2 龍の童女
時は丑三つ時、人々が恐れ戦き、百鬼が跋扈する闇が広がる世界。
人の気配など何一つしない京の通りをフラリと歩く存在がいた。
百鬼が列なす横を笑って横切る一人の幼子。
その表情は非常に楽しそうで、誰もいないはずの横に向かって笑いかけた。
―おい、餓鬼。何がそんなにおかしい?
百鬼夜行を外れた一匹の鬼が好奇心に負けて幼子に話しかける。
幼子は振り返って鬼を瞳に映し出した。
その瞳の色に映った存在を感じ取った鬼が恐れ戦く。
体を震え上がらせて、悲鳴を上げて百鬼夜行を追いかけて消え去った。
残された幼子は一瞬だけ呆けて、それからすぐに寂しそうな顔をした。
―何を嘆く、吾子よ
「だって、だれもわれにかまってくれぬのだ」
拙い口調から紡がれる言葉は、年齢には不釣合いでぎこちない。
可愛い我が子・・吾子と呼ばれた幼子は首を小さく振って幼子だけが見える存在に甘える。
伸ばした手は、傍を飛び交う低級な妖や鬼には宙を彷徨っているだけに見える。
それは意図的に、幼子が甘える存在が自らの身を世から隠しているからだ。
先ほど逃げた鬼は、幼子の瞳に映った存在に恐れて逃げ出した。
大通りを抜けた先の橋の欄干に腰掛ける。
行き交う妖や鬼は、既にこの幼子がただ人でないことを知っているから手を出そうとはしない。
風貌だけを見れば、貧相な体とボサボサな髪などから孤児であることは一目瞭然だ。
それなのに、幼子が身に纏う青海波が描かれた着物は貴族が着るような見事なものだ。
幼子の黒髪に簪代わりに止められている、不思議な色を放つ鱗が輝いた。
「なあ、なぜ、みなにげるのだ?」
―それはお前に憑く我が恐ろしいからよ
「おまえがこわい?なぜだ?おまえがかみだからか?」
―さて、な。我は我が何かは知らぬ。あれらが我を勝手にそう呼ぶだけだ
「だが、このまえ、おそってきたひとは、おまえをあらがみとよんだ」
―あらがみ、荒神、か。ふむ、的を得ているのではないか?
幼子は橋の欄干に腰掛けながら、着物の間から垂れる羽衣を風に揺らした。
そよぐ風が橋の下を流れる川を揺らせ、幼子を水面に映し出す。
闇夜を照らす朧月の僅かな明かりだけが、水面に映る幼子の横にある存在を浮かび上がらせた。
九つの頭と九つの尾を持つ龍の姿をしたもの、人々が荒神と呼ぶ存在。
半透明の羽衣が風で靡くことで、幼子は橋の欄干に立ち上がった。
「あらがみ、でも、それはおまえの、な、ではないのだろ?」
―名、とな?これはまた、面白い事を言うな
「こないだ、おにどもがはなしているのをきいたのだ。な、とはなんだ?」
―多様な種を持つ生物が個体を識別するために称するものだ、存在を意味する言霊とでも言おうか。先ほど、荒神という言葉もある意味では我を表す名の一つよ
「おまえに、な、はないのか?」
―我は我よ。人には神とも蛟とも龍とも呼ばれる。それが我よ
「われには、わからぬ・・」
―何を悩む、我が愛しき吾子よ
龍が尾の一つをしならせて、幼子の頭を撫でる。それでも、幼子は自分よりも遥かに大きな龍を見上げた。
幼子が立ち、龍と対峙する橋を、ただ百鬼夜行が通り過ぎていく。
「われは?われに、な、はないのか?おまえよ」
―お前の名とな?我は名という概念が無い。故に我に名は無いのだ、吾子よ
「われはおまえの、あこ、だ。でも、あこ、もわれの、な、ではないのだろう?」
―我が子よ、吾子よ、何ゆえ名が欲しいのだ
「われは、われであるというあかしがほしい!われは、ひとじゃない、おまえでもない!」
―お前がお前である証が欲しいか、それは我も思わなんだ
「われは、なんなのだ?ひとからはおにごとよばれ、おにからはいみごとよばれる・・われは・・」
―お前は吾子よ、我の愛しい子、それ以外は無い。残念だが、我はお前の望むものを与えてやれぬ。今日はこれで終わりだ
まだ不満そうな顔をする幼子を包み込むように、とぐろを巻いた龍は喉を鳴らして話を終わらせた。
顔を伏せて悲しそうな顔をする幼子を龍は吾子と呼ぶ。けれども、人が呼び合う名を与えてやれはしない。
龍が龍であるように、幼子は幼子でしかない。龍には自らを表す名がないために、幼子に名をやれない。
だから、吾子と呼んでやるしかない。そして、人であるのに名を持たない幼子は人として育てない。
龍が憑く故に、異端の力を手に入れた人の子。けれども、幾ら人と同じ形をしていても、幼子は自分が人でないと苦しむ。
幼子が見る世界は二つある。
栄華を極める平安京を中心とした人の世界、深淵に沈む混沌とした物の怪を中心とした鬼の世界。
けれども、異端の神である龍が育てた幼子が触れられるのは、己の育て親である龍だけ。
言葉も、会話も、知識も、全て龍を見て覚えた。それでも、寄り添って育てるだけの龍はそれ以上のことはしない。
空虚さだけが、大きく育つ幼子を包み込む。異端の子を、人は鬼子と、鬼は忌み子と恐れる。
「われは、いきている?」
―お前は生きている。我と共に生きている
「われは、なぜ・・・っ・・?」
幼子はそこで言葉を途切れさせて、欄干の上から後ろに振り返った。
傍を絶え間なく通っていた百鬼夜行が悲鳴を上げて逃げていく。幼子は瞬いた。
橋の先から、数人の人間たちがやってくるのだ。烏帽子を被り、見慣れぬ紋様を持つ着物に幼子は笑った。
幼子にとって、それがどんな人間であるかは関係ない。ただ、幼子は恋しかった。
鬼でもいい、人でもいい、自分と触れ合ってくれる誰かが、自分が生きていると教えてくれるという存在が欲しかった。
駆け出した幼子は、不安定な橋の欄干を駆けて跳躍する。
やって来た人間たちが顔を強張らせた中で、幼子は人間たちのすぐ目の前の欄干に降り立った。
「おまえたち!われとあそぼう!」
―吾子よ、やめた方がいい
「これがっ、京を跋扈するという噂の鬼子か!何と、面妖な!」
「待て、お主には見えぬのか?これは鬼憑きではない、寧ろもっと巨大なものよ」
「何と、始めて見やるわ。このように畏れ多い気を放つは、鬼ではない、神じゃ」
「これこそ、荒ぶる神、荒神!」
それぞれ表情を強張らせて札や数珠を取り出す人間たちに、幼子は目を瞬いた。
それから欄干の上に立ったまま、悲しげな表情をする。
ああ、この人間たちも以前出会った人間と同じなのか。
幼子は、この人間たちが何かは知らないが、持っている札や数珠などで分かる。
「なんだ、おまえたちも、われをころしにきたのか?」
―吾子よ、こやつらは陰陽師だ。我らや鬼共を滅する力を有する者
「それが、いたいものであることはしっている。つまらない、われはつまらない」
―愚かな人間どもよ、何も害をなしておらず姿を晦ませても、我らを滅しようと追ってくるか
「いたいのは、きらいじゃ。おまえたちもやじゃろう?われらにてをだすな」
「何をさっきからブツブツと言い寄るか、この鬼子が!」
「本当にお主は修行不足じゃな。あの子に憑くは龍の荒神よ、ちゃんと精進せよ」
「童女よ、大人しくこちらへ参れ。さすれば、そなたを脅かすその神を祓ってやろう」
「さあ、童女よ」
怯えつつ、ぎこちないながらも苦笑いで幼子に手を差し伸べる陰陽師たち。
幼子は不満そうな顔をして、欄干から一歩下がって、陰陽師たちを見やる。
交差する瞳、幼子の瞳に映った色に、陰陽師たちは悲鳴を上げて腰を抜かした。
すると、幼子は声を上げて笑い、羽衣を靡かせて欄干を歩く。
「ああ、おもしろい!でも、あまりおどろかすと、あとがうるさいぞ」
―それもまた一興だろう、吾子や。そろそろ去ろう。我は人が忌まわしい
「そうだな、たのしかったし。そうするか。なあ、おまえたち」
「ひぃいい!!」
「りゅ、龍じゃ、龍神じゃあ!」
「お助け、ひえええ」
「何と強き力を持つ神よ・・。荒ぶる龍神よ!その童女に憑いているのでなく、その童女そのものか!」
―ククク、あな、おかしや。そうだな、我は吾子だ
「そして、われはおまえじゃ、アハハハ!」
無邪気な笑い声を上げた幼子が宙返りすると半透明の青い羽衣が水を舞い上がらせる。
激しく吹き荒れる風と共に消え去った影に残された陰陽師たちは震えるしかなかった。
後に数年間、姿も見せなくなったその幼子の事は、陰陽師たちだけでなく庶民の間にまで知れ渡ることになる。
それは、一種の怪談のようなものとして語られ、噂されるようになった。
京の闇に、荒ぶる龍の神の化身である童女在りけり
青き衣で宙を舞い、強き力で鬼を伏し、高き笑いで人を惑わす
鬼子、忌み子、と呼ばれた幼子は、こうして龍の童女と陰陽師に呼ばれる。
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