(また難しそうな顔をしている)
薄く形の整った唇を引き結び、他人から見れば不機嫌だと受け取られ兼ねない表情を浮かべ論文を打ち込んでいる主人。
別段作業が難航しているという訳ではなく、論理の組み立てに没頭し過ぎているだけなのだろう。
比類なき最上の頭脳を宿し生まれた俺の主人は、いつもこんな表情ばかりであまり笑わない。
笑わないというより、表情のパターンが片手で事足りてしまう程に少ないのだ。
ご両親に接している時、研究員に囲まれて作業を行っている時、興味関心を引かれた時、妹さんと会話をしている時。後は、よそ行きの顔かな。
主人の物心がついた時からずっと一緒にいるのに、それぐらいしか見た事がない。
他人から見ればもっと少なく思える表情を見分けられる程近くに、そして長く一緒にいられる俺は他の人に比べれば幸せなのかもしれない。
でも、もっと色んな表情をする主人が見たい。
いつも同じ風景や物ばかりだけど、それ以外を見せて上げたい。
気が遠くなる程広く様々な色で溢れた外の世界を、見せて上げたい。
これが俺の正直な思いであり、出過ぎた願い。
だって、ここは主人を飼い殺し、ご両親とそれを取り巻く人達の理想通りに主人を実用化する為にある場所だから。
ここに押し止められている限り、主人は人であって、人でない。
あの人達は無視するかもしれないけど、俺の主人はね、ちゃんとした人間なんだよ。
組まれたプログラム通りに動くロボットでも、優秀な回路を持つ高性能なパソコンでもなんでもない。
ただ、人よりも秀で過ぎた頭脳を持たされ生まれてきた、ただの人間なんだ。
『主人の笑った顔が見たいなー』
この場所は一方的な取捨選択がされている上に主人を客観的に見つめる人ばかりがいる所為か、頭脳に比べ主人の情緒は中々発達しない。
彼らにとってそれは都合が良いのかもしれないけれど、そんな事は俺にも主人にも関係ない。
本当なら主人が持っていたものを、勝手に取り上げないで欲しい。
つらつらとそんな事を考えていたら、淀みなく一定の速さでもってキーボードを叩いていた主人の指先が不意に止まった。
「…4時17分」
5分以上の誤差が認められる場合は云々、とパソコンから視線を上げた主人が何やら一人でに喋り始める。
いつの間にか、妹さんが下校する時間になっていたらしい。
判を押した様にぴったり同じ時刻に帰って来られる訳がないのに、主人は心配で仕方がないみたい。
彼女が生まれるまでけして見る事がなかった行動に、無機物の俺が本来なら持たない筈の心が暖まる。
眉間に皺を寄せた主人はパソコンの電源を落とすと、そのまま立ち上がり階下へと歩き出す。
毎日毎日繰り返している行動だから、打ち込んでいた論文の内容はまったく理解出来ないけれど、主人の目的は知っている。
妹さんを出迎えに行くのだ
主人と共に真っ白で無菌室じみた室内を見ながら、早く主人の情緒の在りかが帰って来ないかと待ち侘びる。
外の世界には連れ出せないけれど、主人におかえりなさい、と言われ小さくはにかんだ笑みを宿す妹さんを見せる事は俺にも出来るから。





所詮持ち物でしかない俺には過ぎた願いだけど、ただ貴方の幸せを願っています。



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