8 踏み入れた常世
十二国の北方に位置する柳は、寒冷の地で有名であるが実のところ雪や雨は少ない。
国土の外側である虚海に面する北東部のみが降水量が多いだけで、乾燥し冷えた空気が土地を覆う。
おかげで地表は冷え込んで乾燥し、北東部以外は農業に適さず牧畜もできない。
寒冷に強い針葉樹がよく育つから材木と有数の鉱山から採れる鉱石、そして玉泉が主要な産業である国。
そして寒さから身を守る故に編み出された優秀な地下建築による石造りの技術が有名であった。
しかしその技術さえも、天災が続き妖魔が跋扈する環境では意味を成さない。
そう、荒廃を広げつつある地が雲海の波に反射して見えた。
「道候(どうこう)様…、道州候(どうしゅうこう)、至終(しじゅう)様!」
パタパタと走ってくる足音に窓から下の雲海を見下ろしていた男が眉を寄せる。
暗い赤はどこか血の色を思わせ、その眼光は猛禽類のごとく鋭く険しい。
荘厳な顔だちのままに中年のこの男こそ柳の一州、道州を治める州候だ。
姓は李(り)、名は網(もう)、字を至終(しじゅう)という厳格な道州候は鋭い目をやるだけで答えない。
ひ、と駆けてきた下官が顔を蒼白にして、その場に叩頭する。
「何事にも騒ぐな、とあれほど言ったはずだが?」
「も、申し訳御座いません…!しかし、恐れながら至終様!大変で御座いますっ門に!金の!」
顔を上げた下官は、不快を露わにして恐ろしい気迫を放っている至終に気圧される。
それでも慌てる口ぶりと動作を平常に戻せないために、至終の機嫌は益々降下を辿った。
「門に金の髪のっ台輔です!台輔と妖魔が人を連れて参られ…!」
「この痴れ者がっっ!!」
低い声が部屋中に響き渡り、下官はポカンと口を開けたまま固まった。
「我が国、柳の台輔は白麒麟であるを忘れたか!金の髪など他国の台輔に決まっておろう。誰と誰、何があったかを明細に伝えよ。よもや連れて来たのは、白もじゃ頭の死んだ目男であるまいなっ」
ちっと舌打ちした音と鋭い目に見降ろされ、下官は既に涙目。
「白髪頭の男が…!妖魔2匹と人妖の女と共にっ黒髪の女と、金の髪の娘を連れてっ…。至終様を呼べと、直接連れてこいと言ったきり妖魔を盾にして動かぬのです…!」
それを聞いた至終は更に眉間に青筋を立てた…あぁ、思っていた通りだ。
やはり、先ほど雲海を飛翔しているのを見た影は見間違いではなかった。
(あの愚獣めっ!!)
踵を返した至終は悪態を並び上げて罵る。
相手が自国の宰輔と知って尚、堂々たる不遜なまでの態度は崩れなかった。
―よォ、お久しぶりィ道州候。俺、覚えてる?ちょっくら頼みたいことがあんだけど。蓬山飛び出してきたけど無一文な上に無証明で、もう困っちゃって困っちゃって。んで、俺の身元証明書さ、偽装してくんね?
15年近く前になるだろうか、深夜の自室…雲海を展望する露台へ舞い降りた子供。
だらしなく小生意気な雰囲気を漂わせる銀髪の子供は、至終にヒラヒラと手を振って嫌な笑みを浮かべた。
当時、同じくらい頭に血が上って青筋を立てたのを覚えている。
その子供が誰か分かっていなければ、すぐさま捕えて折檻してやっていたというに。
もう二度と会うまいと思っていた餓鬼…いや御子、蓬山公が自らを訪ねるなどと想像にしなかった。
至終が初めて劉麒に会ったのは、麒麟旗が揚がった最初で最後の昇山の時であったから。
「蓬山公におかれては何故、昇山者でなく黄海の妖獣と戯れるか」
「うへ!?誰だお前っ!ってか戯れてないからッ!これどう見ても襲われてんだろ!?見下ろしてないで助けろよ!?いーのか、オイ!自国の麒麟死んじゃうよ!?大切な神獣がピンチですよォォ!?」
「王を選ぶ気のない麒麟などいらぬ。使令も助けないならば、さっさと獣の飯になられよ」
「おいィィィ!!!」
見下ろした崖の先、蓬山から近い黄海の地で探し求めていた今の劉麒を見つけた。
昇山者と頑なに面会しようとせず、女仙たちの手すらも煩わせている問題だらけな麒麟らしい。
皆々が口を開いて陰口を囁く中で必ず聞く言葉があった。
“やはり白麒…国に災いしか呼ばぬぞ”だった。
「ただの役に立たない餓鬼ではないか。これが麒麟だと?笑わせる」
唸り声を上げた妖獣に追いかけられて、必死で逃げるクルクル頭の可愛げない餓鬼。
見下ろしながら、心底侮蔑するように失笑する至終に顔立ちは、どう見てもどこかのゴロツキであった。
「お前なァ!一体何の、人が襲われてんの見る趣味でもあんのかよ…凶悪なツラやがって。あ、もしかして山賊?黄海で妖魔と一緒に生きてんだろ、ぜってーそうだろ」
命からがら崖を這い上ってきた劉麒を突き落そうかとさえ思った至終。
侮蔑の表情を崩さず冷酷な瞳のまま見下ろしたので、劉麒の顔が派手に引きつって汗をかいていた。
「ほう?耳も遠くてあられるか、ならば再度申し上げよう。王を選ぶ気がないならば早々に死んで頂きたい」
「さっきから死ねってしか言われてねェェェ!!!」
ぐぉぉおと頭を抱える劉麒を鼻で笑い、会話を終えて踵を返した。
後ろから劉麒の叫ぶ声がしつこかったために顔だけを振り向かせる。
幼い瞳はだるそうに半目になり、耳をほじる品のない態度が癪に障った。
「あんた、俺に死ねって言いに来ただけか。黄海に単独で出てまで麒麟探しにくるたァよっぽど王になりてーんだなとか思ったけど。道州ってのは物好きなんだな、あんたみたいなのが州候なんだから」
「…ほぉ、風変りな州候の噂はお知りのようだ。なら率直に告げても問題なさそうだな。私は柳の安寧と利益だけを切望するのでね。為にならぬ王と宰輔など意味がない。新王をもたらさぬならば年を経るだけ柳が荒廃するのみ、さっさと次の麒麟にお役目を譲られよ」
瞬いた劉麒は驚くわけでも怒るわけでもなく、爆笑した。
眉を潜めた至終は続ける、どんなに王を亡くした国が悲惨な末路を辿っていくかを。
国土は荒廃し、天災が続き、妖魔が跋扈し、人心は乱れて衰退していく。
蓬山で麒麟が無意味に時を過ごしていくほどに、国は弱り、民は死ぬ。
その様が、柳が荒れてることが至終には身を引き裂かれるよりも耐え難かった。
だから、麒麟が凶事の色だろうが、王や官吏がどんな人間であろうがどうでもいい。
柳が荒れぬ最低限の条件が、王が玉座にいることだから王を望むのであって以上はない。
「あんた、柳が大好きでしょうがねーんだな。後はどうでもいいって言いふらしてるもんだろ、ソレ。なら、どんな事でもすんの?」
「無論」
挑発された笑いに、挑発の笑みで返した。
影から見守っていた爺湖は冷静に思ったという。
これが一国の麒麟と州候がする笑みかと…正しく悪役のする笑みだったらしい。
こうして至終は劉麒に旌券を与えた―朱色の線が入った朱旌の証を。
下界で生活する処世術と他国の事情を教え込み、少しの路銀と荷だけを与えて州城から叩き出して告げた。
野たれ死んででも王を見つけてこい、と。
引きつり笑いで「お前って実は妖魔じゃねーの」と返してきた劉麒の見送りさえしなかった。
それからかれこれ15年…州の門に居座る人物はかつての面影を残すも立派な青年に成長していた。
州兵に囲まれながらも悠々とした態度を崩さず、その腕に抱いた人物を抱きしめたまま顔を上げる。
ニカリッと目を細めてニヤニヤした小馬鹿にする笑みで至終へ手を振った。
2匹の妖魔にも臆さずに州兵を押しのけてやってきた至終は見下ろしながら告げる。
「15年もかかった上に、他国の麒麟をかどわかしてくる、私の城を騒がす。麒麟でなければ斬り殺してくれたものを…よもや手ぶらではあるまいな」
分かっている、が、本人の口から告げさせねば怒りが収まらない。
腕に抱かれている黒髪の女から目を離さずにいれば、劉麒―銀時は笑みを崩さずに返した。
「可愛いーだろ、俺の女王様。探しても見つかんねェよ、蓬莱にいるしィ?ついでに流されちまった徇麟も連れ帰った俺って偉くね、ぜってー偉いわ」
「貴様の無能話など聞くに値せぬ。さっさと新王と徇台輔を寄越せ。もう貴様に用は無い故、後はどこへなり好きにしろ」
手を上げて州兵を呼べば、妖魔に怯える州兵たちに喝を入れる。
ただの使令だ、さっさと仕事をしろ、と。劉麒は笑みを引きつり笑いに変えた。
この豪胆で冷徹な州候は何年経っても変わらないらしい。
妖魔たちが影に消え去ると、州兵は徇麟を丁重に運んだ。
立ち上がろうとしてよろついた銀時から新王を取り上げると至終は言い放つ。
「雲海で身を清めるのだな、血に酔う麒麟は使い物にならぬ」
「うっせ!俺だって好きでこんな体質なんじゃねっての!つーか名前に下手なことすんじゃねェぞ!?」
意識を失っている名前を腕に至終は鼻で笑う。
「20年、切望した王だ。我が国の王だぞ、麒麟の貴様なぞより重みをよく知っている」
知っているからこそ、この王が足りえぬ人物であった時は―。
その先に言葉を飲み込んで失笑した。
暗い、どこまでも暗く重い、全てが冷たい。
纏わりつく重い何かに囚われている夢を見ている感覚があった。
意識が様々な記憶を思い出す…走馬灯のように流れていく様に目を細めた。
細めたように意識した、意識したつもりはなかったが。
桜散る田舎の小さな寺子屋、教本を持って笑う師、悪態をついて喧嘩した馴染み。
共に戦った己の義勇軍、散っていった仲間たち、死んだ師…そして。
(俺ァ…まだ、死ぬわけには、いかねェ)
最後に聞いた悲鳴と海に溺れた感覚を思い出して、意識が一気にはっきりする。
なまえ、と叫んだつもりだった。口から洩れたのは荒い息で。
「ッつは…!!ぐっぅ…」
瞳を開けて身体を起こそうとした瞬間走る激痛に漏れた声。
掠れた小さな音と全身のだるさと痛みで思い通りに動けない。
細めた瞳だけを動かして周囲と身体を見やる。
かろうじて動かせる手だけが、腹に乱雑に巻かれた包帯を示した。
見える天井は簡素な造りをしているが、どこか古代の中華建築を思わせる。
清国の事情にも多少通じていた高杉は一瞬、異国に流されたのかと危惧した。
しかしすぐにその考えを除外する、何故なら落ちた海は太平洋側。
どう流されても清国に流れ着く前に溺れ死ぬのが関の山だ。
なら、ここは一体どこなのだ。痛みで霞む意識を叱咤して思考を巡らせた。
答えは開いた扉が教えてくれた、水桶と皿を持ってやってきたのは少年だった。
まだ12、3歳ばかりだろうか…派手な深緑の髪をした少年に目を見開く。
「〜〜?〜〜!〜〜〜」
驚愕で固まっている高杉が目を覚ましたことを知った少年は扉の先に叫ぶ。
そうして高杉に近寄って、その頭に置いていた布を水桶に沈めた。
「〜〜。〜〜〜!〜〜!!」
何か言っているが、言葉が全く分からない。
高杉が学んだどの異国語とも相容れない言葉に驚く。
状況を整理できない上に、更なる追い討ちが扉の向こうから顔を出した。
服を着た大きな黒兎が手に荷物を持って現れたのだ。
「な、何なんだ一体…!?」
あれだけ続いた痛みも吹っ飛ぶ奇天烈な状況に高杉は叫んだ。
「〜〜〜?」
黒兎が高杉の発した言葉に首を傾げ、少年が振り返って驚いた顔をした。
雁の虚海側に位置する小さな漁村でも、たまに蓬莱から流れてくるものが流れ着いた。
それは物であることがほとんどだが、多くは東の慶や東南の巧に流れ着いてしまう。
だからこそ流れ着く珍しい物を見つけることが少年、河斉(こうさい)には嬉しかった。
黒兎の半獣である姉、来子(らいし)と共に海岸線を歩く。
険しい断崖が続く外側の地形にも数少ないが浜がある。
その日も、昨夜は沖合で大きな蝕があったからきっと収穫があると思った。
よもや虫の息の海客を見つけるとは予想もしなかったが。
来子と2人がかりで村まで連れ帰り、村人の手を借りて手当をした。
「何て綺麗な海客だろう、こんな人は見たことない」
雁では王も麒麟も胎果の生まれで且つ十二国でも指折りの豊かな大国だ。
半獣や海客に対する差別が最も少ないゆえに、海客に対しても好意的に迎える。
しかし、こうも女性男性問わず集まって手当をするには珍しい。
それは助けた男の風貌が、村の娘たちを嘆息させる程の美形であるからだろう。
目を覚ました様は正に絵に描いたようだと来子も河斉も考えた。
黒味がかった紫の髪色はサラリと顔にかかり、陶器のような艶やかな肌。
鋭利なまでに研ぎ澄まされた深緑の瞳は、かえって男の精悍さを際立たせた。
しかも見事なのは顔立ちだけではなく、中身も優秀らしいと思う。
目を覚ました当初、見知らぬ常識と通じぬ言葉に戸惑ったようだがすぐに慣れた。
「また女の子たちが会いたがってるよ!」
河斉が呼べば、左目に包帯を巻いてモリを手にしていた高杉が興味なさげに首を横に振る。
傷が回復するまで数週間、理解できるようになった片言と雰囲気だけで意図を読み取る。
この世界が異世界であること、自分を助けた来子と河斉が漁村の姉弟であること。
少なくとも言葉を介さずとも分かる情報をすんなりと受け入れ、片言を学び生活の術を習った。
「興味ねェ。今日の仕事は済んだ、もういいだろ」
通じないとは分かっていても高杉は溜息をつきながら、河斉に話しかける。
身振り手振り、雰囲気で何となく伝わるくらいには信頼を築いた姉弟は高杉に気安い。
「河斉、いる?お客さんが…」
外から帰ってきた来子が顔を覗かせたので、雰囲気と口ぶりから客人かと高杉はげんなりする。
大方、また顔を紅潮させた村娘たちが無理を言ったのだろう。
崖から落ちた際に失った左目に包帯をしているというのに、こちらに来てから変わった風貌は悪目立ちする。
しかし予想に反して響いた声は、高杉にも理解できる言葉だった。
「流れ着いた海客ってのは、あんたか?」
年の頃は河斉と同じくらいだろうか、頭に布を巻いた少年が立っていた。
沖合で大規模な蝕があった。
大きな被害を受けたのは慶と巧だったが、柳と雁にも小規模な被害は及んだ。
官吏がてんやわんやしているのを宮で聞いた六太は驚いた。
それほどの大災害で思いつく事柄が1つある―自分だってかつて引き起こしたことがあるから。
(劉麒が帰ってきたのか?王を連れて!?)
かじっていた桃を飲み込んで、急いで主を探そうと思って既に脱走していたことを思い出す。
そう言えば、尚隆は城下に降りて久しく帰ってきていないのだった。
前から険しい形相でやってくる官吏に気がつき、六太は己の使令の背に飛び乗って脱走を図った。
玄英宮で官吏の深い溜息が響いたことを雁の王と宰輔は知らない。
―あの蝕で流れ着いた海客があるんですよ!それも生きて!
蝕の被害があったという海岸沿いの村に降り立ち、村人たちの噂を耳にする。
口ぐちに話題に上るソレは、探すまでもなく次々と情報として入った。
「見目麗しい男ってのは本当らしいな。びっくりしたぞ、おれ」
話しかければ、当人は驚く風も無く失笑した。
「ようやく言葉が通じる人間に会えたと思えば、こんなガキとはな。だが見た目は関係あるめェ、俺もお前も。てめェ、何モンだ?」
笑う高杉だが警戒の色が際立つ。さり気なく来子と河斉の前に手をやって後ろへ下げる。
この世界では一般の民は言葉は通じない、少なくとも高杉が接してきた村人はそうだった。
意を容易く解せる人間とは即ち、ただ人ではない証。
見た目に油断せず、堂々と応じる姿に瞬いた六太だったが、慌てて両手を振って否定した。
「違う、違うぞ!おれはお前らに酷いこととか絶対しないからな!?蝕…嵐で生き残った人間がいたって聞いたんで会いにきただけだ」
「ほう?俺に?」
「そーだぞ。お前、蓬莱…日本から来たんだろ?その様子じゃ異世界って分かってるみたいだし、色々教えるからさ!あんたも知りたいだろ?この世界のこと、事情、成りたち。だから、あんたのこと教えてくれよ!」
おれは六太てんだ、と笑えば、高杉は警戒を解いて返した。
「ククッ、言い切るには聞くに値する情報なんだろうなァ。俺を退屈させるんじゃねーぞ、六太よォ。俺ァ高杉、高杉 晋助だ」
身振りで来子と河斉に外に出ることを告げる。
そして六太に言葉を伝えろとも言った。
「世話になった、礼を言うとな。連れて行くつもりなんだろう?俺を」
「!何で分かったんだ?」
「さァ、何でだろうな」
喉を鳴らせて笑った高杉に六太は冷や汗をかきながら思った。
この男、見た目に反してかなり食えないヤツだと。
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