10 隻眼の虎
「高杉!高杉だろう!随分と久しいなぁ、今回は狩りに行かねェのかい?」
「…岡似(こうじ)か、半年ぶりだな」
雁の西側、黒海に面した果ての街で黒々とした地平線の向こうを見やっていた。
名を呼ばれて振り向けば、30を超えた頃である男に声をかけられる。
誰かと考えずともすぐに記憶から引っ張り出せるのは、様々な人間を相手にする商人生まれの性だ。
字を岡似というこの男は、半年前に黄海へ妖獣を狩りに行った集団で知り合った剛氏(ごうし)である。
剛氏とは、昇山者の護衛を仕事とする黄朱の民のことで、厳密に言えば黄氏になる。
当然、昇山の時期でなければ仕事は得られないため、空いた時期は黄海へ行って騎獣となる妖獣を捕らえてくる朱氏(しゅし)の仕事に早変わり。
開口一番が誘いなあたり、近々また黄海に行くのだろうと高杉は思う。
高杉の後ろに寝そべっていた黒い虎が唸り声を上げて岡似に振り返った。
「うひゃぁあ!あんた、まだ連れてたのかい、てっきり売っ払っちまったと思ったよ…みんな、あんただったらそうするさ」
「売るより脚にした方が都合がいいんでね。あまり迂闊に近づくと腕を咬みちぎられるぜ、ククッ」
畏怖の叫びもすぐに尊敬を混じる声に変わる。恐る恐る眺めても黒虎は威嚇を止めない。高杉の小さな制止で顔を背けた。
勇猛にして果敢、屈強にして最高の騎獣と謂れる、すう虞(すうぐ)。
見た目は巨大な白い虎だが、白地が強いものに対して、高杉が捕らえたのは黒地に白の縞がある珍しい方だった。
捕らえて売り払えば一生遊んで暮らせるだけの値打ちある最高級の妖獣だが、捕らえるのもまた至難の技で有名である。
「さすが、隻虎(せっこ)の旦那。知ってるかい?今じゃあんたは俺ら剛氏の中でも時の御仁だ」
「興味ねェな」
煙管を吹かせながら返す素振りは素っ気ない…が、哀愁漂わせる美しさが際立ち、岡似でさえ感嘆した。
左目に包帯を巻く隻眼(せきがん)の気高い獣…連れ歩いているすう虞になぞらえて剛氏たちがつけた字が隻虎(せっこ)。
高杉自身は名乗らないが、今や名前よりも知られている。
この世界では姓名で呼び合うことは、めったにない。
呼び名である字が馴染むのも道理であるため、敢えて気にしなかった。
「高杉ー!荷を下ろしたよー!あれ、お知り合い?」
「俺は岡似という。お前さん幾つだ?高杉の弟かい?」
「違うよ、僕は河斉。今年で14歳!姉さんはあっちにいる!高杉の仲間なんだい」
得意げに胸を張って答えた河斉は高杉に積荷を下ろし終えたと伝える。
港の小さな舟で、来子が船乗りたちと話し込んでいるようだ。
岡似は不思議な組み合わせだと笑う。
「ありゃ範の舟かい。てことは工芸品でも買い付けてきたんだねェ…さすが粋な旦那は時勢をよく見る」
隣の恭は傾いているらしく治安も安定せず妖魔が出るようになったらしい。
恭の国策は交易が盛んで島である芳への流通の主流を担っていたから、当然近隣国の交易が滞りやすくなる。
荒れる市場で逸品を買い占めてきたのかという問いに対しての答えはなかった。
「才を見て回ったついでに範に寄っただけだ。俺は何もしてないぜ、あいつらが売って買ってくれるんでね」
「相変わらずあんたの周りはいつの間にか人が集まるんだなぁ。とても2年前に流されてきた海客だとは思えねえ」
岡似と高杉が出会ったのは半年前だったが、雁の知り合いから生い立ちについては聞いていた。
生きて流れ着いた海客、それも美しい胎果となれば一部で噂が広まった。
どんな経緯か、処世術を教える庠序 (しょうじょ)で半年と少し学んだ後、各国を旅しながら商売もしている。
かと思えば、朱氏や剛氏に混じって黄海で妖獣を狩ったり妖魔と対峙したりしているらしい…
色々な口伝が混じり、どれが本当なのか分からないくらい目まぐるしく放浪している人物だ。
ただ事実なのは、こちらへやって来てまだ2年だということ。
「良い風が吹く…とどまってるにゃ惜しいだろ?」
「粋だな、俺には真似できねェや」
肩をすくめた岡似に高杉が向き直り、手に戯れてきたすう虞を撫でる。
「直に夏至だが仕事の宛てはついたのか」
「あぁ、何せ蓬山公がおわす限り、俺ら剛氏は当面食いっぱぐれない。そういや高杉、蓬山に興味があるんだったか?」
「まァな、主がいる間しか解放されねーんだろ、蓬廬宮とやらは。女仙のいるっていう神の山を見るのも一興だ」
「昇山じゃなくて物見遊山はあんたくらいだろうなァ、ダハハ!どうだ、あんたさえ良ければ今度の夏至、一緒に行くのは」
昇山は常に死と隣り合わせだ、妖魔の跋扈する人外の土地をゆく道のりは険しい。
しかし岡似の誘いは飲みに誘うように軽く、高杉への信頼が見てとれた。
「ありがたい話だが、来年の冬至まで手が空かねェ。そん時にまだ麒麟が蓬山にいたら、お前さんに頼むとするさ」
「なるほど、巡り合わせだな!分かった、俺ァその時期もこの辺を彷徨いてる。見つけたら声かけてくれ」
頷き、騎獣に乗って揚々と去っていく岡似を見送る。既に戻っていた河斉と積荷を見ていた来子が読んでいる。
高杉の意を感じたすう虞が立ち上がった。
「行くぞ、黒陽(こくよう)」
すう虞が唸って答えた。
「ご覧になられよ、これが貴女の国だ」
目覚めた名前が初めて出会ったこの世界の人間は、怜悧で尖った刃物のような目をしていると思った。
最初に男は至終と名乗り、女官に名前の身支度をさせるとすぐに馬屋へ連れていった。
白い縞に赤い鬣の金目の馬である吉量(きつりょう)へ鞍をつけると、名前を後ろに州城を飛び立ったのだった。
銀時の心配をする言葉も意を介さず、身を整えられて連れていかれた先で見たもの。
「里の跡…?」
冷え切った空気が台地を凍らせ、荒れ果てた廃墟が残る佗しい場所。
何を言われるまでもなく、今は何もない廃墟を見て回り、建物や大地に残る爪痕と濃い血の色を見つけた。
何かの襲撃も受けたのかー。
「先王が斃れて20年。妖魔が跋扈し天災が続き、人が絶えた地だ。ココはその最たる場所と見て下さるといい…貴女が治める道を誤れば国全てがこうなろう」
聞かずとも語られる答えに眉を寄せる。
後ろでは騎獣である吉量の手綱を持ったまま至終は見据えた。
この世界もこの国さえ何も知らないだろう胎果の新王の後ろ姿。
(我が国はよく踏みとどまっている。全体の荒廃はここまで酷くない、しかしそれでは駄目なのだ)
脳裏に焼き付いて離れないものがある。
ー至終、お前には理解できんだろう…わしとて人なのだ…親なのだよ…
苦悶の表情はやつれて老いを深くしたように零された言葉を思い出す。
柳を120年あまり統治し、十二国にも名高い法治国家に築き上げた先王の氏字は助 露峰(じょ ろほう)。
至終が仕えた2人目の王であり、昔馴染みの友人であった。
先々代の王の時代…国官として王宮に仕えていた至終は王が斃れるなり、政治に辟易して故郷である道州へ戻ってきた。
その道州の地方官として穏やかな働きをしていたのが露峰であった。
傑物ではないが素朴で堅実な人柄で、地方だけなら慕われる様に至終は自分にはない強さと魅力を見出す。
2人は親しく交流するようになり、やがて露峰は前の劉麒の選定を受けて玉座についた…至終にとって当然に思われた。
ー私は柳が好きなのだ、この国そのものが私の存在意義だと言ってもいい。だからこそ主上、国の礎が貴方ならば私は身を尽くしてお支えしよう
深く叩頭した至終に露峰は笑った。
静かで優しい人物だった…法においても死刑を嫌い、各国と異なって「大辟(たいへき)を用いず(※死刑停止)」の方針をとった。
だからこそ奔走した、官僚を裁いて制御する枠組みを作り上げ、飴と鞭の原理が実に上手く回るように法令を整備した。
柳の化狸(ばけだぬき)こそ法の番人と知る者は意外に少ない。
王が笑っていても政治は上手く回った。
ー何故です、父上!いえ、主上!私は断固として反対ですっこうすべきなのです!何故お分りにならぬか!!
癇癪を起こし、父である王に詰め寄れる存在が1人だけいた。
露峰の1人息子である淵雅(えんが)は柳の太子、“劉王以上の劉王”と揶揄される独善的で融通の利かない問題児であった。
自身の思う正論ばかりを主張して到底政治には向かない人物であるが、宥める露峰は結局、息子を色々な重役に就かせた。
ー主上!!国のためになりませぬ!太子は遠ざけるべきです!
至終の強い主張も露峰は答えなかった。少しずつ何かが壊れていく。
太子の所作が法の枠組みに穴を空ける度に、露峰は国や政治に無関心になっていく、至終は国府から遠ざけられた。
ー沿岸に妖魔が出るのだぞ!?天災が続いているっ…柳は傾いているのだっ!何故誰も主上を諌めない!何故私に会ってくれないのだっ露峰!!
州候の地位に就かされたのは、事実上の拒絶だと分かっても何もせずにはおれなかった。
友と話したかった…結果は牢だったが。
ー台輔が病に伏されたそうだ
たった1度だけ王に謁見を許された。
王は玉座に座し、ただ疲れきって虚空を見つめていた。
ー至終、わしは王だ…だが人だ。所詮、人なのだ。王の子は国だという…わしにとって国は子ではない。子は淵雅だけなのだよ
ー主上、ならば私にとっての子が国です
静かに首を横に振った露峰は、もう劉王ではなかった。
劉麒が登霞(とうか)、劉王が崩御。
120年の王朝が終わりを告げた。
「この世界での王は国なのです。八卦を律し天災を退け安寧の礎となる…王こそが国を指す。国あってこそ、国土が定められ民が生まれ生活が成り立つ。貴女は国になる覚悟はおありか」
厳しい口調で出た言葉は思いの外、大きな声色になっていた。
名前は廃墟を触ったり、凍った大地の荒れよう眺めたりしている。
至終の手は腰の剣に触れていた。
手が身体が震える理由は分からない、ただ全身が凍るように冷える心地だった。
「私は国にはなりません」
はっきりとした答えが響き、瞳を細めた至終の剣が鞘から抜かれる。
名前は背を向けたまま、ふと笑った。
「私は王になりにきたんです、国じゃなくて王に。至終殿、貴方は王は国だと言われたが私はそうは思わない。民が国だ、そして民の代表者が王なのだと思う」
「!」
クルリと振り返り、名前はそのまま刃先を自分へ向くように変えた。
至終が驚愕で固まると、しっかり見据えて微笑んだ。
「そして貴方だって民であり、国だ。だからこそ聞いてほしかったんでしょう?貴方の話は全部、悲しくてたまらない叫びに聞こえる。柳という国と生きている人たちの叫び…逆に私が聞きたい。私は貴方がたの代弁者に足り得るだろうか?」
刃先に映る名前の瞳は真っ直ぐ逸らされず至終を伺い、至終は苦悶の表情から一転、片手で顔を覆い歪んだ笑みを浮かべた。
剣を名前の前へ置き、跪いて頭を下げる。
「貴女は主上に足り得るようだ。主上、さぁ、王に刃を向けし大罪人に刑を処され下さい…謀反は大罪、死刑に値します」
名前はムッとして剣を拾い、屈んで無理やり至終の鞘に収めてしまった。
「至終殿は勘違いされているようだ。私の国ではあんなものただの訴えです。こちらの大罪の定義を知りませぬ故、刑を処す意味に値しないかと。異国生まれの物知らずで申し訳ないが」
「詭弁だな」
ククッと笑って頭を上げた至終の嫌味に名前はため息をついて眉を釣り上げる、「食えぬよりマシだ」と。
立ち上がり吉量の鞍を示した様には余裕が戻っていた。
「ならば主上におかれましては、天勅を頂く前にみっちりと世界について学んで頂こう。教えがいがありまして私の腕もなる」
「の、臨むところだ…」
名前の引きつり笑いを前に、吉量に跨った至終は勢いをつけて飛翔させた。
優雅な衣を纏った沢山の女性たちが喜びの声を上げて迎える。
取り囲まれてもてはやされる中、完全に縮こまってしまったなまえへ伸ばされた手があった。
「!!」
「徇麟」
真っ白な毛で覆われた手は明らかに人のものではない、しかし恐怖よりも胸を満たしたのは安堵。
「徇麟、ああ、徇麟」
耳元で何度も囁かれる
言葉が自分を指すのだと分かる。
腕を回されたまま身を振り返って向き直れば、頭に羊角を持ち、下半身が獣の蹄、虫の翅を持つ異形の女がいた。
「徇麟」
ハラハラと涙を流し、頬を撫でる手はどこまでも深い愛情と優しさを感じさせる。
気がつけば、なまえも涙を流していた。
遠い昔、何も分からない頃、ずっと探していた温もりだった気がする。
「感動の再会よの、15年経てようやく徇果を手にした喜びは何にも勝ろう」
微かな笑い声を聞いて涙を流すままに視線を向けると、一際美しく気品溢れる女性が佇んでいた。
周囲の女仙たちが一斉に膝をついたことで偉い人物なのだと分かる。
瞬いていると、女性はなまえに近づき髪を撫でて微笑んだ。
「徇麟、ようご無事でお帰りになられた。蓬山はそなたの帰還を心待ちにしておりましたぞ。これなるは華鏡、白 華鏡。そなたのお世話をさしあげる者」
「華鏡?では、あの貴女さまは…」
「女仙の長、天仙玉女碧霞玄君様であらせられます。徇麟、玉葉様にお礼を」
涙を拭って話す華鏡の笑みはどこまでも穏やかで優しく、なまえは素直に礼の言葉を口にすることができた。
ホホホと扇で口元を隠しながら笑う玄君は視線を少し後ろへやった。
再会を喜ぶ女仙たちと徇麟のフワフワな雰囲気から逃げるように、だるそうに頭をかいて欠伸をしていた銀時が瞬いた。
死んだ目を瞬かせて、ポンッと片手で手のひらを叩いて言い放つ。
「バァさん、厚化粧が増したか?」
ピシリと空気が凍りつき、玄君も笑みのまま制止する。頭を下げていた禎衛が怒りで震えていた。
「…劉麒、そなたは成獣しても中身は成長せぬのう。妾は誠に残念でならぬ、下界で慈悲の性は見出せなんだか?」
「俺ァいつだって慈悲で満ち足りてるっつーの。慈悲なんてババアにかけるくらいならご飯にかけるわ…あだだだっあだ!?」
音もなく現れた鉤爪を持つ手が強く銀時の耳をつねり上げたので、悲鳴を上げる。
姿を現した爺湖が静かに玄君に一礼した。
「申し訳御座いません、玉葉様。台輔は重々しつけますので」
「良い良い。爺湖、どうやら劉王も驚いておられる…今はその辺にして進ぜなさい」
玄君の言葉に爺湖は静かに姿を消した。
その光景を呆然て見ていた名前はようやく我に返り、銀時の横に立って慌てて軽く一礼する。
「ご挨拶が遅れてしまい申し訳ありませぬ、姓を苗字、名を名前、字を青蘭(せいらん)と申します。この度、新たに柳の国主となるべく天勅を頂きに参りました」
顔を上げた名前の深い蒼い瞳は見た玄君は微笑み返す。
「新王にお慶びを申し上げる。その凜とした瞳のごとく青き花の名が似合うておられますな。吉日までごゆるりとなされませ、宮へは女仙たちがお世話さしあげる故」
「ありがたく」
玄君が去っていくと、パタパタとなまえが駆け寄ってきて名前の袖を掴んだ。
「名前、青蘭て何ですか?字?」
「字はこちらでいう呼び名みたいなものだよ。こちらでは名前よりも字で呼び合うのが一般的なんだって。私はどちらでもいいけど、名乗りは正式にしないとね」
「そうだったんですね…私にも頂けないかしら…徇麟って舜国の麒麟ていう意味だから」
少し寂しそうにするなまえに銀時が返す。
「おめーは胎果で名前あるからいいじゃねェか。普通の麒麟は号だけだかんね、それが普通だからね。まァ、麒麟の字ってのは王しかつけらんねーもんだ」
「銀さんみたいに?」
「だな。欲しいなら、さっさと王見つけちまって、そいつにつけさせてやれ」
ワシャワシャとなまえの頭を撫でた銀時はチラリと名前を見て何気なく聞く。
「で、名前ちゃんは誰につけてもらったんだその字は…まさか」
「至終だけど?」
ニコリと笑って返されて、銀時だけでなくなまえまで驚いてしまった。
こんなやり取りをしながら女仙たちに案内され、3人は蓬廬宮へと足を進めた。
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