7 夢の彷徨い人
ここは、どこだ?
意識が浮上する。何も見えない。
何も聞こえない。
森の真ん中。
「!」
遠くで声が聞こえる。
誰だったか。聞いたことのある声。
走って行けば、そこには亜麻色の髪の少女。
「お前は…」
少女はこちらに気がついて、嬉しそうに微笑んだ。手を伸ばしてくる。
呆然とそれを見つめていると、そのまま抱きしめられた。
―…――
頭を過ぎる、声。
「…カリ…ヒカリ…?」
知らない言葉が、口から紡ぎだされる。
そうだ、ヒカリ。ヒカリだ。
どうして忘れていたのだろう?
「ヒカリ!お前…!」
ヒカリを自分から離して、その目を見る。
ヒカリはポカンとした表情で見つめてきて、そして今度はハラハラと泣き出す。
なかないで
「泣くな…!」
こんなののぞんでいない
「泣くなよ…」
こんな
「オレは!」
おまえを、まもれなかった
途端に体に走る激痛。頭を貫くような悲鳴。
目の前の泣いていたヒカリは、ガラスのパズルとなって散る。
痛みで蹲った顔をわずかに上げると、今度は洪水に飲まれた。
塩辛い、海の水。
「ヒカリー!」
渦の飲まれながら、叫ぶ。
叫んでも、水の中である故に声にならなかったが。今度こそ何も見えない。
意識が遠のく。
(…蒼い、光?)
「レンピカ!」
聞いた声が響いた。
遠のきかけた意識が覚醒する。
蒼い光に導かれて、その先に手を伸ばす。
「マスター!」
「蒼…」
見慣れた蒼星石の手をしっかりとつかむ。
水の海から引き上げられた。
「良かった…無事で…」
「蒼…ここは、どこなんだ?」
びしょ濡れの服を軽くバタバタさせながら、蒼星石と蒼い光を見る。
「ここはマスターの夢の中。今、現実のマスターは眠っているんだ…」
「…そうか、夢の中か。通りで…って、どうしてそのオレの夢に蒼が!?」
いきなり夢の中ですなんて言われてももう動じない。恐るべし、名前の適応能力。いや、既に慣れの域であろう。
「僕は人の夢の中に自由に出入りできるんだ。でも何故かマスターの夢は入ろうと思わなくても勝手に引き込まれてしまう。きっと無意識の海が共有しているせいかもしれない…」
「海…」
そう言って、今は穏やかに打ち寄せる細波を見つめる。本当に海そのもの。そして、その波に打ち寄せられた一つのガラスのピースを見て、先ほどのことを思い出す。
片手で頭を押さえて、沈黙した。
「マスター…?」
普段と違う様子に気がつき、蒼星石は心配して声をかける。
いつも見ている明るく破天荒の名前とはまるで違う。
名前は蒼星石に視線を向けてしばらく黙ったままの後、静かに話し出した。
「オレは…記憶喪失なんだ。3年前以前の記憶がない。気がついたら病院で体中包帯だらけだった。自分の名前すらも、分からなかった」
「…」
苦痛を思い出すかのように語る名前を見つめる蒼星石。
名前の言葉に呼応するかのように、森が海を侵食していく。
「戸惑っていたオレを父さんと母さんが迎えに来た。といっても、誰だかさっぱり分からなかったけどな。その時、オレは自分が“苗字名前”だと知った。それから記憶を思い出すためにずっと通院」
海が森に呑まれた。何事もなかったかのように木々がそよぐ。
「でもいつまでたっても記憶は戻らない。全部が分からなくなって、不安だったさ。そのオレを置いて両親は新婚旅行に行っちまったんだよ。最初は恨めしかった」
微笑して、目の前にあったガラスのピースを拾う。
「…けど違ったんだ。父さんと母さんは何も知らなくて混乱してたオレに時間をくれた。オレから離れることで、オレを気づかってくれたんだ。それでいくらか落ち着いた」
透き通ったピースから手が透けて見える。
「それでも何か空虚感つーのかな。何かが欠けてるような日々だった。そんな時…蒼、お前が来たんだ」
ピースを見つめて微笑む。
「さっき…少し思い出した。オレには妹がいたんだ。でも、死んでしまった。守れなかったんだ」
頭を過ぎるヒカリの笑顔。そう言えば、いつも隣で笑っていたような気がする。
ピースをギュッと握り締めて、立ち上がる。
「オレは今まで逃げてたんだ。思い出せなかったんじゃない。思い出そうとしなかったんだ。蒼といて分かった。ちゃんと前を向かないといけないってことを」
「マスター」
きっ、と。前を睨むように見る。周りは美しい森。美しすぎる、森。
でもよく見れば、木はどれも一緒だった。
「まだ全部思い出せたわけじゃない。いや、ヒカリのことを思い出したのも記憶が戻ったうちにも入らない」
それでも、今はもう逃げない。
「オレは」
ピシリと。音が響く。
「もう前を向ける」
ガシャン。空間の崩れる音がした。
「なっ…なんだ!?…芽?」
「これは…」
森の一部が崩れて現れた小さな芽。今にも折れそうな、小さすぎる芽。
「マスターの…樹」
蒼星石は無意識に呟く。
人は誰もが心に樹を持つ。その樹はその人の心でありその人自身。
蒼星石は今までたくさんの人の樹を見てきたが、こんな小さな樹は初めてだった。
いや、樹とも呼べないまだ芽吹いたばかりの小さな芽。
「これがオレの…樹?…ははっ…小さいな」
蒼星石の呟きを聞いて、名前はその芽にそっと触れた。
今にも折れそうな、小さな芽。
「ホントに…小さい」
自嘲的な笑みと共に反復される言葉。
そうして分かる。自分の心がこんなにも脆く、小さく、未熟なことを。
そっと芽を撫でて、隣の蒼星石に微笑んだ。
「立派な樹に、なってみせるさ」
蒼星石は穏やかなを見て頷いた。
本当は、翠星石も一緒にいれば翠星石の『庭師の如雨露』で水をあげられたかも、と考え後悔したりしたが、今はそうは思わない。
そんなことをしなくても大丈夫だった。
「マスターはもう前を向けるから」
「ああ!」
二人で笑いあって、名前は蒼星石の手を握って引いた。
「帰るか!現実に!もう起きないとまた遅刻しちまうからな」
「マスターはいつもでしょう?」
「ぐっ!?」
二人の後ろで、小さな芽が陽射しを反射させて輝いていた。
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