ただ君がそこに居てくれるだけで、倖せだった。
だけど、それでもひとつだけ。一度聞いてみたかったことがあるんだ。



「ジュード、スープを作るには何が必要だろうか」
腕を組んだまま首を傾げて尋ねるミラは、服装こそ違ってはいるものの、一年前と変わらないまま、そこに立っている。強く、凛々しく、美しく、優しさも何ひとつ、変わらずに。
「……エルに作ってあげるの?」
「ああ。それに私も一度、料理というものに挑戦してみたくてな」
ゆっくりと頬を緩ませるミラは、人が、エルが好きだとその顔が言っている。ミラとして認めて貰えないことなんてどうでもよくて、ただ愛しい人の喜ぶ顔が見たいだけだと。
そして僕は、そんなミラが誰よりも愛おしいと、改めて思う。一年経とうと、きっとこの先どれほどの時間が過ぎても、僕もミラもこうなんだろう。なんとなく、そんな気がした。
「それなら材料を買いに行かなくちゃね」
にこり、と笑ってみせれば、ミラは頷く。確か商店はこの先の道を真っ直ぐに行ったところだったはずだ。
「ジュード、ミラ」
一歩、足を踏み出そうとしたところで名前を呼ばれ、振り返る。暫く旅を共にしていたのだから、声を聞いただけで誰であるかは分かっていたけれど。
「ルドガー。どうしたの?」
「いや、どうってわけじゃないんだ」
ただ見かけたから声をかけたと言うルドガーに、そうか、とミラは笑む。そんなミラを見上げながらルドガーにしがみついたエルは、ミラじゃないよ、と小さく悪態づいた。
エルにとっては僕の隣に立つ青の装束のミラはミラじゃない。その気持ちは、分史世界のミラさんと旅をしていて痛いほど分かった。彼女もまたミラ=マクスウェルに変わりはないけれど、僕が愛おしい人ではなかったから。
だからミラにもエルにも何も言ってあげられず、聞こえてしまっていたらしいルドガーは苦笑いをする。ミラは、あまり気にしていないような素振りをしているけれど、きっと心の深くで傷ついているだろう。あるいは、とても鈍い彼女のことだから、自身の胸の内にすら気付いていないのかもしれないけれど。
「ルドガー、僕たちは」
これから買い物に行ってくるね、と告げようとしたところで、ルドガーのGHSが鳴り出す。慌ててエルは離れて、ルドガーはホルダーからGHSを取り出した。
『新たな分史世界が発見されました』
GHS越しに聞こえてくるヴェルさんの言葉に耳を傾ければ、どうやらまた、新しい分史世界へと飛び立つことになったようだ。今、ルドガーの傍には僕とミラしかいない。他のみんなを探す時間も惜しいだろう。そう思ってミラを見れば、ミラもまた同じ考えだったようで、宝石のような赤と目が合い、こくりと静かに頷いた。
「ルドガー、私も同行しよう」
「僕も行くよ」
通話が終わると同時に告げれば、助かる、とルドガーは頷き、時計の力が世界を歪ませる。
分史世界への移動はほんの僅かな揺れを感じると気付いたのはごく最近のことで、時間もそうかからないせいか、本当にここが分史世界なのかと思ってしまうこともあった。けど、やっぱりどこか違う世界で、僕たちは僕たちの守った世界のために、戻らなくちゃいけない。時歪の因子を壊して。
「ここは……ル・ロンドか」
ぐるりとミラが辺りを見回す。故郷を間違うはずもなく、ここはもう十年以上住んでいた町に違いなかった。
ただ少し違和感を感じるのは、周囲にあまり人の気配がない。もともと人口の多い町ではないにしても、こんなに天気が良いなら、散歩をしている人がいてもおかしくないのだけれど。
「あっ、二人ともこんなところにいたのね!」
聞き覚えのある高い声に、思わずびくりと肩が震える。そうして振り返れば、ふわふわと宙を浮いてこちらへ向かってくるのは、ミュゼだ。眉を釣り上げて怒った様子のミュゼは、僕たちの目の前で止まると腕を組み、呆れたように溜息をついた。
「それに、まだ着替えてないじゃない。もうすぐ結婚式の時間よ?」
さらりと出てきたミュゼの言葉に、思わず固まってしまう。
今、結婚って聞こえた、ような。
「けっこん?」
エルはルドガーの足元から顔を覗かせて首を傾げると、ミュゼはその声でようやく気付いたらしい。あら、と声を弾ませてエルを覗き込むと、楽しそうに笑った。
「ふふ、そうよ。ジュードとミラのね」
ミュゼの言葉を受けて、エルがこちらを見上げる。けれど僕は苦笑するしか出来なくて、ミラも困惑するように首を傾げるばかりだ。
一度深呼吸をして、思考を巡らせる。そうだ、ここは分史世界で、この世界の僕とミラは。
「とにかく!早くしないとみんな待ちくたびれちゃう。ミラは私が手伝うから、あなたはジュードをお願いね」
「えっ、お、おい、ミュゼ!」
ルドガーへ言って手を振ると、ミュゼは動揺するミラにも構わずぐいぐいとその背中を押して行ってしまう。
呆然とその背中を見送って、見えなくなった頃にルドガーの方へと振り返れば、肩をすくめる。ミラには申し訳ないけれど、この間に僕たちが時歪の因子を探すしかないようだ。
何が一番怪しいかと言えば、間違いなく僕とミラだろう。今得た情報の中で正史世界と大きく違っているのは、僕たちしかいない。結婚式をするというなら、この世界の僕やミラもきっと、どこかに。
「多分、僕かミラが怪しいよ。探そう」
「ああ」
今またミュゼに見つかったら、やっかいなことになってしまうだろうから、ミュゼとミラが消えた方とは逆側に走り出す。
中央通りに人通りがないのは、結婚式のためにみんな出ているせいなんだろうか。だとすればこの世界の僕とミラは、随分と町の人にも愛されているようだ。
胸の奥が、ちくりと痛む。この痛みの意味を、僕は知っているけれど、気付かないふりをした。そうしなければ、いけないから。
僕の家の前、マティス治療院の前を通り過ぎる。いつもは怪我や病気の人だけじゃなく、ちょっとした話相手のためにも人の集まるその場所が、今は人気がないかのように静かだ。思わず入口の方へと目を向ければ、建物と塀の隙間にちらりと、人影が映る。白衣と、金の髪。
「いた」
静かにルドガーへ告げて、足を止める。ゆっくりと戻ってもう一度確認すれば、建物と木で隠れるようにして、この世界の僕とミラは、そこにいた。
「どうしたんだ、こんなところへ連れて来て」
「ごめん。式の前にどうしても渡したいものがあったから」
塀の影からそうっと顔を覗かせれば、この世界の僕はポケットから何かを取り出す。広げられたそれはどうやらネックレスのようで、シンプルなつくりでありながら、胸元を飾るようにきらきらとした宝石がいくつか連なっていた。
「昔、一緒に旅をしていた頃、ミラからペンダントを貰ったことがあったでしょ?そのお返し」
そう言ってこの世界の僕は、ミラの首元へネックレスを通す。するとミラの胸元で、宝石たちは一層明るく光ってみせた。そうして中央にある一際大きな水色に、ミラの指先が戸惑うように触れる。
「確かにそんなことはあったが……しかしあれはただのガラス玉で、」
「いいんだ。石の価値とか、そんなものは重要じゃないから」
こんな高価なものは受け取れないと言いたいのであろうミラの言葉を遮って、この世界の僕が首を振る。
その通りだ。僕に取ってあのガラス玉で出来たペンダントは、そのものの価値よりずっと、意味がある。思わず胸元に隠してあるそれを握り込むとまた、ちくりと痛みが胸を刺した。
「あ……っ!」
エルが小さく声を上げると、この世界のミラへ送られたネックレスの、水色の石が鈍く光る。あれは、時歪の因子だ、と。
ミラ自身でなかったことにほんの少しだけ安堵して、し、と人差し指を唇にあててエルを見る。まだ、手を出すべきじゃない。その意味を理解してくれたのか、エルはこくんと小さく頷いて、ルドガーの傍で縮こまった。
「用事はそれだけ。じゃあ僕は着替えてくるね」
一歩、この世界の僕が後退する。するとミラは鈍く光る水色を愛おしそうに抱きしめて、微笑んだ。
「ジュード」
真っ直ぐな音に呼ばれて、僕じゃないと分かっていながらも鼓動が跳ねる。この世界の僕も、そうなんだろう。結婚するまでに至ってもそこは変わらないらしく、びくり、と肩を揺らしていた。
「ありがとう」
「……うん」
やわらかな声に言われて、頷く。そうしてこの世界の僕はほんの少しだけ顔を赤らめたまま、僕たちに気付くこともなく、横をすり抜けて走り去っていった。
風のように駆けて行く僕の後ろ姿が消えて、ミラへと視線を戻す。するとミラは、とうに見えなくなってしまったこの世界の僕の姿を追うように、愛おしげな瞳で進んだ先を見つめていた。
「ジュード」
不意にルドガーに呼ばれ、はっとする。そうだ、ぼんやりとしている場合じゃない。時歪の因子を壊さなければ。
「僕が行ってくるよ。ルドガーとエルはここにいて」
そう告げれば、ルドガーとエルは同時に頷く。そんな姿に思わず笑んで、前へと向き直る。都合良くこの世界の僕は、僕と同じ格好をしていたから、今出て行けば僕のふりを出来るはずだ。たとえ分史世界のミラだったとしても、もうミラとは戦いたくないから、出来れば穏便に終わらせたい。
ぎゅ、とガラス玉を握る。ミラは、無事だろうか。そう一瞬考えて、ふるりとかぶりを振った。
「……ミラ」
僕が呼ぶべき相手ではないけれど、そう呼び掛ければこの世界のミラは振り向いて、首を傾げる。優しげに細められた赤い瞳は、僕の愛しいミラと同じ色をしていて、息を呑むほど綺麗だった。
「どうした、着替えてくるんじゃなかったのか?」
「あ…うん、そのつもり…だったんだけど」
ざくりざくりと草を踏んで、ミラへと近づく。一歩たりとその場から動かないミラは、世界を想う真っ直ぐ凛々しい表情ではなく、やわらかに笑みを浮かべていた。その姿はまるで彼女が愛した人間のようで、胸が痛む。
ミラがこうなるまで、僕は、彼女は、何を乗り越えてきたのだろう。どれほどの山を登って、谷を越えて、どれほどの傷を負って得たのだろうか。
考えても仕方ないと思いつつ、脳裏に浮かんだそれは消えてくれない。出来るだけ考えないようにと自分に言い聞かせながら、ゆっくりと口を開いた。
「えっと…ごめん、そのネックレスなんだけど…」
「ああ、これか」
本題を切り出せば、シルフに結って貰ったという翡翠色がかかった髪が揺れる。そうしてミラはまた、愛おしそうに鈍く光る石をなぞると、ふふ、と小さく笑った。
「これはジュードがくれたんだ。君ではない、ジュードが」
「え?」
石を握り締めて顔を上げたミラは、僕の知るミラと同じく、真っ直ぐでどこか厳しい瞳を向ける。指の合間から禍々しい光が零れ、ぞくりと背筋が震えた。
「…君は、ジュードだがジュードではないな」
「どうして……」
確かにこのミラが知る僕ではない。だけど、姿も格好も同じはずなのにどうして、気付かれてしまったのか。それを渡してくれないなら、戦わなくちゃいけなくなってしまうのに。それだけは、したくないのに。
「ふふ、どうして、か」
ミラはおかしそうに笑う。風が吹いて、金色の髪がふわりと揺れた。
「私はジュードを愛しているよ。それくらい見抜けないでどうする?」
そうだろう、と言い聞かせるようにミラは言って、自身の首の後ろへ手を回す。そうしてネックレスの留具を外すと、宝石の散りばめられたそれを掌へと移した。
黒い光はミラの手から溢れ、ミラはその手をこちらへと差し出す。
「これが、君にとって必要なものならば好きにするといい」
真っ直ぐに見つめてくるミラは、その言葉に揺るぎがない。きっと本気で、僕が必要なら渡していいと思っているんだろう。この世界の僕じゃ、ないのに。どうして。
「そんな簡単に渡していいのか?」
疑問に押しつぶされて動けないでいる僕の代わりに、ルドガーは陰から姿を見せて、問い掛ける。けれどミラは取り立て驚いた様子でもなく、まるで二人がそこに隠れていたなんて最初から分かっていたかのように、ああ、と頷いた。
「この世界が間違っていると言うなら、それでいい」
そっと目を伏せる。長い睫毛は、僕の知るものと同じように見えた。
「……ミラは全部知ってるの」
「さあ、どうだろうな」
瞼が持ち上がり、赤い瞳は僕を試すように問い掛ける。そんなの、ずるいよ。
この世界の僕とミラが、僕たちと同じように世界をかけて戦ってきたのを、今更僕に委ねてしまうなんて。
「……どうする?」
壊すしかないと分かっていながらも、ルドガーも困惑しているようで、顔を覗かせる。壊すしかない、僕たちが前へ進むためには、そうするしかない、けど。
「……ごめん。少しだけ、待って」
そう告げれば、ルドガーは静かに頷いて、一歩後ろへ下がる。エルがどこか心配そうに見上げているのは分かっていたけれど、笑みを向けてあげるような余裕はなくなっていた。
「ひとつだけ聞かせてください」
真っ直ぐ、ミラを見つめる。ルビーよりも深い赤の瞳にはしっかりと、僕が映っていた。僅かに首を傾げ、輝きの褪せない髪が揺れる。
「あなたは…今、倖せですか」
この世界がどんな戦いを乗り越えたのかは分からない。目の前にいるミラが人となることを望んだのか、それとも精霊として再びこの地に至ったのかすらも、僕には判断出来ない、けれど。
ミラが、僕と共にいて、倖せなのか。それだけが知りたかった。本当は僕が愛するミラに聞ければよかったんだろうけど、それは出来ないから、せめて。なんて、本当にずるいのは僕の方だ。
風が吹く。ざわざわと木の葉が音を立てると、ミラはその瞳をゆっくりと細め、口角を上げて、とても甘く微笑んだ。
「………ああ、とても」
はっきりとした、音からでも伝わるほど倖せそうな声に、胸の奥が少し軽くなる。そうか、ミラは、倖せなんだ。
「そう、ですか」
良かった。安堵して言えば、ルドガーはどう取ったのか、心配そうに顔を覗き込む。大丈夫、そう伝えるべく笑おうとしたけど、上手く笑えない顔を向けてしまった。
「……いいよ、壊して」
「でも……」
「いいんだ」
はっきりと言い直せば、ルドガーは頷いて時歪の因子へ向き直る。外殻の力を使って変身すると、闇色を放つそれへと槍を向けた。
やがて槍は、水色だった石を突き刺す。そうして現れた時歪の因子は壊れ、あとは世界が壊れるだけ。
「ジュード」
目の前のミラはまだ笑っていて、僕は俯いてしまう。今から消えてしまうのに、倖せそうに微笑むミラの顔を、これ以上見ていられなかった。
「君の愛する私も、きっと同じだよ」
優しい声が耳を撫で、慌てて顔を上げる。けれどそれももう遅く、パリン、とガラスが割れるような音と共に、分史世界は崩れていった。
視界が歪む。時空を超える、ほんの僅かな違和感が終われば、ぐったりとした様子で地面に座り込んだミラが、そこにいた。
けれど、すぐに声を掛けてあげることは出来なかった。足がすくんで、金色の髪から覗くつむじを見下ろすしか、出来ない。
動けないままでいる僕の代わりに、ルドガーはその場へしゃがみ込んで、ミラを覗き込む。エルは、離れて顔を背けてしまっていた。
「どうした?」
「ああ、いや、少しな……」
そう言ってミラは顔を上げると、見ていたつもりはないのにどうしてか自然と目が合ってしまう。そうしてミラは首を傾げると、ゆっくりと立ち上がった。
ミラの腕が伸びる。手が、指先が僕の頬に触れて、掌が包む。強制のしない力で顔を持ち上げて、その瞳の奥が覗けるほど真っ直ぐに、見つめた。
「ジュード?」
どうした、と尋ねるミラの指先に手を重ねる。するりとミラの手は離れて、弱く握り込んだその手はあたたかい。
横目に映るルドガーは、静かにエルの手を握り、背を向ける。気を使わせてしまったかもしれない。あとで、御礼を言わないと。
「ねえ、ミラ」
握ったままの手に、力が篭る。ミラは首を傾げて、きょとんとしていた。
本当に同じなのか、知りたいと思った。けれど、それを問う勇気が、まだない。僕の知るミラは世界を愛して、人と精霊を愛しているから。彼女のように、僕自身を愛しているとは、言っていない。そうであればと思ったことは、数え切れないけれど。それは僕の幻想で、ミラじゃない。
でも、それでも良かった。ただ僕は、僕は。
「……ごめん、やっぱりなんでもないよ」
やっぱり口には出来なくて、首を振る。ミラは不思議そうな顔をして、そうか、と軽く答えた。
ゆっくりと手を離せば、ミラは離れていく。自分から手放したくせに惜しいと思うのは、やっぱり僕がずるいからだろうか。欲しいと言えないのは、いつまで経っても変わらない。
「ならば深くは問わないが……ジュード」
離れたはずの手が、再び繋がる。離れたはずの視線が、再び絡んだ。
「君が望む答えかは分からないが――」
凛とした声が響く。分史世界の彼女のように甘くはないけど、愛おしげな音で、微笑んで。
そうだ、僕はミラが。目の前で世界が愛おしいと笑んだミラこそが。



「私は、皆と…ジュードと再会し、また旅を共に出来て……とても倖せだよ」







>>2013/01/23
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