◎ しあわせをどうぞ
小雨が降り出した昼下がり。
長期の任務を終えて血盟城に帰ってきていた俺の目の前には、見目麗しい魔王がいる。
育ち良くきちんと椅子に座り、丁寧にフォークで菓子を切り口に持っていく様は、なんというか庇護欲をそそられる。
どこかの過保護な護衛ではないが。
「うっまー!ほら、グリエちゃんも食べてみてよ。丁度ふたつあるんだし、どっちか好きな方どうぞー」
綺麗に菓子が盛り付けられた皿をこちらに押しやり、丸っこい目を細めて笑う。
「ありがとうございます坊ちゃんー!…で、隊長が好きなのはどちらですか?」
「んー、コンラッドはあんまり食べないんだけど。前に食べてたのはこっちかな、その、クリームがついてない方」
やっぱり、と気付かれないように笑みを零す。
どちらか好きな方と言っても、選択肢はないに等しいのだ。この若き王は気にもしていないだろうが、ここで選択を間違えてはいけない。
「では、俺は違う方を頂きます」
どうぞーと笑う彼の笑顔はやはり可愛くて、菓子を食べながら、今頃仕事を終わらせる為に奔走しているであろう幼なじみを思った。
昔はあんなやつじゃなかった、としみじみ思う。
それなりに女遊びもしたし、誠実だが来る者拒まずだし、あの容姿だから男女問わず相手には困らなかったろう。
それでも長続きした試しはないし、どちらかというとあれも『へたれ』の部類だ。
それがどうだ、今は。
昔では想像もつかない程、この若き魔王陛下にべたべたべたべた。
あいつの頭の中は、きっとこの少年の事だらけだろう。
まあ、16年も再会する事を待ち望んでいたのだから、無理はないが。
「どうしたのーグリエちゃん。俺の顔なんかじっと見て」
声をかけられて、はっとする。
小さな口に菓子が運ばれる動作ばかり見ていたのだが、気付けば彼の口端には菓子の欠片が。
行儀悪くテーブルに肘をついて、手を伸ばした。彼は疑いもせずに俺の動きを目で追っている。
ああ、これはハマるな。
不意に、そう思った。
指先で欠片をつまみ、そのまま自分の口に運ぶ。
にやり、と笑ってみせても、残念な事に彼の表情に変化は見られなかった。
それどころか、子どものような失敗それだけに恥ずかしさを感じているらしい。
まだ幼い表情で笑みを浮かべ、「ありがとー」と言った。
慣れているのだ、ただ単に。
独占欲が強く、甘やかして、それなのに自分は厳しくしていると思っている、あの男のせいで。
面白くない、非常に。
つい出てくる悪い癖をいけないと思いつつも、悪戯心は止められなかった。
内緒話をするように怪しげな笑みを浮かべれば、気付いた彼がそっと身を乗り出した。
「あのー、ひとつお聞きしてもいいですかぁ?」
「なになに、グリエちゃん。内緒の話?」
「ええ、まあ、ちょっとだけ」
声を潜め意味ありげに笑えば、黒い瞳が好奇心で輝く。吹き出しそうになるのをこらえて、そっと問いかけた。
「…坊ちゃんと隊長は、もうヤっちゃったんですよね?」
彼がぱちり、と瞬きする。
みるみるうちに首筋から赤くなり、大きな瞳を更に見開いた。開かれた口からは、白い歯が覗く。
「えええええええ!!??ぐっ、グリエちゃんっ!な、ななな、なんっ、なんで、そんな、えっ!!??」
「いやーん、やっぱりー?グリエ、だーいせーいかーい」
細い眉をへにゃりと下げて、声も出せずに頭を抱える彼。少しやり過ぎたかとも思うが、こんな可愛らしい顔も滅多には見られないだろう。
「なん、で分かるの…?誰か言ってた…?」
「いえいえ、多分気付いてるのは俺だけですよー。でで、いつシたんですか?もうー、教えてくださいよー!」
テーブルに顔を伏せ、目だけでこちらを見上げる。
無意識の上目遣いに、こくりと唾液を飲み込んでしまった。
自分がやられてどうする、急かすように指先でつつくと、彼は意外にも男らしく顔を上げた。
「こっち、帰ってきてすぐ…くらい。ちゅう、したらなんかいつもと違くて…。コンラッドはいつものペースに戻してくれようとしたんだけど、俺が、その…」
「坊ちゃんが、誘ったんですか!」
「いや、誘ったっていうか!…かっこ、よくて。うん…いいんですか?って聞かれて、いいよーって…答えた、だけ」
「ありゃりゃ…」
あの男が、一度は躊躇ったと。
変わったというべきか、やはりへたれというべきか。
「で、その先はどうだったんです?」
「…こそばくて、かっこよくて、エロくて…えっと…」
「気持ちよかったですか」
「………」
答えず更に顔が赤くなる彼の溢れ出るような幸せに、つい口を尖らせる。
いや、ウェラー卿の彼に対する優しさは想像するのに難くない。腐っても夜の帝王、言っちゃ悪いが陛下のような少年を虜にするのは造作もないだろう。
「で、その夜は心ゆくまで愛しあったわけですねーあーやだやだっ!」
「ぐぐ、グリエちゃん!そんな、あのね!い、…一回だけだよ、一回だけ!」
「……いっかい?」
驚いた。
ウェラー卿も男だ、待ち続けて、注ぐべき愛情がいつしか情欲に変わり、思いが通じた後は肉体を望んでいたであろう。
こんなに可愛らしい恋人を前にして、理性を保ち続けられる男がいるものか。ウェラー卿なら尚更だ。
それなのに、一回。
「それは、何の数ですかい…?」
「えっ!あ…うぅ…い、れた数…?」
意識して表情を変えず、椅子に背中を深く預けた。彼は口を引き結び、膝に腕をつっぱねてこちらを見ている。
しばしの沈黙の後、まだ言葉を選ぶ俺に対して、彼は問う。
「なんか、おかしいの…?俺分からないから、教えてよ…」
しまった、と今更ながら思った。完全にやり過ぎた。
そしてなにより、ウェラー卿の溺愛ぶりに驚く。
きっと抑えきれない程の欲望をそれでも抑えて、腕の中で荒い息を吐く愛しい人を優しく撫でたのだろう。
あくまでも快感だけを与え、清らかな時間にしたのだろう。
純真無垢な、恋人のために。
ああ、こんな恋もあるんだ。
傍から見れば、まるで子どものような恋だ。
「いーえ、おかしくありませんよーん。それに、坊ちゃんは幸せそうだ。それが全てじゃないですか」
表情を和らげる彼を、羨ましいと思った。
この世の全ての美しさで飾られているような彼を。
けれど、彼は王だ。
その御身には我らには想像もつかないような苦しみが、あるのだろう。
扉が叩かれ、返事を返す前に開かれた。
嫌みな程、爽やかに微笑む幼なじみ。
「コンラッド!もう仕事終わったの?」
「ええ、すみませんでした。こんな奴と二人にさせてしまって」
こちらに向かって歩きながら、さらりと酷い事を言ってのける。
俺がいる事すら忘れているのか、ウェラー卿は陛下の頬を撫で、仲むつまじげに微笑み合っていた。
「そういえば、この前コンラッドが食べてたケーキだよ。これなら食べられるんだよね」
「…いえ、甘いものはあまり。でも、ユーリのケーキを頂けますか」
「え、食べかけなんだけど。いいの?」
ああ、読めてしまった。
この腹黒い男の魂胆を。
いつまでも大人になりきれていない、独占欲丸出しの男の本性を。
つまり、ユーリ陛下と同じものが食べたいんですよ。
きっと先日この男が食べたという菓子も、陛下の食べかけだったのだろう。気付かれないようにため息をつく。
叶うのならば、このお二方に限りない幸せを。
甘い雰囲気に酔いながら、沸き上がる笑みを隠しきれずに目を閉じた。
雨はもう、あがっていた。
end
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