- ナノ -




6 動き出す


「先ほどは尼僧殿の手前、何も申さなかったが…貴殿は何者か?私に臣などいない」

え、と驚くなまえを隣にも構わず名前は劉麒に向き直る。
初対面の時は意識も朦朧としていたし、すぐに記憶を失ってしまったから覚えているのは白銀の髪だけ。
改めて対面すれば、彼が明らかに異人であることが分かる。
かつて攘夷派に組みしていた折、高杉も異国に赴いたり、桂が西洋医学を学ぶために異人を招いていた。
だから異人に知人がいないわけではない…むしろ幕軍や民たちよりも異国に精通していると思う程度には。

(それでも、彼が“異人”…外国の者でないと分かる…西洋諸国とも清国とも雰囲気がまるで違う)

眉を寄せてしっかりと己を見据えてくる名前をまるで試すかのように面白そうに笑う劉麒。
ニヤニヤと笑う風貌は年に合わず悪戯っ子を連想させ、しばらく観察していた名前はふぅと小さく息を吐いた。

「―フッ…と聞いても素直に答えてくれる気性にも見えぬ。が、嘘をついているようでもないな」
「プッハッハ!あ〜悪ィ悪ィ…やっぱ大した奴だわ、お前。あァ、嘘はついてねーよ」

神妙な空気に耐えきれなくなったのか、遂に劉麒は派手に噴き出して笑ってしまった。
慌てて軽く謝るも謝罪の意は感じられないとなまえは思ってハラハラしていた。
しかし、なまえの予想に反して、劉麒が皮肉笑いを浮かべたにも関わらず名前も一変…笑ったのだ。

「まるで私を昔から見てきた口ぶりだね、貴方は。名前は何と?」
(とっても優しい口ぶりになった!)

なまえは和らぐ空気に安心しながら会話を拾おうとする。
当初の改まった態度から変わった様子と口調を『柔らかくなった』と感じたが、単に繕うのを止めただけである。

「尼僧のばーさんには、白って呼ばれてる。俺に名なんてねェよ」
「名がない?今まで生きてきて、誰かがつけてくれなかったの?」
「白夜(びゃくや)、氷白(ひょうはく)…呼び名は幾つも貰った。それだけだ」

頭をガシガシとかきながら苦い顔をする様子から、事細かに説明する気は無いらしい。
驚きでキョトンとしている名前に「あー…」と言いにくそうにするとチラリと細い目を向けてきた。

「俺に名をくれられんのって主しかいないんだけどー…」
「それは…」
「別に欲しいとかじゃないから、今までしっくりこなかったとかじゃ断じてないから。おい、なまえ、だから止めてくんない。その妙に納得したような輝く目を向けるの止めてくんない」

あーでもない、こーでもないとどうでも良い言葉を羅列していた劉麒は憮然となる。
横で様子を見守っていたなまえが、ようやく話の意図を拾えたと嬉しそうにするから。
そうじゃない、と断固と否定を紡ぐも照れ隠しにしか見えない。
横で名前は劉麒の様子を観察しながら、しばらく考え込むとポンッと手を叩いた。

「銀時」
「「は?(ふえ?)」」

一緒に振り向くなまえと劉麒に、名前は今度こそはっきりと告げる。

「銀色の時、と書いて、銀、時。…貴方の名前、どうだろうか?私しかつけられないのでしょう?」
「お…おう…銀時…か」
「貴方を初めて見た時、その髪が白銀に輝いて見えた。私の止まっていた時を動かしてくれた銀色…救ってもらったお礼の意味を込めて」
「い、いいんじゃね?蓬莱風なのもシャレてカッコいいしな…」
「…じゃ、白さん…じゃなくて、銀さんになるですか…?」
「(蓬莱?)そうなるね。色々聞きたいこともあるけど…改めてよろしく銀時、それになまえ」

スッと手を差し出す名前に、劉麒―銀時となまえは首を傾げて?を浮かべる。
対して、両手で2人の片手をとって軽く握って振った名前はおかしそうに笑った。

「よろしくの挨拶だよ、握手というの」

握手、と繰り返した2人も何だか途端におかしくなって、和らかな雰囲気につられて笑む。
部屋にしばしば穏やかな笑い声が満ちた。



「麓の村まで荷を届けるのですか?私が?」
「ええ。ここから一番近いです、ご存じでいらっしゃいますね。是非なまえと共にお願いしたいのです。名前さん、ずっとなまえに手習いを教えて下さっておられるでしょう」

尼僧の微笑みに名前は「軽く教えているだけだ」と首を横に振って否定する。
ここ数ヶ月で格段に名前に懐いたなまえは、何をするにも雛のようにヒョコヒョコと後ろをついてきた。
気の向くまま座禅を組んだり、寺の掃除や整理を手伝ったり、収められている書物を読み解いたり。
これまでの喧噪から逃れるように、静かで慎ましい生活に身を投じる名前を眺める。
そんななまえに笑い話しかけ、質問に答え、各地の風習や異国の面白い話を聞かせた。

「名前、あの…私でも、もっと学ぶことって出来ますか?」

きっかけは、なまえがおずおずと差し出した古い書物…名前が大切に持っていた“教本”。
擦り切れてボロボロになってしまっても、手放せなかったモノをどこかで見つけたのか。
差し出してきて、初めてなまえが己の望みを口にした。

「なまえでも、じゃないよ。誰だって学ぶことができる…知ることに隔たりなんて無いんだ」

コクリと頷いたなまえが被る頭の布をそっと下ろしてあげると、一瞬ビクリと反応があった。

「なまえの髪も銀時の髪も、本当は隠すほど珍しいものじゃない。遠い海の果ての国ではコレが普通の色なんだって、知っていた?」
「そうなの?」
「私たちの国はとても小さい…そして、私たちが見て生きている世界も狭いんだ」
「よく、分からない…」

切なそうに首を横に振った名前の言葉を理解しようとするが、なまえは首を傾げてしまう。

「うん…つまりね、なまえが髪色を理由に、自分の望みを我慢する必要も卑下することもない」

教本を受け取り、最初のページをめくって丁寧に読み聞かせる。
懸命に名前の言葉を噛みしめるなまえ…最初は簡単な読み書きが精一杯だったが今では書物を読めるまでになった。

(尼僧様は、なまえにもっと色々な世界を知ってほしいんだろうな)

荷を受け取りながら、庭掃除をしていたなまえを呼び止めれば嬉しそうに駆けてくる。
初めて出会った頃とは段違いに、明るく大きい声で話すようになった変化に目を細める。

「麓の村までお使いを頼まれたから一緒に行こう。勿論、銀も」

顔を上げるとなまえも振り向く、名前が声を掛ければ木に寄りかかっていた銀時がヒラヒラと手を振って返した。



―劉麒、どうなされるのですか
「別にどーもしねェよ」

木々の合間から、村の入り口に集まった農民たちに囲まれて何事か話す姿が見える。
何人かは、頭に布をスッポリと被っているなまえに物珍しげに話しかける。
なまえは名前の後ろに隠れながらも、精一杯受け答えと説明を行っていた。
どうやら荷の中身は寺に納められていた仏具の一部らしい…農民たちからの願いで村に祭られるらしかった。
仏具にも詳しいのだろうか、農民たちの質問にも堂々とした姿で説明をしている名前を盗み見る。

―王と徇麟をお連れしないのですか

己の影からもう1度、爺湖の責めるような厳しい口調が響く。
銀時は頭に被った布の隙間から耳に指を入れてほじくると、フッと口で噴いて答えなかった。

(連れ帰らねーのかって、そりゃ連れ帰るさ…)

だが、今ではない、と。口に出す気もない答えを心の中で反復する。
盗み見る名前の顔色はここ数週間で随分と良くなった、身体が回復したからだろう。
ただその表情が時々だが影を帯びることを知っている、俯きながら物思いにふける姿を盗み見ている。
何かを探そうと悩む横顔を見ると、伸ばそうとする手が止まってしまうのだ。

(傍で見守れって、言われてる感じがすんのは俺の思い上がりか?)

自嘲気味に笑う意を知るのは銀時だけだ、あの強い瞳が語っているのだと全身が感じ入ってしまう。
正直、何度か無理に連れ去ろうかとも試した…だが身体が動かなかったから仕方ない。

「麒麟の本能だ、王命には逆らえねェ」

間を置いて呟いた銀時の答えに、爺湖は小さく失笑して気配を影に完全に溶かした。
再び顔を上げると、農民たちとの話がついたらしい名前となまえが戻ってきた。
人と話せたことが嬉しいらしいなまえの頬は嬉しさで紅潮しており、足取りもどこか楽しげだ。
反して、名前の足取りは素早く表情に先ほどまでの笑みは無かった。
疑問符を浮かべながら、木々の合間から2人を出迎えて首を傾げる。

「よぉ、お疲れさん。けどお使い達成したって顔じゃなさそうだな。あいつらに口説かれでもしたか?」
「な…!銀さんは何でそんな事ばっかり言うですか!」
「いいって、なまえ。ちょっとキナ臭い話を聞いた…悪いが、銀。なまえと一緒に先に戻ってくれないか」
「へェ?」
「え?」

銀時の返しとなまえの驚きが重なる。名前は小さく首を振って押し黙った。
この先を語ろうとしないのは、銀時となまえが“駄目”な話であると知っているからである。
正確には、なまえにとって触れさせてはいけない出来事を尼僧から事前に聞いていたからだが。

「村人から会ってほしい人物がいると聞いてな、少し会って話をしてくるだけだ」
「私たちが一緒だと駄目なの?」
「聞く限り私の旧友のようだ、申し訳ないが内輪話になりそうだから…今回は分かってほしい」

でも、と酷く不安げななまえの頭を撫でて微笑む名前は銀時を見やる。

「長くなるかもしれない、だからなまえと先に帰って。銀」
「そりゃ主としての命令か?」

頑なに2人の動向を許さない名前の態度にちょっと嫌味を含んだ返しで応じる銀時。
すると、名前は口端をつり上げて動じずに返してきた。

「いや、お願い。…ね?銀時」

スッと伸ばされた名前の手は一瞬だけ銀時の頬を撫でるとすぐに離れていく。
たしなめる、甘やかす、或いはお願いの意だったか…降参の意味で吐息して「行くぞ、なまえ」と呟いた。
嘆くなまえの手を引いて歩いていく後ろ姿を見送って、名前は踵を返した。

(ごめん、なまえ…私も一緒にいたいけど…この先、貴女が見るべき世界じゃない。これは私の落とし前でもあるから銀時も連れていけない)

片手をしっかりと腰の刀に添えて歩いていく。
その後ろへと伸びる影から低い獣の唸り声がしたが、名前の耳には聞こえなかった。



「ッ…」

トスッと刀の先が地面へと突き刺さる。
柄を握っていた手も泥と血に塗れて見るも無残な色合いに変色してしまっていた。
刃先にも血か汚れか…見分けがつかない汚れが付着してしまって金属らしい輝きは見えない。
それでも手放さないのは長年使い続けてきた愛刀だからか、と高杉は苦笑した。
荒い息を整えるようにして立ち上がり、眼前を見据えた。
あばら屋に背を預けて耳を澄ますが、忙しない足音はもう聞こえてこなかった。

「ハッ…たかが数人とは、鬼兵隊総督の首も甘く見られたもんだなァ」

掠れた声で呟く下には、既にモノ言わぬ躯となった数人が転がっていた。
刀を地面から引き抜き、横へと払って付着していた液体を飛び散らして鞘へと納める。
痛む片腕を押さえながら、ヨロヨロへと森の中へと足を進めた。

尊王攘夷を唱えながらも、今やすっかりと立派な新政権へと成長した組織を離脱して。
己の師を救おうと奔走した結果が、師に庇われて生き残るという恥に終わった。
散りじりになってしまった2人を思ってしまう…こんなにも考えたことがあっただろうか。
皮肉だな、と再び失笑した。今や懐かしい師の教えと微笑みを共有できるのは幼馴染である2人しかいない。
名前は口を開けば張り合うばかり、桂は目を合わせれば小言ばかりだったが。
今日まで共に戦ってきて、離れたことなど無かったのだから。

「切っても死ぬヤツらだとは思えねェが…名前のヤローは心配だな」

本人がいれば口が裂けても言えない台詞を吐いてしまい、思わず自己嫌悪に駆られた。
そんならしくない事を考えてしまうのは、最後に見た後ろ姿と叫びが耳に残ったからだ。

“もうッこんな世界に何の意味があるッッ!!”

絶望と号泣を混ぜ合わせた言葉に初めて考えが合ったと思った。
そうだ、変えようと奮闘して守ったこの世界は結局、自分たちに何をしただろうか。
自分たちを形作った一番大切な師を奪い取ったのだ…目の前で。

「見つけたぞ!!ここだ!」
「何!確かに!おいッここだー!!」

そうだ、もう守るモノも必要とするモノもない世界で何の意味がある。

「貴様、鬼兵隊総督、高杉 晋助だな!その首貰い受ける!」
「幕府の敵め!!」

叫びと遠くから追いついてきた足音。振り向いて対峙し、歪んだ笑みが増す。

「ひッ…!な、何だその目は…!」
「こいつ…まるで、獣…ッッ」

なら、全部。

「ぶっ壊れちまえばいい…お前もそう思ってんだろ?名前よォ」

振り上げた刀が、竦んで怯える親幕派の追手を次々と斬り倒す。
獣と称された暗い闇を宿した瞳が、険しい表情で立ちすくむ姿を映した。

「高杉」

名前が言葉を紡ぐと同時に追手が驚いて振り向き、叫びを上げる。

「なッ!貴様は苗字の!!この辺に潜むという噂は誠だったか!」
「武士の恥さらしめ!高杉の助けにきたか…成敗してくれる!!」

口ぐちに憎悪の言葉を投げつけられるも、名前は眉を動かすだけで答えない。
追手が斬りかかってくると同時に、抜刀して振り上げた刀を一瞬止める。
脳裏に浮かんだ姿に、刀を横へ逸らして流れるように追手の首後ろへ叩き込んだ。
柄と刃の無い部分で急所を当てると、次々と追手が地に沈み込んでいく。
最後の1人を斬り伏せた高杉が向き直ることで、立っているのは名前と高杉だけだった。

「峰打ちなんてしてどうする、拷問にでもかけんのか?」

高杉の問いかけは答えを求めていない、いや、既に名前の態度で答えを知ったからである。
刀を鞘に納めて近寄ってくる名前の首元を引き寄せて顔を近づけた。

「ッ!」

鼻先が触れる程に近づく互いの距離に、勿論甘さなど存在しない。
殺気と憤りに笑む高杉と決意と静寂で無表情の名前で睨み合いが続く。

「その腑抜けた目は何だ…あの夜のてめェはどこへ消えた!」
「お前こそ!そんな歪んだ目で何するつもりだッ追ってくるモノ全部切り捨てるつもりか!!」

捕まれた胸倉に対して、名前も高杉の胸倉を掴んで額をぶつける。
怯まない瞳をこんな近くで見たことがあっただろうか、すっかり歪みきって暗い色しか浮かばない。

「あァ!全部ぶっ壊す!てめェも同じだろうォ!違ェとは言わせねェ…この世界は先生を奪った!」

松陽先生を、と続ける高杉に名前は怯んでしまう。

「今さら正義と道理を振りかざして何になる!?何が残るってんだ!何も無ねェ、それで何が守れた!?」

掴んでいる胸倉の手に更に力が入る、紡がれる叫びは止まらない。
射抜く高杉の目は強張る名前だけを映す、一挙一動を見逃さない鏡のように。

「先生を奪った世界を!何故守る必要がある!!」
「甘えるな!!!」

つんざくような名前の叫びに今度は高杉が目を見開く番だった。
一瞬緩んだ手と力が形勢を逆転して、名前の掴み上げる力が強まる。

「違うだろ!世界じゃない!先生を奪ったのは私たち自身だ!私たちが無力だったからだッ!!」
「ッ」
「私たちの甘えが、先生を殺したんだ!!」

ドンッと高杉へ更に顔を近づけて、溢れ出す気持ちが頬を伝った。
同じく追手に追われて絶望して、救われて回復して…ずっと思い詰めていた気持ちが爆発する。
後ろへと高杉を押せば、名前の涙に動揺して後ろへよろめく高杉が見える。

「思い通りにならない世界のせいにして良いわけない…気に入らない人間を全部斬り殺して良い理由にならない!」
「名前、てめェ…」
「それは全部、自分の弱さだ!だから、高杉。もしその目のまま生きていくなら、私がお前を止める」
「上等だ…!やってみろ!!てめェに俺の猛り狂う牙が鎮められるってんならなァ!!」

逆上した高杉が抜刀の勢いのまま、刀を振り上げて斬りつけてくる。
それを鞘に納まったままの刀で受け止めて、何度も攻防を繰り返した。
後ろに押されながら容赦なく振り下ろされる刃を見つめながら、名前は思う。
殺気よりも伝わるのは心の叫びだと。認めきれない痛みと辛さが溢れ出して止められない。
やり場のない嘆きは破壊に向かい、止められるだけのモノが無いのだ。

(分かる…あの夜、私だって同じだった…全て壊れればいいと思った)

現に、こんな風に追手を斬り伏せて逃げ延びて、死にかけていたのだから。
でも、今は違う。世界に色が満ちた…銀色の光と金色の光。

「こんな世界でも、こんな世界だからこそ!私たちを必要としてくれる!!」

どんなに刃を振り上げられようと、鞘から刀は抜かない。
これはケジメだ、見据えて叫べば高杉が唇を噛みしめた。
振り上げられた足が名前の持つ刀を弾き飛ばし、大きく頭上に構えられた刃を見上げた。

(たとえ、斬られることになったとしても私は高杉を斬らない!)

最初から決めていた覚悟のまま瞳を閉じたため、高杉が振り上げたまま止まっていると気がつかない。
目を見開いたまま固まっている腕は何かに止められているかのように動かない。
振り下ろせないのだと、高杉は木々の合間から射す影に自分を重ねる。

(今、こいつを斬れば俺はこいつに負けたままじゃねェか)

木漏れ日から漏れた光が名前を照らすのに、刃先が鋭利な輝きを放った。
酷く戸惑って躊躇する高杉の体勢に終止符を打ったのは、名前も高杉も予想しなかった存在。

グルルッッ!!
「「!?」」

獣の唸り声が響き、名前の影から浮かび上がるように飛び出した大きな異形が高杉に飛びかかった。
赤黒い巨体が高杉を刀ごと後ろへ押し返して、更に吠え声を上げた。
風体は大きな犬だろうか、鋭い牙が並ぶ開けられた口は鳥のクチバシ、背に巨大な翼を持つ化物。
咄嗟に刀で、振り上げられた前足を防御するも完全に化物に押し倒されていた。

「ぐっ…!」
グォォォ!!
「やめろ!!!」

犬の化物がクチバシを開いて高杉の喉笛に噛みつこうとした時、止めたのは名前の一声。
とまる、と確信したわけではないのに身体を動かすより先に叫んでいた。
名前が理解するよりも早く、化物はピタリと動きをそのまま止める。
冷や汗を流して固まったままの高杉も、ゆっくりと立ち上がって驚いたままの名前も。
どちらも状況を飲み込んでいない…だが、名前は化物を見据えて言い放つ。

「やめろ…お前が何かは知らないが、私の言葉が分かるなら牙を収めろ」

獣はクチバシを鳴らせて酷く不満気な様子を見せる。

「こやつは貴女に刃を振り上げました」

低い男のような声が化物から発せられる。しゃべれるのか、と2人は驚愕した。

「少なくとも最後の一撃は危なかった、ゆえに見守れとの命に背きました」

金色の双方が高杉を見下ろす、声は再び唸り声になり軽く吠えた。
命とは何だろう、少なくとも誰かがこの異形に名前を守れと命じたのだろう。
理解できる最大の情報を拾いながら、名前は重い溜息をついて答える。

「なら尚更、お前のようなモノが出る幕じゃない。これは私の問題だ、下がれ」
「しかし」
「下がれ!!」

食い下がる化物の声に怒号の一声を浴びせれば、化物は口を紡ぎピクリと耳を動かした。
静かに巨体を高杉の上から動いて、四肢を自由にした。
化物に全身で警戒を発しながらも立ち上がった高杉は動揺を隠すために笑う。

「こんな化物を飼うようになってたとはな…てめェが神仏に頼るとも思えねェが」
「私も神なんて信じてないよ、こんな獣知らないし。何がどうなってるのか」

化物から殺気が消えたことで、驚愕もすんなり通り越して余裕になってしまう。
肩を竦めて返した名前に高杉は何か吹っ切れたように重い息を吐いた。
その瞳に暗い光は消えていないが、少なくとも先ほどまでの絶望と殺気は感じられない。
2人の様子を伺うように頭を垂れていた犬の化物が喉を鳴らして振り返る。

「劉麒」
「え?」 
「ァ?」

紡がれた単語に名前と高杉は同時に?を浮かべる。
打って変わって焦りを含んだ化物は振り返って名前に再び頭を垂れた。

「主上、劉麒の気配に血の穢れが…このままでは危険です」
「ちょっと…リュウキって何…血のけが…」

血、けがれ。ハッと瞬く。化物が発する単語は分からない、だがその単語で浮かぶ記憶がある。

“あの子は血と争いを嫌います。穢れだと、体調を崩して倒れることもあるのです”

尼僧に受けた注意の言葉に、浮かんだのは…はにかむなまえの姿。

「まさか!なまえと銀時に何か!?」
「…名前、おい…何がどうなって」

高杉の言葉も耳に入らず、名前は化物へと詰め寄った。
化物はさっきと打って変わり、覇気を亡くした弱弱しい様子で頭を振るとズブズブと地に沈んでいく。

「お助け下さるならばご案内しましょう、今のこの身…それが精一杯です」
「案内しろ!!高杉も一緒に来て!」

頷いた化物がちょうど地に溶け込むと同時に気配が名前にも感じられるようになる。
説明を求めようとした高杉と目を合わせることで黙らせた。
長年の付き合いで時たま3人だけでこういう仕草をするようになった。
名前と高杉と桂…何か言葉にできない意を伝え合う時、そうやって視線で会話する。
切羽詰まった様子を感じ取り、高杉も刀を鞘へと収めて痛む身体を動かした。
2つの影が森の先へと消えていく。

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