2 それぞれの
「こっち来ちょれ、外さ出たらいかん」
訛りの強い男の声が上がり、幼い少女を荒屋へと手を引いて押し込む。
引っ張られた手は痩せていて力が無いが、決して弱っているわけではない。
男も、その後ろから顔を向けた女も同じように痩せて疲れきっている。
ボロボロな身なりに僅かな農作物を抱えて、伏せられていた顔は少女を見やって髪を撫でた。金茶の髪に僅かに爪がたつ。
「なまえ、おまさ誰に似ただか」
ウチが産んだに、と女は呟く。
ビクリと反応して両手で髪をおさえて縮こまってしまった少女ーなまえに女が溜息を落とした。
女にはあと3人子がいる、なまえの兄が1人、妹と弟が1人。
この子だけだ、こんな明るくて異質な髪色を持つ子供は。
他の子たちはくすんだ黒髪なのに、なまえだけは育つにつれて金味が増していく。
「姉ちゃ、またお父に怒られただか」
「しっ、おまはあっち行っちょき!」
指を口に咥えながら幼い弟が声を上げるが、なまえは俯いたまま首を振るだけで声を発しなかった。
否、物心つく頃から話すことなどほとんどない。
村人は異人のような髪を持つなまえを異人の子だと非難する、その親子も。
こんな山奥深い貧しい農村に異人が立ち入った事があるわけもなく、その他の血を分けた兄弟たちはみんな普通なのだから両親は異人の血を否定して考えあぐねるしかない。
ただ、目立ってしまう異質な子供を平気で外に出すわけにもいかない。
とりあけ農作に勤しむ男は、異様な娘に厳しくあたり、人目を避けさせ家へ閉じ込めた。
おかげでなまえは5つになっても家族以外と接したことがほとんどない。
「…お母」
「ん、あんた。戻ったい」
「おう、偉い坊様がいらしきに。こいつの話んば、神ん子じゃないきて話とりな」
「神ん子?こん子がか?」
古びた戸を開けて戻ってきた男がクワを立てかけて女となまえの側へ来る。
ビクリと怯えて女の後ろに隠れた様子にも構わず、男は後から続いてきた人物を振り返った。
荒屋に入る前にもキチンと一礼をして、頭から傘をとったのは壮年の僧侶であった。
僧侶は穏やかな笑みで男の指し示す先を見つめる。
女の後ろで怯える貧しい農家の娘…眩いばかりの異彩を放つ髪を除いて。
見上げてくる頭へとそっと伸ばされた手の感触は初めて触れるもので目を細めた。
「誠に見目麗しい乙女よ、これも八百万の神々のお導きでしょう。なまえと申したか、我と共に参りなさい」
見た目に反して、声高で落ち着きのある声だった。柔和な笑みにはどこか素朴な安心感さえあり、なまえは笑みを浮かべて頷いた。
生まれて初めて嬉しさから浮かべた笑顔だった。
こうして両親の元を離れ、僧侶について各地を巡って本寺に落ち着く頃には、既に7つを数える歳になっていた。
肌寒い冷たさを残す春風が吹く。
桜も咲き誇る季節になったというのに寒さの抜けない土地柄にムッとなりながらも、目げずに思考を手元へ集中させた。
時は黒船が来航して幕府に開国を迫る動乱期、長州藩の片田舎にある寺子屋には不釣り合いな子供が1人通いつめていた。
長州藩士である苗字家が嫡男ー名前という。齢10を数える年になり、あと数年もすれば元服して晴れて武士の仲間入りとなる。
通常、武家の子となれば士籍を持つ子たちが通う相応の習いに通うのが慣例だ。
現に、この地域の武家は明倫館という場に子を通わせていた。
「で、ここがこうで…なのですよ」
目の前を歩いて教本を読み進める師を見上げる。
名前の視線を感じたのか、穏やかな笑みと共にクスリと漏れた声に名前は恥ずかしくなって視線を教本へ落とした。
明倫館とは反して、身分に関係なく様々な子供たちに読み書きから手習いまで幅広い知識を教える小さな学び舎ー松下村塾。
流れ者な1人の浪人であった吉田 松陽が開いた私塾はいつの間にか多くの門下生で賑わうようになっていた。
かくいう名前も松陽の不思議な魅力と自由な視野からの知識に惹かれて門徒となった。
古びた教本が閉じられる音が響けば、午前の授業は終わり、門下生の大半を占める農家から商家の子たちが帰路につく。
数人になった間に後ろを振り向けば午後の授業ー本来は授業はない、名前たち自身が松陽に無理に乞うて勝ち得たーまで受ける面々だけだ。
中でも、視線があった商家の一人息子ー高杉 晋助と派手に睨み合いになった。
火花を散らせるような拮抗に気がついて、いつも制するのは農家の生まれである桂 小太郎。
松陽の一番弟子を自称する以下の3人は村塾を代表する門下生だ。
「お主ら、また睨み合っていたのか」
「「うるさい(せェ)、ヅラ!」」
「ヅラじゃない桂d」
「はいはい、3人とも。次は剣道でしょう?準備しないと今日は授業なしにしますよ」
柔かな松陽の声に慌てて駆け出す3人、と名前だけが足を止めて振り返った。
教本の山を整理していた松陽が首を傾げる。緊張した面持ちで口を開いた。
「先生、先ほど異人について話されていたでしょう?先生も攘夷を唱えられますか」
幼いと言われても、他の武家が…藩士たちが日夜問わず過激な姿勢を増していることを知っている。
開国を迫られた幕府に対し、もはや幕府など不要。
主上である帝に実権を返せと思想が流れる中で、そういう輩が松陽の元へ訪れたことに胸が締め付けられていた。
「ならば名前はどう思いますか?」
「私は…分かりません。ただ、藩が荒れると戦になる…前ほどこの地も穏やかじゃないと思うのです」
「晋助や小太郎もそうと?」
コクリと頷きながら、桜舞い散る庭を見やる。
長州でも田舎に位置して穏やかな土地柄だが、最近の気運で起こる小競り合いで田畑や家が焼かれた。
勿論、ずっと貧しい者たちのものだが。
商いを生業とする高杉の家は、南蛮とも活発に交易をするから考え方も柔軟だ。
桂も西洋医学に興味があるらしい。
松下村塾でたった1人武家である名前は自分が締め付けられている心地を拭えなかった、
侍とは幕府に仕えるだけをさすのかと。ただ盲目的に信じるだけが道なのか。
「人は思ったよりずっと自由です」
「自由…」
「生まれながら持つ視野は狭いもの、こうと決めた意志ならば尚更でしょう。しかし、少し首を傾げるだけで見えてくる視界もまるで変わる…どこまでも何でも見えるくらい自由なのだと私は思いますよ」
微笑む松陽は問いの答えを直接返してくれることはなかった。
ただ、自由なのだと語る姿そのものが凝り固まった自分を溶かしてくれる気がして。
促されるままに、道場へ移動するために廊下へ出れば障子の影に2人の姿。
「先生らしい回答だぜ。少なくとも俺ァそんなつまんねェことで悩まない」
「世界は広いということだな」
うむ、と頷く桂に高杉はもう1度振り返って名前を鼻で笑う。
いつもなら言い合いからの取っ組み合いだが、今回は迷いない笑みで不敵に返した。
「私はもっと自由でありたい」
冬至を過ぎた頃、蓬山では久しく迎えていた祭りの季節が終わろうとしていた。
劉麒がほとんど人型を保つようになった秋分に生国である柳の里祠で麒麟旗が掲げられたのだ。
蓬山に麒麟あり、王の選定に入るーの証。
「中日までご無事で、てな。はァ〜…」
岩山の上から見下ろす先には沢山の昇山者たちがまだ賑わいを残している。
最初の頃は口にしていた別れの言葉も今や直接に昇山者たちに伝えない。
「王はおられませんでしたか。禎衛が探しておりましたよ」
「げ。相変わらずしつけェな…燈豊(とうぶん)、適当にあしらっといてくれよ」
ー否
「てめっホント言う事聞かねェな!?」
自分の影から今度は低く、是、という答えが響き、劉麒は怒りの声を上げる。
使令の筆頭格であるはずの燈豊ー種族は翼と鳥の口を持つ赤黒い犬のような風貌である天犬ーは、爺湖の言葉しか聞かない。
「劉麒、王は」
爺湖の鋭い声と鉤爪で耳をつままれた。
「いてぇてっ!?分かった分かりました!いねーんじゃないですか!?はいっ」
涙目で叫べば耳の引っ張りから解放される。爺湖が無表情のまま下を見やれば、賑わいの中でも下山の支度をする者たちも多くいた。
みな、己が王でなかったことに一様に残念な気持ちを抱いているに違いないが、一部の者たちは別感情も抱いていた。
(あの男、州候に仕える下官だったか)
蓬山の門が開いた時、我先にと香を上げにきて劉麒に天意を諮りに来た者。
頭が深く地につけられる前、消え入るように呟かれた言葉は地脈に遁甲している使令たちにもはっきりと聞こえた。
ー白麒か…
落胆と畏怖を隠しきれない声色。
やる気のない表情で男を見つめたままだった劉麒の内心が一瞬だけ鋭く反応したのを敏感に感じられるのは爺湖らのみだろう。
この世界では、慶事には黒、凶事には白を用いる。
ゆえに、黒麒麟生まれたる時、世界に大変な吉事ありと言われるが、白麒麟はその逆の言い伝えだ。
勿論、あくまで古い言い伝えであるだけで、色が違うからと蓬山で冷遇されるわけではない。
麒麟は神獣であり、この世に十二しかない尊い存在に変わりはないからだ。
それでも、民草は慣習を重んじ礼に習う。
素直な者は有りのままに、自国の麒麟が白麒であることを憂い、行く末を心配した。
最初の面会を最後に、劉麒は昇山者たちと直接会うことを止めてしまった。
「王気なんてどんなもんか分かんねーけどよォー。あいつらじゃないのだけは分かるぜ、こんな俺でもな」
「左様で御座います」
ふぁあ〜と大きな欠伸で寝転んでしまった劉麒は、どこまでも晴れ渡る空を見上げた。
快晴だが、冬季である上に下界は凍えるように冷たく寒いだろう。
蓬山は年中温暖で食べ物も豊富にあり、不自由というものがない。
当然だ、麒麟を育てるためにある場所なのだから。
ー王がお出でになられるまで、健やかにお育ちになられ、ゆるりと過ごされれば良いのです
禎衛の笑みと声に安心は感じなかった。
ものぐさで日中の殆どを寝てばかり、女仙たちには怒られてばかりでも。
実の所、蓬山よりも黄海で過ごす日の方がよっぽど多いのを知る者はいない。
「息が詰まる」
ピクリと振り返って爺湖を隣に起き上がった劉麒は鼻をほじりながら呟いた。
その日の夕暮れ。
宮に残された書き置きに女仙たちの悲鳴が上がり、蓬山がてんやわんやになった。
かくして、最初の昇山を最後とし、柳では麒麟旗が下げられてしまう。
下界で生活するんでー
蓬山から柳の麒麟がいなくなった。
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