朱に染まる

チェシャ猫を連れて新しい場所で生活を始めた私。
おばあちゃんも叔父さんも優しくて、学校の子も皆いい人達ばかりだった。
まだ心に残る傷はある。
でも、それでも前を向いて歩いて行こうと決めたから。だから、立ち止まることはしない。

そう前向きになれたのも、いつも一緒に居てくれるチェシャ猫のおかげだった。
いつの間にか首から身体が生えてた猫は、今も側にいてくれる。
悲しいときは頭を撫でて、泣いたときは涙を拭ってくれる。
私はそんな猫を頼り、そしていつの間にか特別な感情を抱くようになってしまった。

でも、相手は"猫"。
"人間"じゃない。

だから、この気持ちはいけないもので、封印しなくちゃと思った。こんな気持ち絶対に歪んでいる。
そんな時、絶妙のタイミングで好きだと告白してくれた人がいた。
隣りのクラスの男の子で、最近よく話し掛けてくる人だった。
私なんかのどこがいいのか分からない。
でも、この日々募る気持ちを封印したかった私は承諾の返事をした。



「アリス」

予想していなかったいきなりの声に飛び上がった。学校から帰ってきていきなり背後に立たれるのは心臓に悪い。
頬を膨らませて振り返ると、チェシャ猫はいつものにんまり顔で立っていた。

「…また同じオスのニオイがするね」

また、同じ台詞。
あの人と付き合い始めてから、毎日同じ台詞を繰り返す。
匂いなんて私には全く分からないけど、チャシャ猫には分かるらしい。

「う、うん。一緒に帰ってきたから」

あの男の子とは毎日一緒に帰るだけという清い交際を続けていた。クラスの友達にも気恥ずかしくて付き合っていることは話していない。

「そう」

気のせいかもしれないけれど、猫の声がほんの少しだけ低くなったような気がした。
顔はいつものにんまり顔で何を考えているのかは分からない。
でも、もしかしたら…と期待が膨らんでしまうのを止められなかった。

「さ、最近付き合い始めたんだよ」
「ツキアイ…?」
「つ、付き合うっていうのは…好きな人同士が一緒にいるってこと」
「…好き?」
「う、うん」
「そう」
「チェシャ猫は気になる…?」

ドキドキしながら見上げると、チェシャ猫は少し首を傾げてからにんまり笑った。

「僕らのアリス。君が望むなら」

いつもの台詞。チェシャ猫は決して自分の気持ちを言わない。私を尊重してくれる。
でも…。

「そ、う…」

震える声を押し出して、それだけ言うのがやっとだった。
一体何を期待していたんだろう。猫がやきもちなんて妬いてくれるわけないのに。
それに、自分から距離をおかなくちゃって、この気持ちを封印しなくちゃってそう決めたくせに。

「どうして泣いているんだい?」
「え?」

言われて初めて自分が泣いていることに気がついた。
止めたいのに次から次へと溢れて止まらない。
不意に、泣くのはおよしと抱き締められた。
その温もりが、優しさが、堪らなく愛しくて悲しい。
私は更に溢れた涙をそっと灰色のローブで拭いた。



「…ん、朝?」

泣き疲れたからか、いつの間にか眠ってしまったらしい。

「…チェシャ猫?」

なぜかいつも居るはずのチェシャ猫の姿がなかった。
家中を探してみてもやっぱり姿はなくて、私はどこかに出掛けてしまったのだろうと結論付けて学校へ行く支度を始めた。

「おはよう、亜利子ちゃん」
「おはよう」

席に着くなりすぐに仲の良い友人が寄ってきた。

「…ねぇねぇ、聞いた?」
「何を?」

妙に神妙な顔付きの友人に首を傾げる。

「昨日の殺人事件」
「…え?」
「確か亜利子ちゃんも仲良かったよね?」

その子が発した名前に頭を鈍器で殴られたような衝撃を受ける。

「昨日殺されちゃったんだって…」

何を、言っているの?
その子が言った名前は、確かにあの男の子の名前。

「そん、な…」

やっと口から出たのは、これだけ。
だってその人は…つい最近付き合い始めたばかりの人。誰もそのことを知る人はいないけど。頭の中が真っ白になって何も考えられない。

「それ知ってる!なんか、完全密室らしいよねぇ」

聞きつけた女の子達が会話に加わってきた。みんな身近に起きた大事件に興奮しているのか、口が忙しなく動いていた。

「えー?密室なの?」
「うん。なんか自分の部屋で刃物みたいなものでズタズタにされてて、出血死だって」

怖いよねー、とその子が身震いしてみせると、他の子も口々に怖い怖いと続ける。
私はただ呆然と彼女達の言葉が右から左へと流れていくのを感じていた。

また、また人が死んだの?
身近な人が?

「あ、あと現場に鈴が落ちてたらしいよ?犯人のものじゃないかって…」
「えー?鈴ー?」
「そう。だけど、鈴なんて今時付けてる人なんていないよねー」

いや、いや!もう聞きたくない!
ガタンっと音を立てて立ち上がると、友人達が驚いて私を見上げていた。

「わ、私…ちょっと早退するね」

無理矢理笑顔を作ると、足早に教室を出る。

「(怖い…怖い…またっ…!)」

スピードはぐんぐん上がり、景色が瞬く間に変わっていく。
運動不足な私には辛いはずなのに、疲れなんて全く感じなかった。



「っ、…チャシャ猫!」

荒々しく玄関を開け2階の自分の部屋へ飛び込むと、そこには見慣れた姿があった。
よかった、帰ってきてたんだ。

「どうしたんだい、アリス」

ホッとするのと同時にまた恐怖が蘇って、飛び込むように抱き付いた。
とにかく怖くて堪らなかった。

「また、人が死んじゃったの…!また私の周りで…っ」

この間のことが蘇る。身近に起きた様々な死。あんな思いもうしたくなかったのに。

「泣くのはおよし、アリス」

昨日と同じ台詞でチェシャ猫は頭を撫でてくれた。
恐怖が少しだけ和らいで、私は猫に甘えてそっと目を伏せた。



暫く泣いてから、漸く落ち着きを取り戻し身体を離す。
猫は私を心配してくれているのかじっと見つめてきた。

「…ありがとう。チェシャ猫」

もう大丈夫だよと頭を撫でるとゴロゴロと喉を鳴らした。
そんなチェシャ猫にふふっと微笑んでから、あることに気付いた。

何か、違和感。

「あれ…鈴はどうしたの?」

そう、鈴がない。
いつも首から下がっている鈴がないのだ。赤いリボンはあるのに、鈴だけ。

「一体どこに…」

言い掛けて、止まる。

『あ、あと現場に鈴が落ちてたらしいよ?犯人のものじゃないかって…』
『えー?鈴ー?』
『そう。だけど、鈴なんて今時付けてる人なんていないよねー』

友人達の言葉が脳裏に蘇る。身体が震えるのが分かった。

「(うそ……だって…まさか…)」

怖くて顔が上げられない。視線は鈴が消えた首一点に集中していた。
ドクドクと鳴り響く心臓の音。

「…どうしたんだい、アリス」

尋ねられて、ゆっくりとチェシャ猫を見上げる。
いつも弧を描いていた口が、今は何故か笑っていないように見えた。

END

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