「ここで何をしている」



突然後ろから聞こえた声に、びくり、体が震えた。
光の入らない、暗い暗い森の中。
道も分からない、私。



「何を、している」

もう一度尋ねられた。
低い男の人の声。

私は木に凭れ、折り畳んだ膝小僧に顔を押し付けたまま、掠れた声でぽつりと呟く。


「家に、帰れないの。道が分からなくて」



……ふぅ。
ふいに停滞していた空気が流れた。
どうやら、尋ねてきた彼が息を吐き出したらしい。

沈黙が、落ちる。







──かくれんぼをしていた。

近所の友達と朝から晩まで遊ぶ約束をして。
このかくれんぼが終わったら解散しようということになっていたのに。

確かに数を数える声は聞こえていたのに、気付けば誰も居なくなっていて、私は見知らぬ場所に居た。


どれだけ歩いても同じ処を歩いているような錯覚。
歩くほどに奥へ奥へと誘われているような恐怖。

日が暮れて足許が全く見えなくなる頃には、精神的にも肉体的にも、私は疲れ果てていた。


星明かりさえも見えない此処は、まるで絶望そのもののように思う。





「…………帰りたいか」


「え………………?」


唐突に、沈黙が破られた。
彼が感情の読めない声を挙げたからだ。

私は重たく感じる頭を上げて、彼に視線を向ける。



最初に目に入ったのは、黒だった。
黒い、着物。

そこから更に視線を上に上げれば、着物の衿から覗く蒼白い首筋に、細く尖った顎。

薄い唇は血の気が無く、左耳の横で結われた髪は闇に同化するような紫闇色をしていた。


その中で一際眼を惹く色。
────鮮血のような、深紅。


それは無感動に私を見下ろしている。



「わ、たしは………………」

此処から帰れるのだろうか。

あんなに歩いたのに、この森の外の灯り一つ見えなかった。
周りは星明かりも月明かりもなくて暗闇に沈んでいるのに、こんな闇の中から抜け出せるのか。


そう思ったところでハッと気付く。

おかしい。
周りは暗闇だ。
今の私には、自分の姿さえ見えていない。

なのに、目の前の彼の姿ははっきりと眼に映っている。




彼がすっとその手を私に差し出した。
やっぱり蒼白い、細く骨張った指。

私は意味が分からなくて、彼の手と顔を見比べる。

感情の籠められていない深紅の瞳からは何も読み取れない。


「………………帰りたいなら、俺の手を取れ」

耳に心地好い低い声が、呟くように言葉を紡ぐ。


私は、帰れるの────?
この手を取れば……………………。


暗闇に浮かぶ蒼白い顔に表情は無く、彼の心裏は分からない。
彼が、本当に私を帰してくれるのかも分からない。
けれど、私は。



「私は、帰りたい」


彼の手に自分の手を重ねる。
冷たいけれど温かい、生きているものの温もりに安堵した。

重ねた手が握られ、クイと上に引っ張られる。
その動きに合わせて私は立ち上がった。

先程まで動けないほど重かった身体が、嘘のように軽い。



「…………行くぞ」

彼がくるりと踵を返す。
私は慌てて彼を追った。

彼は迷うことなく足を進めていく。


再び沈黙が落ちた。



ザリリ、ザリリ。
2人分の足音だけが、辺りの暗闇に響いている。

彼が私に歩調を合わせてくれているのか、手を引かれているのに歩きやすい。


私はそっと彼を見上げた。


暗闇の中でもその姿ははっきりと見える。
よく見ればそれは、淡い光が彼を取り巻いているからのようだった。

闇と同化するように漂う、黒に近い紫色の光。

それが彼を暗闇の中ぼんやりと浮かび上がらせている。


と、ふいに彼が振り向いた。

「どうした?」

「っ、」

私は慌てて、何でもないと首を振る。
一瞬かち合った瞳に、鼓動が一つ大きく鳴った。

────何故かは、分からないけど。




「……そろそろ出口だ」

彼のその言葉に、あれから下に向けていた顔を上げた。

視界の先が明るい。


私、帰れたんだ。


そう思った途端、ずっと引かれていた手が離される。
弾かれたように私は彼を見上げた。

彼は、踵を返して森の中へ消えようとしている。


「っ、待って……!」

咄嗟に私は彼の着物を掴んだ。
何故だろう。
このまま彼と別れるのは、嫌だ。

「ここに来たら……、また会える?」

彼はほんの少し振り向いて私を見る。
けれどその視線はすぐに逸らされた。


「…………俺は人間じゃない」


相変わらず無表情な彼。
けれど私には、その姿がどこか寂しそうに見えた。

彼は「だから……」と続ける。


「ここにはもう来るな」


ズキン。
ぎゅっと締め付けられたように、胸が痛んだ。

何故いけないのだろう。
この世界には人間と、人間じゃない生き物が共存しているというのに。


彼が歩き出す。
私の足は、縫い付けられたように動かない。
否、足だけじゃない。

身体全てが動かなかった。
まるで金縛りにあったかのように。


──唯一動かせるのは、口だけ。


「っ、絶対!またここに来るから……!」


彼は振り向いてはくれない。
けれど私は、その背中に向けて叫ぶ。


「絶対、絶対によ!!絶対、もう一度ここに来るんだから…………っ」


私の叫びは、暗い森の中高く高く響いて。
其処で私の意識はぷつり、突然途切れた。







目覚めたとき、目の前には母が居た。
母は泣きながら私を抱き締める。

何故だか重く鈍い頭で知ったことは、私が森の入り口で倒れていたことと、それから丸二日眠り続けていたこと。

その後父が、まだ疲れているだろうから寝ていなさい、と言って、母を連れていった。
今から三時間程前のことだ。


私は一人残された部屋のベッドに寝転がっていた。

ぼんやりと天井を見つめる。



────大切なことを忘れている気がしていた。

今の私は二日も眠っていたせいか、記憶が曖昧になっている。
特に、倒れる前の記憶が全くない。

何か大切なことがあった筈なのに。


母は、きっと怖いことがあったのだから思い出さなくていいと言ったけど、違う。

怖いことなんてなかった。

この感情は、恐怖じゃない。
もっと別の、心臓がきゅっと掴まれたような──────。



ふいに私は窓へ視線を向けた。
今は夜だから、窓の外は真っ暗で何も見えない。

けれど其処には、確かに私が倒れていた森がある。

私はじっと眼を凝らす。
無意識の内に何かを探して。


そして、ある場所で私の視線は止まった。


思わず力の入らない足で、転がるように窓へ駆け寄る。
縺れる指で窓の鍵を開けて、窓を開け放った。



「………………居た」


急速に倒れる前の記憶が甦る。
そう、私は言った。

また、あそこに行くと。


瞳に映ったのは、闇に同化するような紫闇の灯り。



トクン、鼓動が一つ高鳴った。



鬼灯
その灯りは、一人ぼっちの闇の獣
魅せられた私はただただ
惹かれ惹かれて堕ちていく


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企画サイト「そろり」様に提出。
よく分からない話ですみません!
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