昇山を阻むと容赦せぬぞ」
最後には怒りながら一団を前へ向けて進行を再開する。流れるように再び足を速めながら武変は高杉へ声をかけた。
ただ、何となくせねばならないから。
振り返っても何か言われる前に告げねば。
「隻虎殿、先ほどは我が舜の者が大変失礼をしてしまいました、すみません。あやつは有能で州民から人気ありますが、保守的な思考が強くて異国には厳しいのです」
春雨は典型的な自国主義の保守愛者だ。
国同士が交わりを持たない慣例を尊重したために解王の国策もそれに倣ったので、今までの舜はどの国とも国交がない。
おかげで空位の間、乱が起きても春雨のような我の強い州候が冢宰六官を押し退けて国策を進めてしまうことさえあった。
自国、更に自州の領分は己自身だと。
他者の介入も、他者への介入もしない。
抜き身の剣は己自身のためにと豪語した。
自信溢れる堂々とした姿は武変には真似できないのだとまで語れば、高杉はどこか遠くを見つめる様子で真顔になる。
「剣ってのは何のためにあると思う」
「はい?」
武変は首を傾げながら、高杉の得物に視線を落とした。
刀剣にしては見慣れない形をしていると感じてはいた、湾曲した細長い剣が蓬莱の刀だとまでは知識が足りない。
「それは自分を守るため、敵を斬るためでしょう」
模範解答をするように答える。
高杉の表情は変わらなかった。
「自分を守るためじゃねェ、自分の魂を守るためだ。敵を斬るためじゃねェ、弱い自分を斬るためだ」
目を見開いたまま驚く武変に笑った。
武家だ商家だと初対面で派手に名前と喧嘩をした時、自分たちの木刀を抑えた松陽が初めて教えてくれた言葉。
(不思議だなァ、蓬莱にいた最後の時は全部壊れちまえばいいと思ったが。この世界は存外、日の本よりも不自由に見える…たがらこそ自由に生きようと思いやすいのかもな)
天の理が存在するこちらは、あちらよりも平和で自由なようで高杉の目には窮屈で不自由に見える。
国が、民が、王が自分に縛られるからか。
黄朱の民がよほど民らしいとさえ思う。
それは高杉の気概が国や王の意義に縛られないからかもしれないが。
それきり口を閉ざして前を見つめる端正な顔立ちがより際立つ。
(こやつ、いや、この方は…)
武変は初めて美少女以外に見惚れた。
蓬山までもう近い、希望を胸に進む一団に混じる鵬は何を思うか。
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