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13 鵬の物見遊山


困りましたわ、と女仙である香蘭は手を口元にあてて心配で溜息をついた。
蓬山の主である蓬山公は現在、蓬莱より帰還した舜の麒麟1人。
その温和で優しく慈悲深い人柄は仁の獣である生来もあるのだろうが、前の蓬山公との比較もあってとりわけ好ましく思えた。
何の問題も無く穏やかな日々を過ごし、女仙に愛でられながら大切に育てられて2年半以上が経つ。
この世界の暮らしにも大分慣れたなまえは2年半以上の間、計11回に渡り昇山者を出迎えた。
昇山とは、蓬山へ自ら王たらんと昇り麒麟に天意を諮ることをいう。
蓬山があるのは世界の中央にある黄海であるが、この地は十二国どの国の領土でもない。
妖魔が跋扈し樹海や砂漠、荒野がある過酷な人外の土地であり、周囲を天を貫く金剛山が取り巻いて普段は出入りすら許されない。
ただ年に4度、春分、夏至、秋分、冬至の4日の安闔日(あんこうじつ)と呼ばれる日だけ金剛山の合間にある四令門の内の1つが開いて出入りできる。
その日だけが人界と黄海を繋ぐため、昇山者たちは安闔日に門から入り、約二か月近い日々を費やして命懸けで蓬山を目指す。
その季節がもうすぐやってこようとしていた…寒さの厳しい冬至である。

蓬廬宮の数ある宮の中、一際灯りが美しくともる宮がある。
深い泉には小さな玉の灯りが煌めいて見える露台に面した臥室(しんしつ)に
小さな小部屋を模した牀榻(ねま)があり、薄布の幕が下ろされた絹の寝床に眠る獣があった。
まだ伸びきらない白の一角に、黄金がなびく艶やかな鬣を持つ神獣は頭を己の女怪の膝に乗せて眠りについている。
側に控えている寓臼が耳をピクピクさせてその顔に擦り寄り、体を丸めた。
こないだ転変を果たした徇麟、なまえだ。

「よう眠られておられますね」
「やっとお加減も良くなられたのです。今は静かに過ごして頂きとう御座いますわ」

香蘭が声をかければ、女怪である華鏡が少し気鬱な表情で鬣を優しく撫でる。
世話係の香蘭を始めとして、なまえの悩みは秋分を半ば過ぎた頃に起こった。

ー危ない!香蘭っ!!

始まりはほんの後競り合いだった…舜の国民は穏やかなで物静かな気性で有名だが、得てして例外というものある。
秋分の昇山でも王を見出せなかったなまえは残念そうに下山する舜の民を見送った。

ー公、どうか我らに王を恵んで下さい
ー徇麟さま、お健やかにあられて下さい

自ら王たらんと来る者も多かったが、なまえに嘆願するためだけにやって来た者も少なくなかった。
皆々穏やかで優しい民だと思う。
多くの昇山者たちが甫渡宮(ほときゅう)の前を埋め尽くして天幕を張って賑わう様子は、何度訪れても臆病ななまえには慣れなかった。
戸惑いながら女仙の後ろから顔を覗かせる自国の麒麟を昇山者たちは愛でた。
怯えながらも精一杯話しかけて、国の様子や生活を気にかけてくれるだけで満ち足りる気持ちになるものだ。
それだけでも危険を犯して会いに来た甲斐があると国内でも評判になるほどに。

ー何をっ!貴様、武変(ぶへん)様を愚弄するか!あのお方こそ次王に相応しいのだ!
ーあんな変態を徇麟さまに会わせようとする貴様ら官吏の気が知れん!

多くが下山して僅かに残った昇山者たちの中で、その小競り合いは起こった。
最初は軽い言い合いだったらしく、後から駆け付けたなまえに詳細は分からない。
ただ、舜の首都州である遥州(ようしゅう)の州師である兵と国府に仕える官吏の喧嘩であるようだった。
官吏が崇拝するように語る武変なる人物…なまえでも知る舜の有名人だ。
何でも先王であった女王が奸臣の甘い言葉に惑わされ国府が纏まらなくなる中、
よく官吏たちを励まし道を示した夏官長大司馬(だいしば)その人であるらしい。
空位で沈む舜をよく支える仮朝を支えるまでに安定させるにも貢献したとか。

一部の民や国官には熱烈に崇拝を受ける人物だが、今まで昇山してきていない。
ーそこになおれっ!成敗してくれる!
ー文官無勢が!
ーおやめなさいませっ蓬山で争いは許しませんよ!?

ついに胸倉のつかみ合いと拳が振り上げられるまでに発展した喧嘩に香蘭が怒りの声を上げた。
蓬山の主たる麒麟は血を嫌い争いを厭う。
ゆえに蓬山での争い事は御法度、剣を抜くなど論外だ。
気性が荒いことで有名な戴ならば分かるが、真逆で有名な舜の民がこんな諍いを起こすとは予想外であった。
震えるなまえを察して、香蘭が間に割って入るも既に意味を成さないほど場は緊迫していた。
州兵が侮蔑して、「幼愛主義が王を語るな」と呟いたことで官吏の堪忍袋の緒が切れた。
ザッと小剣を引き抜いて飛びかかるろうとする…まだ間には香蘭がいるのに。
蓬山で仕える女仙は仙たる力を持つが、咄嗟に判断して扱える代物ではない。
白刃が香蘭に迫る!と、誰より先に叫んで動いたのがなまえだった。

ー危ない!!

思うより先に軽くなる体は、気がつけば衣を地に落とし宙を飛び上がって香蘭を押し倒した。
ほんの僅かにでも遅れていれば、その刃は香蘭の首元をかすっていただろう。
突然、場に乱入した一角獣が麒麟であるという事態に混乱した刃は矛先を失って香蘭の腕に傷をつけた。
傷は大した深さではなかったが、血が飛び散り血に落ちた刃が争いの気をはらむ。
転変してしまった驚きよりも、慕う女仙が目の前で傷つけられて血を間近に見てしまったなまえは強い衝撃を受けてしまう。
後から駆け付けた他の女仙たちが悲鳴を上げてなまえを心配し、揉め事の人物たちを有無言わさず蓬山から叩き出した。

「血の臭気からようやく回復されましたのに転化が叶わなくなるとは…」

眠るなまえの顔色は随分とよくなったが、新た悩みを作ってしまうきっかけになった香蘭は今でも深く悔いている。
麒麟の本性は獣だが、普段は人の姿をとる。獣が人になるのでなく、人が獣になるのではないー2つの姿を併せ持つのだ。
人型から獣型になるのを転変、獣型から人型になるのを転化という。
蓬莱で長く人として育ったなまえは、この転変がどうしてもできないで悩んでいた。
妖魔を己の使令とする折伏も、異界を繋ぐ蝕の起こし方も何となく理解したのに、転変だけが2年以上経っても不可能で。
それがこないだの騒動に起因して解決したは良かったが、今度は転化ができなくなったと焦る。

「徇麟…」

心配そうに撫でる華鏡の目は優しい。
顔を上げて香蘭を見やる目も責めを含んでおらず、この女怪の優しさは麒麟に匹敵するのではないかと思ってしまう。

「香蘭が無事であることを何より喜んでおられますから。転変もお出来になられました…転化もきっと良いようになられます」

励ましに似た慰めはありがたかったが、香蘭の立場では焦らずにはいられない。
時が解決する…確かに長く見ればそうだ。
ゆっくりと気が落ち着いて、いつかは全てが回復するかもしれない。
だが蓬山にあればこそ許される話であって、直に冬至…次の昇山の季節なのだ。

(転化できなくなった麒麟が王をお選びになられるだろうか)

昇山者たちに面会すら難しいかもしれない、香蘭は悩みの言葉を飲み込んだ。



樹海が続く荒れた小道を歩き続ける集団もよく見れば幾つかの固まりで組織だっているのが分かる。
全体としては80人ばかりの人数だが、その半数は立派な騎獣に乗騎した人物が率いるものであるのが明らかだろう。
将軍階級が大抵は乗騎する吉量の手綱をとるは舜の北東に位置する環州(かんしゅう)の州候で、氏字を夜 春雨(や しゅんう)という。
良くも悪くも評判高い春雨の一段より少し後につづく30人ばかりの一段を率いるのは夏官長である武変だ。
姓は呂(ろ)、名は浬根(りこん)、武変は王から賜った別字であった。
本来、他に呼ばれていた字があったが今やこの字が広がり本人も愛着していることからほぼ本字になっている。

(春雨め、よくも昇山できるものだ)

本心は忌々しさていっぱいだが、能面のような顔と黒々と光る目に感情は出ない。
武変にとって春雨はもはや宿敵のような存在であった。
何故ならば、先王に甘言して惑わし国政を狂わせるよう仕向けた張本人であるから。

ーねえ、貴方とても素敵な表情をしていらっしゃるわ。え?人形みたいだと言われるの、そんな事ない!静かで良いのに夏官でいるなんて想像つかない

コロコロと表情の変わる明るさは本来の歳よりもずっと下に見えた。
齢15と十二国でも最年少で徇麒に選ばれて登極した舜の先代女王。
諡(おくりな)を解王(げおう)という聡明で幸せを権化にした少女であった。
武変と字を与えた解王は、年齢を理由にせずよく冢宰や六官の話を習い、八州候を慕って善政に勤めた。
舜国の春が王宮に舞い降りたかのようだと下官にまで慕われていたのに。

ーおそれながら、主上。民が税に喘いでおります、舜の温和な気候は時に作物も駄目にしてしまいまして…民は王宮の希望と主上を一心に慕いますからどうかご再考を

時折、六官ですら気がつかない間に解王に奏上していた春雨。
民への減税、法案の改正と急な方針変えに戸惑う官吏たちを置いて、純粋無垢だった解王は春雨に褒められれば喜んだ。
思い返せば、解王にとって春雨は憧れにも似た思慕対象だったのかもしれない。
今や真意は知れないが、春雨が先王の無垢な善心を甘く利用したことは確かだ。
徇麒亡き後、解王は時を置かずして蓬山に登り退位を申し出た。
禅譲(ぜんじょう)であるー遺言は無かった…治世40年の短い王朝が終わった。

(先王を惑わせたのに飽き足らず、徇麟にまで手を出そうとは断じてさせませんよ)

悠々な無表情を崩さず、騎獣に乗って堂々としている武変を引率の兵たちが尊敬の眼差しを送る、が。
その実、武変の内心がガクブルで揺らいでいることを知る者はいない。

(しかしっしかしです!徇麟のためについつい昇山してしまいましたが、私に黄海を渡るなんて無理に近いんですよっ!武官じゃないんです、文官なんですっ)

国の軍事、警備、治水土木を職務とする夏官の長が「私、実は文官が本質なんですテヘペロ」とは口が裂けても言えない。
言えないまま何故か武官の優秀者扱いで夏官長に任命され、今に至るまで黙秘し続けた絶対の弱みであった。
それは偏った愛好が招いた悲劇と言っても良かった、武変は幼女が好きである。
特に15〜17歳頃の美少女に目がない、好きと言っても手をつけるとか犯罪のようなものでなく、単に眺めて心の癒しにする趣味があるのだ。

(あぁ、先の主上はとても素晴らしかった…徇麟も美少女であられると聞く、絶対に春雨の毒牙にかけてなるものか!)

決意を固くする武変が昇山を目的としていないことを知るは天帝ぐらいだろう。

「なぁ、あんたはどう思う?」
「いるだろうな、間違いなく」

春雨や武変の一団に雇われた剛氏たちは必然的に集団の列前を行くようになる。
ある剛氏が小さく疑問を口にすれば、経験に富んだ剛氏が笑った。

「鵬翼(ほうよく)に乗ってる。行く道がまるで安全過ぎて欠伸さえ出るほどさ」

昇山は命懸けだ、旅の途中で妖魔妖獣が襲来するし人外の土地は天変地異や毒の動植物が容赦なく牙を剥く。
毎回多くの死傷者を伴うのに、今回の旅は嘘のように災厄が少ない。
現に旅の半分を終えたに関わらず、負傷者はいても死者がいなかった。

「鵬(ほう)がいるのは確実だ、絶対落とすんじゃねぇぞ。落とせば今までのツキが一気に跳ね返ってくる」

王を含んだ昇山は格段に困難が軽減されると剛氏の間で囁かれている。
ゆえに未来の王を鵬、王を含んだ昇山を鵬翼に乗ると称した。
そしてツキである王を失ってしまうと、今までの幸運を回収するかのような凄惨な災厄が襲いかかるらしい。
注意深く集団を振り返った1人が聞いた。

「鵬は誰だと思う。今回は逸材さまがいんだろう?あの春雨とやらは民に賞賛される傑物らしいぞ。武変とやらは夏官長だってな、一部の奴らの崇拝が凄い」

聞く剛氏は春雨に雇われているが、内心は誰が王でも良かった。
黄朱の民である剛氏は国にも王にも興味がない、ただ仕事が無事に終わればいい。
武変に雇われている剛氏が、チラリと視線を更に一団の最後尾を目で示した。

「…俺は隻虎だと思うぞ」

たった一言、出た字に剛氏たちがみな緊張した。
その男を知らない剛氏や朱氏はいないだろうと思うくらい、密かに有名な人物な男が今回の昇山に加わっている。

「御仁は妖獣狩りついでの物見遊山だとか。それに海客だぞ?」

経験に富んだ剛氏が鼻で笑った。

「馬鹿かお前は。隻虎の容姿を見たろ?あんな美形がただの海客なわけあるかい。あいつは胎果さ、胎果なら分かるだろう」

何人かが振り向いた先、少し遅れがちな最後尾の集団が慕う人物は遠目でもよく見えた。
何故ならば最高の騎獣であるすう虞を連れている、更に本人が隻眼に見目麗しい風貌だ…目立たない方がおかしい。

「胎果だってんのは隻虎から聞いたから確かだしな。なら可能性は十分ある、なんたってこちらの生まれなんだから」

生まれるはずだった国は分かるはずかない、だがこの状況なら剛氏であれば予想がつく。
昇山者の中で真の逸材は舜国の者たちではない、あの海客だと。

「岡似が随分と入れ込んでるらしいぞ。今じゃすっかりあの御仁の仲間だ。まぁ、気持ちは分からんでもないが…」

剛氏としてはよろしくない。
黄朱の民は黄海の民、王を戴く国におもねるを良しとしない。
しかし隻虎と字した海客はどこか人を惹きつけてまとめる指導者の魅力がある。
だから表だって非難できないでいるのだ、この旅の鵬と思われるなら尚の事。

「隻虎を断じて落とすな。あいつ以外に鵬はあり得ない」

頷く足を進める一団の最後尾、涼し気な表情で空を仰いだ高杉が笑いながら思う。

(森が騒がしい…こりゃ今夜にでも血が流れるなァ)

内の獣が騒ぐんだ、と喉を鳴らせて呟いた。

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