- ナノ -




1 流された徇果


世界の中心を黄海とし、それを取り囲むように十二の国が存在する“常世”とも呼ばれる世界。
その北東の国、雁の国に胎果の王と麒麟の王朝が立ってからちょうど360年を過ぎようという時だった。
十二の国のうち、南東に位置する孤島の国:舜では40年あまり続いた一つの王朝が終わりを告げていた。
舜の崩御した先の王の諡を解王と言い、聡明な女王だった。
解王は決して長い治世を敷いたわけでは無かったが、先々代や先代の徇王のように国を派手に荒らすことは無かった。
しかし治世末期、彼女が官吏の甘言に流され過ぎてしまったために国政が根本から狂い始め、民が困窮し始めた。
それを境に舜の麒麟である徇麒が失道の病に伏せった。彼女はそのことに大いに衝撃を受け、国政を立て直そうと紛糾した。
しかし踏みとどまるだけでよくはならず、遂に徇麒が登霞し、解王もそれを機にもはや王ではないと禅譲したのである。

それと同時に、世界の中心にある黄海の蓬山、そこにある捨身木にて卵果が実った。
舜の次の麒麟の卵果―徇果である。月の明るい真夜中にたった今実ったばかりの小さな果実は銀の光沢を放つ金を反射させた。
それを暗がりの中から灯りをかざして現れた数人の女仙たちが女仙の長である天仙玉女・碧霞玄君の命で確かめにやって来ていた。
断崖の岩山がまるで迷路のように入り組み、普段でも決してその奥に辿り着くことは容易ではない場所。
全てはその奥の丘に生える麒麟の卵果が実る捨身木と生まれる麒麟を守るためにあるのだが、夜は慣れた女仙でも辿り着くのに時間を有した。
本来ならば新たな麒麟の卵果が実った時、その対の根に実った卵果から女怪が一夜で孵って麒麟の性別を知るまで卵果にはあまり関与しないものだ。
しかし、女怪すら未だ孵っておらず、実ってたった数時間しか経っていない徇果を急遽見に行くのは玄君が不穏な風を感じたからだ。
蓬山では決して吹くことのない生暖かい強風と雲が淀み始めた。

「ああ、あそこに徇果が。禎衛」
「ええ、どうやら何の問題もないようね。良かったわ、大事がなくて。未だ女怪も孵っていないのに何かあったら大変だものね」

自分と同期の女仙・香蘭と話しながら、それは小さな徇果を遠めで眺めた。
暗がりでよく分からなかったが、月の光で確かに金の色がはっきりと見えた。
二人が他の女仙たちと蓬蘆宮へ帰ろうと丘を下って岩山の迷路へ入ろうとした時にそれは起こった。
急に吹いた強風と同時に激しい雨が、香蘭の長い髪と一緒に蓬山に生える草を上空へ巻き上げた。
一瞬何が起こったのか理解できず困惑した表情を禎衛へ移して、その間も尚強まる風と落雷に闇の中で恐怖した。
見た禎衛の表情は驚愕と焦りだった、それで自分の予感があたったことを知り抵抗も間々ならない嵐に逆らって振り向いた。

「ああっそんな!徇果が…」
「…っ蝕!!」

二人は吹き荒れる風の中で確かに、捨身木にたった一つ実った小さな金の果実とそれがなる枝が激しく揺れるのを見た。
駆け寄って縋りたい気持ちは山々だが、天の理から外れた異界とこの世界を繋ぐ時空の乱れの災害には敵わない。
身動きがとれずにただ闇夜の嵐の中で揺れる金色を絶望の色で見ていることしかできなかった。
それは禎衛がかつて見たことのある光景と同じだった、自分が360年ほど前に昇仙したての頃に起こった光景…。
実った雁の麒麟の果実―延果が蝕によって流されたその日と泣き叫ぶ女怪の姿。
今の違いと言えば、闇であるか昼であるか、女怪がいるかいないかの違いだろう。

「やめて…だめ…そんなっ」

香蘭の呟きと願いも空しく、熟すまで決して枝を離れるはずのない卵果は無情にも起こった風の刃によって枝から切り離されてしまった。
そのまま深い闇へと吸い込まれていくように消えていく、同時に女仙たちを身動きできなくしていた強風も去っていった。
残されたのは、蝕が通過した後の荒れた丘と呆然とする女仙たち、そして果実を無くした捨身木だけだった。



どんよりと沈む意識の中で、女は急に覚醒した。
普通ならば、ゆっくりと段階を踏んで浮上する意識と共に「生まれてくる」はずだったが、女にそんな余裕はなかった。
女は自分が何でここがどこで今どんな状態なのかすら何も理解できなかったが、たった一つの単語は知っていた。
身動きをすると、肢体が途端に自由になって、重力に沿って地に落ちた。

「ああ……」

最初に発したのは呻きだった、単語を発するつもりが発せ無かったのだ。
女が自分の倒れた地を見れば、そこには割れた実の残骸と女が包まれていた液体で濡れていた。
上を見渡せばそこはどうやら地中のようで、根には女が実っていたのと同じようにいくつもの卵果が実っていた。
ぼんやりとただ思う、そうだ自分も先ほどまでこれらと同じ生の無いただの果実だった。
たった今生を受けて意識を持ってこの世に生まれ落ちた。

「孵ったのかい…早いね…」

声を聞いて、まだおぼつかない四肢を奮い立たせて膝立ちすれば、小さな老婆がそこに立っていた。
灯が眩しくて目を細める間に老婆はいつの間にか女の近くに寄ってきて女を撫でていた。

「人型の女で白い羽毛、両足は蹄、尾は猫に背に翅、頭には羊角…よく混じっている、久々に良い女怪だ。
お前の名はカキョウだ、華、鏡。姓は白となり、白 華鏡。お前が姓を持つのは大事な役目を持つからだ」
「!」

女―華鏡はその言葉にハッと目覚めたかのように老婆の手を振り払って光の方へと翅をはためかせて飛び立つ。
鉤爪を持つ獣の足を交互に地に着いて跳躍しながら地上へと続く穴を駆け上がる。
華鏡の全身を包むはっきりとした意識は、不安だった。
その後ろ姿を沈黙で見守っていた老婆は灯と共に呟く。

「生まれてくる麒麟を守るという、大事な使命を帯びているからだ。だがお前は憐れだ、華鏡。守るはずだった麒麟の卵果はお前が見る前に失われてしまうなど…例に無いことよ」

老婆の恐ろしい呟きは、地上へと飛び出した華鏡には聞こえなかった。
生まれて初めて日の光を浴びて眩しさを感じるもただがむしゃらに一本の寂しい大木へ駆け寄った。
十二の枝に十二の根を持ち、花でもなく葉でもなくこの世でたった一つ麒麟の卵果だけを実らせる木、捨身木。
今しがたまで華鏡はこの捨身木の十二の根の一つに実っていたのだ、そしてそれと対の枝に視線を巡らせるが目的のものは無かった。
本来ならば、生まれてすぐに見つけるはずだった枝になる金色の果実。いくら探しても実は一つとしてついていなかった。

「…っ」

絶望が、ついで悲鳴が華鏡を襲う。絶叫して生まれて初めて流した涙は卵果を見つけた嬉しさでなく失った悲しみだった。
そのあまりにも悲痛な叫びを聞いた女仙たちが、そして玄君が捨身木の見える丘までやって来ていた。
たどり着いた時に見たのは顔を歪めてただ泣き続ける華鏡が、実が引きちぎられた跡のある枝をただ触れていた。

「何ということじゃ…あまりにも痛々しい…ほれ、もう泣くでない華鏡。そなたが生まれてすぐに見るはずだった徇果がよりによって実ったその日に蝕で流されてしまうとはあまりに残酷なことじゃ。だが必ず見つけ出してそなたの元に返すことを約束するぞえ」
「玄君、蝕は東へ抜けたとのことでございます」
「それとなると、行き先は蓬莱じゃな」

禎衛のしっかりとした声に絶望を表していた華鏡は顔をあげてやっと言葉を発した。

「徇麟…」

本来ならば、実ったばかりの卵果を愛でて喜びで紡がれるはずだった華鏡がたった一つ知っていた単語だ。
その言葉に玄君は、次の麒麟は麟だったのじゃな、と小さく言って女仙たちに指示を出した。

「急いで女仙たちを集めよ、今夜にも呉剛の門を開いて蓬莱に徇果を探しに行く」
「はい、急いで蓬蘆宮に知らせてまいります」

走り去る女仙たちと去る玄君の後ろ姿を成す術もなく、ただ華鏡は座り込んで祈るように見ているしかなかった。



「あれが蝕か…」

薄暗い闇の中、蓬蘆宮を取り囲む迷路のような断崖絶壁の上、捨身木を遠目で見ていた1つの小さな影が呟いた。
蝕が去った後も未だに荒れる風が収まることはなく、クルクルと無造作に跳ねている白銀の髪を揺らせる。
ギュッと自分をかき抱いていた腕の力が抜けて、そろりと離される。
いつもは女仙たちに死んだ魚の眼と称される幼い瞳が珍しく真剣味を帯びていた。
「劉麒」と、後ろに控えていた女―白 爺湖は能面な表情を崩すことなく呼びかける。
普段は自分を無表情のままに叱咤してばかりで、一切甘やかさない己の女怪が再び押しとどめるように手を掴んできた。

「劉麒、まだ風が強い。そろそろ宮にお戻りを」
「あ?…おー…なァ、爺湖」
「はい」

有無を言わさない態度で手を引かれて、夜も明けない西の先にある宮へ戻るよう促す爺湖を見返す。
淡々とした答えに、劉麒は普段のやる気のない目で質問した。

「さっき流されちまったのが卵果だろ?俺もアレから生まれたんだったな…お前、俺が生まれた時どうだった?」
「…」

ポリポリと頬をかきながら、見上げてくる幼い主を見下ろしつつ爺湖は目を細めた。
つい最近、麒麟の姿から人に転化する術を覚えたばかりの幼い主。
5年前、実ったばかりの果実へ頬を摺り寄せてこの世に生を受けた喜びを教えてくれた存在だ。
小さな果実が日に日にと大きく熟していき、両手へともがれ落ちた時の喜び―。
生まれたての幼い獣は今と同じように半目を向けてきて、顔にかかる癖の強いクルクルした鬣をブルブルとふっていた。
細めた目のまま、劉麒の手を引いて呟き返した。

「目が死んでると思いました」
「おいィィィ!!そういうコト聞きてーんじゃねェし!!こう『喜びでいっぱいでした』とかねーの!?
ってかそんなコトずっと思ってたのかァァ!!!おまっ、俺ァお前の麒麟だぞ!?」
「そーですね。ものぐさで品がなくて空気が読めない、麒麟にあるまじき麒麟ですね」
「いつにも増して辛辣!!!」

ガーン!!と顔を青ざめさせる劉麒を連れて断崖を飛び下りる爺湖は続けた。

「それでも貴方が、私が仕える麒麟だから仕方御座いません」
「仕方ない扱いかよ!ホントっお前も女怪にあるまじき女怪だな!?」
「主が白麒麟だからです」
「白いの関係ないだろーが!!明らかに考えるのめんどくさくなっただけだろ!そーだろ!!」

ギャーギャー叫ぶ劉麒に受け答えがめんどくさくなった爺湖はスルーに入る。
顔を逸らしたまま無表情な対応に口元を引きつらせつつ、下ろされた地上で東の空を見上げた。
目に焼き付いて離れない、小さな果実が荒れる風に巻き上げられて光の中へ消えて行った光景。

「徇果が気になりますか」
「…別に。たださ、蓬莱、ってどんなんだろーな」

振り返る劉麒の瞳は何かを思い描いているようで心ここにあらずと見えた。
爺湖は小さく首を横に振って、「私には想像つきません」とだけ答えて「ただ」と呟く。

「舜の女怪が悲しみと絶望に暮れていることだけは分かります」
「そうか」

さァ、と促されて踵を返す劉麒の銀色の髪を荒れる風が再びなびかせた。

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