3 時流れて
雁から慶に向かう国境の境を旅する一座がある。
各国を旅して芸で身を立てる朱旌(しゅせい)の者たちだ。
仮のものであることを指す朱線が入っている旅券を持つことから、「朱旌」と呼ばれるようになったが、広くは黄朱の民を指す。
黄朱の民は黄海の民とも揶揄されるように国に籍を持たない流浪の民。
彼らは王の庇護を受けず、また彼らも王の庇護を必要としない。
天の理に属さない妖魔にように、己のことは全て己でこなして身を立てていく生き様を侮蔑する国民も多い。
しかし、朱旌の一座は、各国の珍しい伝承や事象を劇や歌で伝え広めることから各国の貴重な情報源であり娯楽であった。
そんな一座の荷馬車から顔を出した子供が、いびきをかいて寝ている青年を叩いて起こす。
「白夜(びゃくや)!ねぇ白夜!!見えてきたよっあそこが慶との境だよねぇ!」
「ってて…おい、玉葉(ぎょくよう)。起こすんならもっと可愛く起こせねェのか」
「白夜に優しさなんていらないでしょ」
「おい!!!」
頭を摩る白夜の癖の酷い銀髪を引っ張って促せば、ようやく覚醒したらしく目を摩りながら顔を覗かせた。
玉葉の隣から見上げた先に見えるのは大きな関所だった。
関所と言っても門や造りこそ立派だが、周囲に立っている兵隊たちの疲れ切った顔や寂びれた空気から酷く気鬱な雰囲気が伝わる。
眉を寄せつつも白夜は頭をガシガシとかき、また1つ欠伸を噛み殺した。
すぐ後ろの荷台から男が1人飛び下りて、荷馬車へと駆けてくるとゆっくりと歩調を合わせた。
「おう、ようやく起きたか白夜。ったくお前さんは寝てばかりだなぁ。慶ではしっかり働いてくれよ」
「父ちゃんの言う通りだよ!」
「へーへー。ってか慶に行って大丈夫なのか?あそこ荒れてんだろ」
「まだ女王が御立ちになられて間もないからなぁ、今度は良い王であられるといいねぇ」
豪快に笑う男は玉葉の父だが、心から慶の行く末を心配しているわけではない。
朱旌も黄朱の民の一…流浪することを誇りとするから国を憂うことはない。
真実、国の実情に関心を寄せるのは大切な「食い扶持」だからだ。
「慶は女王だって聞いたよ、先代の女王が国を荒らしたから慶は女王を疎い始めたとか」
「達王が斃れられて以来、王朝が長続きしないから。国も荒れ放題だねぇ」
「妖魔に災害に、民が喘いでいるらしいよ」
「すれ違った難民を見ただろう?雁に逃げていく民さ、国に固執するのは可哀そうだ」
口ぐちに紡がれる話にやる気のない目を向けながら耳をほじくる。
ふと影が揺らぎ、瞳を閉じた際に「行け」と一言命じて目を開けた。
「どうしたの?白夜。また眠いの?」
「んや、何でもねーよ。こっからは慶だろ?妖魔だって出んだろうな、気ィつけろよ。おっさん」
「誰がおっさんだ!誰が!全くお前は拾ってもらった癖に相変わらず不遜なヤツだな!」
がつん!と玉葉の父に頭を殴られ、朱旌の間でどっと笑いが起きる。
やがて荷馬車が進むにつれて、関所の前が騒然となっている事に気がついた。
「何だ?…あれは妖魔の死骸?」
男の呟きに朱旌たちも流石にどよめく。怯える玉葉が縋り付いてきたのを感じた。
関所の前で兵士たちが取り囲み、何やら話し込んでいるのは大きな妖魔の死骸だった。
鮮やかに噛み裂かれた喉笛から血の海が広がり、妖魔は絶命していた。
「この妖魔が茂みから飛び出したと思ったら既に血を噴いて倒れたんだ!」
「どうなっているんだ…?まだ災厄は鎮まっていないのか!?」
口ぐちに広がる喧噪に目を閉じて、玉葉の手を離してやる。
?マークを浮かべる玉葉を置いて荷馬車から下りつつ、手をヒラヒラと振って「じゃあな」とだけ短く告げて歩き出す。
妖魔の死骸に集中する視線と人だかりで、白夜が去る姿を気に留める者はいなかった。
「燈豊、ご苦労さん」
―爺湖の命に従ったまで、劉麒のためでは御座いません
「てめェ…」
怒りマークを浮かべながら、白夜―劉麒は己の影に戻ってきた使令に口元を引きつらせた。
妖魔を葬り去ったすぐ後に血糊を速やかに洗い流してきたらしい、死臭はそんなにしなかった。
これくらいなら大丈夫だろと気楽に考え、ふらりとするのも構わず宛てもなく歩き続ける。
―劉麒、朱旌に混じる戯れも飽きられたか
「嫌な言い方すんじゃねェよ。朱旌だって立派な民だろ、まァ俺んとこの民じゃねーけど」
爺湖の嫌味に軽く笑って返すと、水溜りに映った己の姿を見やる。
随分と背も伸びた、体つきもがっしりと成長した―蓬山を飛び出した頃とは比べ物にならないくらい。
外見は十代後半といった所か、それでもまだ角が伸び続けているので成獣ではない。
この春分でちょうど10年が過ぎる―その間、目的もなくフラフラと各国を彷徨った。
大王朝の域に入る雁と奏、工芸の技術で国を興したという範…はてや内乱状態が続く巧や慶。
そして生国である柳を巡ったりした…沢山の立場の人々の生き方に紛れて成長してきた。
のらりくらりと流される生き方と雰囲気は周囲の者の警戒も解くらしい…ものぐさな風体も役に立つものである。
影の中で嘆息する爺湖も使令も劉麒の行動を咎めようとはしない。
蓬山から捜索があると思いきや、迎えどころか音沙汰さえ無いのだから事実上放置されている。
「豊かな国、貧しい国…官吏やら農民やら豪族やら色んな生き方があって面白いもんだな」
懐から取り出した甘味を頬張りながら、巡ってきた地を思い返す。
少なくとも、昇山者たちを待つだけの生活よりは遥かに気楽に思えた。
それでも意識せずとも心のどこかに引っかかるモヤは晴れない…それはもう性だと諦めてはいるが。
「俺の王さまはどこにいんですかねェ」
―貴方にしか知りえないことです
きっぱりと爺湖の答えが呟きを一刀両断した。
「アハハ!わしが坂本 辰馬ぜよ!以後よしなにじゃき!アハハハッ!」
高笑いしながら船を着けてきた男は名乗った。
土佐の桂浜からやってきた援軍の船に仁王立ちで笑うまさかの存在に名前、高杉、桂は半目になっていた。
「なぁ、高杉、桂…あそこで馬鹿笑いしてる馬鹿っぽい人がかの有名な坂本の?」
「のようだな…桂浜の龍って言われてるらしいが」
「桂浜じゃない、桂だ」
「誰もてめェの話はしてねェ」
「え、そりゃこの地の有名人なんだろうけど…えェ〜…」
「この地じゃない、桂d 「「誰もてめェの話はしてねェ(ない)」」
事あるごとに言葉を挟んでくる桂を封じると、名前と高杉は互いに眉を寄せていた。
時はまさに時代のうねりが轟く動乱の時―尊王攘夷は激化し、討幕の機運が最高潮となった。
幕府は追い詰められるも様々な政策を講じ、攘夷運動を封じ込めようとした。
その大きな事変の1つが世に言う「安政の大獄」である。
多くの尊王攘夷派が捕えられ弾圧され、処断された―中に、師である松陽も含まれて。
松陽自身が攘夷を唱えていたわけではない、それは門徒であった3人が一番よく知っている。
国のあり方を、民の進むべき道を、人としての生き方を、ただ分け隔てなく教えていただけ。
「先生」
小さく呟いて、誰にも聞こえぬよう唇を噛みしめた。
横で高杉が目を細めるも何も言わない。
きっかけは些細な事だった、攘夷論者が松陽と意見を交わしただけ―たったそれだけ。
時勢が時勢だったと言えば慰めになるか、なるわけがない。
村塾は焼き払われ、怒りで吼える名前と高杉を目の前に師は連れて行かれた。
それからだ、名前が高杉と派手な小競り合いをしなくなったのは。
そのあとだ、名前が元服と共に武家を…高杉が両親を戦で失い商家を捨てたのは。
今は師を救わんがため…ただその為だけに、攘夷志士の衣を纏って戦場にいる。
援軍として土佐からやってきた坂本率いる一軍はすっかり攘夷軍と意気投合した。
元々「頭が空」な風である坂本の楽天的な気質は敵をつくらず人脈を広めやすい。
商売人の才能とでも言おうか、同じく商人として気さくな面も持ち合わせる高杉とも打ち解けた。
ただ名前だけが生真面目にどう接してよいか考えあぐねるばかり。
戦を控えた宴会の夜でも、困った事情を抱えているしかない。
何故ならば、場所が島原だからだ―江戸の吉原と並ぶ遊女の街。
「アッハッハ!とびきりの花魁がいるぜよ!名前は遊ばんねか!?」
「いや、私はいい…」
「そう固くなる必要ないきに!あ、ひょっとしてお前さんっどうt
「すまぬ、手が滑った」
名前の肩を引き寄せていた坂本の顔面に桂がぶん投げたツボがヒットする。
鼻血と流血でぶっ倒れた坂本の首元を引っ掴んで歩き出したのは高杉だった。
どこで入手したのか最近はキセルをふかす事が多い…フゥと煙をはきながら喉を慣らせて笑う。
「ククッ…てめェじゃ遊べねェもんなココは。名前よ」
「うるさい!さっさと女でも抱きに行けばいいだろ!」
どこへなりとも行っちまえ!!と名前の叫びが響き、高杉は坂本を引きづって花街へと消えて行った。
残された桂は何か言いたいような微妙な表情をしているが、言葉を飲み込んでしまう。
「桂も行って大丈夫だ、宿番くらい私にもできる」
「いや、俺は人妻の方が好みだからな。軽い女は好かんのだ。…違う違う、俺の事はいい、名前。お主は」
「私は!苗字家の嫡男だ!!たとえもう苗字の者でなくてもなっ…」
片手で家紋が象られた愛刀を握り、片手で胸元を握り締めた。
苦悶の表情のまま踵を返す後姿を見送るしかない桂は深く溜息をつく。
「いまだ俺たちにも解けぬしがらみ…誰か解いてやれぬものか」
ギュッと、年々きつくなっていくサラシの締め付けに嘆くしかできなかった。
夜の闇の向こうに仄かな灯りが見える。
チラチラと輝く蛍のような光は夜雲の合間で霞んで見える様に声を小さく上げた。
頭をすっぽり覆う布は深々と顔上まで隠しており、かろうじて見える口元だけが表情を伝える。
夜の丘にある小さな宿場で、川の向こうに見える夜景に手を伸ばそうとした。
「これ、なまえ。何をしているのですか」
「!…へわっ…!に、尼僧(にそう)さま!いいえ、何もしておりませ…」
「嘘はいけませんよ」
慌てるなまえを静かに諌める尼僧の声は反して穏やかで優しい。
光を失っている両目で見えずとも、なまえの気配でどう動いているかは分かるのだ。
むしろ光を失ってこそ感じられる世界もある…なまえはそんな尼僧を敬愛していた。
「…ごめんなさい…尼僧さま…」
「分かればよろしいのです、ね?…あの先は島原です。何か感じたのですか?」
首を傾げて微笑む尼僧にフルフルと首を横に振ったが、少し間を置いてなまえは小さく頷いた。
布をそっと顔上まで引き上げて見せた顔は不安に満ちていた。
「…は、はい…またあの感じがするんです…」
「怖い感じですか?」
「…はうぅ…」
両手で頭を押さえてコクコクっと頷いて、思わず涙目になる。
物心つく頃に尼僧に引き取られ、本寺でひっそりと暮らしながらも時折、尼僧のお供として各地を巡る事があった。
普段は山奥の更に奥地にある本寺で静かな生活を送るなまえが下界と触れ合う数少ない機だ。
下界は怖いと思うなまえでも、実の所人に対しては非常に興味が強かった。
しかし、人慣れしない気質と生来の臆病な性格が、気安く人との交流を許さない。
加えて、なまえの異質な髪を決して人に見せてはならないという教えだから、尼僧以外との交流を持てなかった。
「とても怖い感じが…不安でいっぱいになるんです…」
そんななまえが、いつからか漠然としていた何かが時を経るごとに強く感じるようになった事がある。
“怖い気配”だ。最初は遥か西の方角からだった。やがて各地を巡る度に方角が変わったりするが。
気配は常になまえの心中を支配するかのように胸の内をざわつかせる…上手く表現できないために余計怖かった。
「今日はひたすら強いのですね…争いが近いのでしょうか」
「っっ!…また、いっ戦…ですかっ…私は、ヤです…」
「ええ、戦は厭うものですが。時代は攘夷派に傾いているようですから、まだ大きな戦があるでしょう。人の世とは常に無常なもの…それを厭うお前は本当に清らかな乙女ですね」
サラリと頬を撫でられて不安が少し和らいだ。
なまえは異質な髪に併せて、血を嫌い争いを厭う奇妙な気質がある。
時に血を見るだけで倒れて体調を崩してしまう性質を、神の授けた恩恵と尼僧らは褒め称え慈しんだ。
「かの地には攘夷軍がちょうど拠点にしているようです。近々大きな争いになる…我らも早々に去りましょう」
「…はい…」
ああ、そうしよう。
一刻も早く静寂で安らげる本寺へ帰ろう。
と、安心でいっぱいになるはずの即答は、反射的に詰まった呟きのような返事になってしまった。
尼僧は特に気に留めなかったが、なまえは胸元に両手をあてて切ない表情を浮かべる。
(なんで…私、こんなに悲しいんだろう?)
川の向こう、島原の町並みの光が揺らめいて見えた。
[ 36/69 ][*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]